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花園の鍵  作者: 羽切 愁慈
Episode.
7/7

Ep.5 火種は二転し、三転し。

 噂の件から二週間。

 鞠ナ(まりな)はというと、完全にクラスから孤立してしまっていた。

 グループワークはおろか、必修の座学でさえもまともに受けられない程に悪化していた。(きく)を始めとした年配の教師陣は気にしないさまを見せていたものの、授業中の妨害行為は激化。すでにいじめの域に達していた。


 授業以外でも、鞠ナは複数の生徒から意地悪されてばかりで。

 休憩時間中は特に酷く、トイレの洗面で手を洗っているだけで突如髪を切られることなど最早慣れてきて感覚も麻痺しそうになっていた。


「やだ~、中峰(なかみね)さんこれどうしたの? イメチェン?」

「え……いっ、嫌……何これっ!!」

「自分で切ったんじゃな~い? 記憶無いんでしょ? アハハッ!!」

「あっ、あんた達が切ったのね?! やめて!!」

「うわこっわ。そんなんじゃ友達いなくなっちゃうよ?」

「待ってよ、既に友達いないコに言っちゃ可哀想じゃ~ん。」

「確かに!!! アハハハッ!!」

「やめてっ!! 離してっ!!! 嫌――――ッッ!!!!!」


 必死の抵抗も空しく目の前で歪に切られていく髪に、鞠ナは涙をぼろぼろとこぼす。その間もゲラゲラと下品な声を上げる彼女ら。ひとしきり悲鳴を聞いた頃、ようやく予鈴がなり女子達は笑ってトイレから出ていく。


 それだけじゃ飽き足らず。

 悔しさと惨めさから込み上げる涙を耐えながらも鞠ナが教室に戻った時には、机の上ががらんどうになっていた。教科書類だけでは済まず、机の中も持ってきていたカバンも無くなっていて、代わりにと野草が添えられていた。


 か細い声で恋雪(こいゆき)が声をかけるも、鞠ナは首を振って断る。


 誰がこんなことをしたのか確実に分かっているのに鞠ナ自身にはこれを解決する力も能力も無いことに歯をギリギリと噛み締める。


「…………っ!!」


 遠くから鞠ナをあざ笑う声が聞こえても、もう振り向くことは出来なくなっていた。


(一体、私が何をしたというの? 私は誰かに恨まれなくちゃならないの?)


 年若い少女の柔らかな心が溶け堕ちるには十分な仕打ちだった。



*****



 その日の夕食時。

 鞠ナは食堂に現れず、以降彼女の姿を見かけた人はいなくなってしまう。


 恋雪は夕食時間いっぱいまで待っていたが、一向に現れない様子にどんどん落ち込んでいった。恋雪を心配して隣に座る今日子(きょうこ)も、かける言葉が見つからないようであった。


「おーい、恋雪ちゃーん。そろそろご飯食べないと冷めちゃうよー。」

「…………。」

「ほらほら~、あー美味しいご飯なのになあー。えーっと……そ、育ち盛りはー……ご飯、食べなきゃー……なんだけどなー。」

「………………。」

「そうだなー……。そうだねえ……。」


 今日子は言葉を失ってしまった。

 恋雪はひたすら俯き、唇を嚙み締め続ける。唇が腫れてもお構いなしに、小さく震えながら拳を握り続けている。優しい、誰よりも優しい後輩のそんな姿を見て、今日子は無力感に苛まれていた。


「大丈夫だよ恋雪ちゃん。きっと、帰って来るよ。」

「…………っ……。」


 適当に話す今日子に、恋雪も思わず言い返そうとしたが彼女の瞳を見ては、思い毎飲み込んでしまった。すると恋雪の目じりから堰を切ったように涙があふれた。


「……っ、……っっ!! うぅ、うううっ……っ!」


 拭うことはしない。誰のためでもない自責の涙は溢れて零れ落ちるくらいで今の恋雪には丁度良かった。今日子も慰めるようなことはせず、ただ黙って恋雪の手を握りしめていた。


「うぅ……っ、…………鞠、ちゃん……っ!」


(鞠ちゃん、お願い……帰ってきてとは、言わないから。せめて一人でいようとしないで。お願い。)


