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レッドローズ

 旅行当日。

 家を出るときは母のいない時間帯を選んで、リビングの机の上に「しばらく旅行に行って参ります。夏休み最終日に帰ります」というメモを置き、お手伝いさんにも見つからないようにそっと家を出ていた。こんなに後ろめたいことをしたのは、初めてだった。

 ほうっと胸を撫で下ろし、キャリーバッグを転がしていくと、足がどんどん軽くなっていく気がした。その油断を狙っていたかのように、後ろから近づいてきた車が私の真横にとまっていた。見覚えのありすぎる黒塗りの高級車だ。

 背筋に冷や汗が流れるのと、同じスピードで後部座席の窓が開き、見たくもない黒髪をオールバックにしている男が色白の顔をだした。


「紅羽。大荷物抱えて、どこいく気だ?」

 兄の弘嗣は、母の分身。実際三歳年上の兄は、役員として影山ホテルグループの名前に名を連ねており、ゆくゆくは代表取締に就任することを匂わせている。

「質問に答えろ」

 もしも、母に見つかっていたら、こんな風に、鋭く問いただされていただろうなと思う。

 話し方も、鋭く吊り上がった双眸も、母にそっくりだ。

 思わず、怖じ気づいてしまいそうになるが、ここまできて引くわけにはいかない。

「前に相談していた旅行です。メモは残しておいたので」

 声は震えてしまったが、何とか答えて、私は駅へ走っていた。

 飛行機に乗っている間も、頭にはぐるぐると二人の怒りの声が木霊していた。

 

 

 しかし、飛行機の下にヨーロッパの煌びやかな町並みが見えてくると、二人のことなど頭から消し飛んできた。

 飛行機を降りて、最初に降り立った地は、ドイツ。

 みんなでバスに乗り込む。車窓から見えるすべてのものが、壮大で美しい。すべてに心奪われた。

 

 街について、散策すれば、オープンテラスで、顔の大きさくらいあるビール片手に、赤い顔をしながら飲んでいる。ドイツ人は、日本人と似て、真面目な人たちとが多いと聞いたが、スケールが全く違って見えた。人の顔色を伺っている日本人とは全く違って開放的で、陽気だった。

 そこから、西へ進めば進むほど、その濃度は色濃くなって、陽気さと自由度はさらに広がっていった。

 

 煌びやかな水面。青い海。鮮やかな街並み。

 どの国においても、一番衝撃を受けたのはそこに住む人々だった。

 自然体で、明るくて、だいぶ大雑把。

 私がずっと教え込まれてきた世間体とか、謙虚さとか、作法なんて、どこにもなかった。

 カフェでは、昼からワインを嗜んでいたし、ファッションも多種多様。

 豪快な笑い声があちこちから聞こえてくる。

 

 カルチャーショックどころの騒ぎではなく、私の人生観に両手で掴まれシャッフルされるようなな感覚に陥り、眩暈がしそうだった。

 一緒のツアーに参加している子たちは、すぐにその雰囲気に馴染んで、現地の人達ともすぐ打ち解けていた。けれど、私は適応能力が低いせいかなかなかついていけずにいた。いつもみんな夜はどこかしらの店に行って飲んでいたけれど、私はいつも不参加。私を拘束するものは何もないし、自由を謳歌すべきなのに。あまりに自由すぎて、足が竦んでしまっていた。

 それでも、私なりに異国の地を楽しんでいたのだが、中盤のイタリアまで来たとき、いつもみんなを引っ張っていた後藤健太が、すっと横にやってきていった。

 

「そろそろ、自分の殻を破って、楽しもうよ。こんな経験、一生のうちにもう二度と味わえないかもしれないんだからさ。楽しまないと損だよ」

 

 私は背中を押されて、みんなが集まるイタリアのローマのバーへ初めて参加した。

 一人だけ浮いていた人間が、急にやってきて、みんなは驚いた顔をしていた。その視線が痛くて、縮こまる。やっぱり、帰ろうかなと、後ろ向きになったとき、後藤は私の横に立って、半ば強制的にグラスを持たされた。

「影山さんの初参加に乾杯!」

 掛け声とともに、グラスワインを合わせる。カキンと高らかな音が高らかに響いた。みんなの空気が変わった。

「影山さん、ずっと、待ってたよ!」

「今日は、みんな酔いつぶれるまで飲もうぜ!」

 疎外感を漂わせていた微妙な空気が、一気に吹き飛んで、私を温かく包み込んでくれる。

 涙が出るほど、うれしかった。

 これまでの私の門限は、二十時。日が沈むといつも、その時間を気にしたけれど、すべてが吹き飛んでいた。

 そのあとは、みんなで夜中に街を歩いた。みんなの笑い声が、気持ちを明るくさせてくれた。

 目に映る景色が、何もかもが新鮮で、色鮮やかに透き通って見える。


 楽しい。

 こんなに毎日、楽しくていいのだろうか?

 突然、そんな不安に襲われそうになったけれど、小高い丘からパリの街並みを一望すれば、すべてきれいに消え去ってくれていた。

 目を細めて、心に刻み込んでいるとき。ふと、後藤が私の横に立って同じようにパリの街へ目をやっていた。

「ずいぶん熱心に見てるね」

「はい。もう二度と来られないと思うので、忘れないようにしないとと思って」

 心のシャッターを何度も切りながら答えると、後藤はいった。


「影山さんって、影山ホテルの社長令嬢なんだろ?」

 その瞬間、素晴らしい景色が、美しい街並みがどんどん色あせ、廃れていくような気がした。

 

 大学入学してから、友人と呼べるような人はいなかった。

 それ故に、私の家のことなど、誰も知らないと思っていたのに。

 どうして。


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