 恋雪はひたすらに言葉にならない嗚咽をもらしていた。

 その姿を通りがかった誰に見られようとも、思いが留まることは無かった。


 ひとしきり泣きじゃくると、恋雪は初めて目元を拭う。


「ごめん、なさい。今日子先輩……。」

「だいじょ~ぶ、だいじょ~ぶ。こーゆー時くらい先輩に頼りなさいなー。」

「ふふっ……ありがとうございます。」


 少しだけ手元を見つめてから、何かをかき消すようにゆっくりと首を振る恋雪。

 そして今日子の方へ向き直ると自分を鼓舞するように力強く頷いて見せる。


「私、強い女です。我慢強い女ですっ!」

「よしよしっ、その意気よ~。」


 今日子は恋雪を思いっきり抱き寄せて、わしわしと勢いよく撫でまわす。

 恋雪が落ち着くまで、食堂で他愛のない話をして笑って過ごしていた。



*****



 その頃、鞠ナは一人で構内をとぼとぼと歩き回っていた。

 恋雪と顔を合わせるのが気まずく、食堂へ行けばまた何かされるのだと思うとどこへ行く気にもなれなかった。そうして気付いた頃には、いつだったかの地下十階に着いていた。


「あ、れ……ここは……?」

「んあ? なーんだよ、ダーリンじゃないじゃん。」


 唇を突き出してあからさまに不機嫌な様子を見せる少女。

 それはいつだったか、鞠ナの腹を食い破ってきた少女自身だった。


「どうして貴方が――――っ!!」

「んーー? おお、やっほー。」


 少女は至って普通に、笑うこともなく、驚くこともなく、ただ挨拶を送る。

 だが鞠ナの中は、既に過去の出来事が走馬灯のように駆け巡っており顔を引き攣らせることしかできなかった。そしてその様子に気が付いた少女はにんまりと口角を上げ、幸せそうにニタニタと鞠ナに話しかける。


「なあお前、傷治ったあ~?」

「え……。」

「傷ぅ。治ったかって聞いてんだよぅ~?」

「あ、な……治った……。」


 歯切れ悪く答える鞠ナに少女は訝しげに睨む。


「てめぇ、んなうざかったかあ?」

「は……っ。」


 鞠ナ自身は気が付いていないものの、口からは空気ばかりが漏れ、声が出なくなっていた。


「あーあ。興ざめした。お前ついでにこれ片づけといて。」


 少女は振り向き、手だけで合図をすると部屋の奥へと歩いていってしまった。

 鞠ナが恐る恐る少女が指した先を見ると、血だらけになった人間らしきものが無造作に転がっていた。


「ひっ……!」


 鞠ナが小さな悲鳴をあげた瞬間、どこからか手が出てきて視界を覆われた。


「あぁ~~ら、アンタ何しに来てんのヨ。」


 いつもと同じ言葉遣いだが、その声色はうんと低く怒りが滲んでいた。その声に鞠ナは金縛りにあったように動けなくなってしまう。


「そんな死にたいのねえ。」

「そ……ちがっ…………。」

「んん~~、アタシもごもご喋るガキとかうざったくてしょうがないのよねえ。」

「あだッ……!」


 視界を覆った手で鞠ナの顔を無理矢理振り向かせると、前髪ごと頭をひっつかんで頭を上げさせた。

 そして見たこともないほど怒りを見せた管理人――(えんじゅ)が鞠ナの鼻先にぐっと顔を近づける。


「何してんのか言ってみなさいよ。舐めくさってんじゃないわよ?」


 ごくりと唾を飲み込む瞬間、少女が間に入って鞠ナを突き飛ばした。


「ああああーーーーーっ、もうっ、イライラすんなあっ!!! 死ねっ!!! 死ね死ね死ね!!! 近寄んなザコ!!!」


 怒涛の悪口に鞠ナはポカンとするしかなかったが、それ以上に槐が驚いていた。


「はあ…………?」

「死ね!! 槐も死んじゃえばああ?!?!」

「ちょっ、待ちなさいよ! (あい)!!」


 名前を呼ばれたのか、少女はその場に固まった。鞠ナはついていけず、少女が小学生並みの暴言を槐に浴びせるその様を見守ることしかできなくなる。


「うるさいうるさいッ!! 都合よくボクを呼ぶな! バカ槐!!!」

「なんなのよ急に……全く、アンタも相ッ当面倒くさいわねえ。」

「面倒くさくないっ!!! 槐が余計なことしなきゃいいんだよお!!! ああああイライラするううっっっ!!!!!!」


 少女――()が、槐に飛びかかり拳を振りかぶる。だが、槐と顔を合わせた途端にその拳はだらりと下ろされ今までが嘘かのように突然冷静さを取り戻した。


「今日はやけに素直なのねえ。」

「……黙れ。」


 にやにやして煽る槐をギリっと睨むと、それから愛はそっぽを向いて静かに黙りこくってしまった。

 鞠ナがあっけに取られていた内に口喧嘩は収束していた。


「あの、槐さん……。」

「何。」

「私がここに来たのは、たまたまよ。その、行くところが無かったの。」

「それが何。理由になるとでも思ってんのかしら?」

「いや、だって、本当だから……。」

「その()()()()喋るのやめなさいって言ったわよね。頭まで馬鹿になっちゃアタシも困るわあ。」


 頬に手を当て、わざとらしい声を出す槐。だが鞠ナは、それに構ってられない状況になっていた。


「で。なんなの? ボクの邪魔をしにきたの?」

「ちっ、違うわよ。そもそも私、ここで貴方が何してるのかも分かってないのよ。どうして怒られるのかも。理不尽、極まりないのよ……。」

「だから何だよ。」


 一瞬、かちゃりという音と共に鞠ナにとってのトラウマが横目に映る。


「あっはははははははは!!!!!!!! いいよ、いい、すっごくいいジャン!! ああどうしよう、ボクって、誰かがボクに反抗してくるその顔がだ~~~~~い好きなんだあ~~!!!!!」

「それは……良かったわね。」

「でしょ?! 分かる?! なんだ、話分かるじゃん。なら最初から言ってくれて良かったのに。」


 愛は手を広げ、天を仰ぐようにすると突如、表情に影を落とす。


「私、別に反抗なんて……。」

「で。ボクに何する気なワケ?」


 呆れの入った低い声に、鞠ナがハッと顔を上げたのが早いか。愛が襲いかかる。しかし、何とか視界の端に捉えた何かと共にその距離は離される。


「ぐゔ……っ!!」


 鈍い音と共に、振りかぶった拳をもろに顔で喰らった鞠ナは、勢いよく跳ねて床を転がっていく。


「あ゛ッ! がァッ! あ゛ァッ……!!」


 そんな姿を見ても、愛はまるで音の鳴るおもちゃで遊んでいるかの如く楽しそうにケラケラと笑っていた。


「アハッ、アハハハハハッ!! なあにそれ~! 真正面から受けるとかマジ?! 避けるのも嫌ってかあ?? ギャハハッ!!」


 すぐに鞠ナの体は、そのあちこちが軋むように痛みだす。少しでも動かすことが難しく、起き上がるだけでもえずいてしまう。


「あああ、うぇ゛っ……、いだ、い……痛いぃぃ……。」


 ついに彼女は腹から湧き上がる吐き気に耐えられなくなり、その場に吐しゃ物をぶちまけた。びちゃびちゃと音を立てながら、痛みの誘うまますべてを吐き出していく。


「う゛お……ぉ、おえ゛っ……! げ、え゛ぇぇぇぇっ……!!!!」

「ちょっ、汚いなあ……。うえーっ! ねえ槐、気持ち悪いんだけどこの匂いどうにかしろよ!!」

「はあっ。はあっ。ゔぶっ……おえ゛ぇぇぇッ!! ……く、はあっ……はあっっ!!」


 ぜいぜいと気道が狭まる音と共に、鞠ナの呼吸は早くなっている。愛が不満をぶちまけて喚く間も彼女は息を吸うので精一杯。

 その姿を見て誰よりもつまらなさそうにするのは、槐だった。


「…………。」

「……ッ、はあっ……はあっ……!」

「ねえ。」

「……ッ、はあっ…………はあああっ……!」

「聞いてるの?」

「……ふッ、う…………っ! …………っ!」

「喋んないと分かんないわよお。」


 槐は一分の躊躇もなく鞠ナを蹴飛ばした。鞠ナの体は丸めた紙ごみの如く簡単に吹き飛び、鈍く痛々しい音をたてる。


「いっ、がああァァ……ッ!!!!!!」


 だが鞠ナに痛みを感じる暇はなく。襟ぐりを掴まれ、無理矢理立たされると、足の骨にひびが入っているのか上手く地に足がつかない状態まで持ち上げられる。


「ボク、お前のことマジできらい。」


 低い威嚇の声と共にぴたりと冷たい何かが首筋に当たると、鞠ナは生唾を飲み込む。

 背後からツタを回され、刃物のような金属が確実に頸動脈に当たっている。首を逸らして少しでも離そうとするので精いっぱいだった。異様な緊張に吞まれてしまいそうで、鞠ナは震える唇で会話が途切れないよう慎重に言葉を続ける。


「はあ……ッ、むしろ、どうして信じてくれないのよ……。それ以上も以下も、大した理由も無いわ。」

「じゃあなんでお前みてえなガキが構内うろうろしてんだよ。どうせ逃走でも目論んでんだろ。それとも死に場所探してたんじゃねえのかよっ!!」

「本当に、待って……っ!!」


 勢いで首筋にぷつりと小さな穴が空く。

 鞠ナはたらりと垂れるそれが血液なのか冷や汗なのかもよく分からないまま、出来るだけ平静を装ってみせる。動こうものならタダでは済まないこの状況に、戸惑いなど抱える暇も無い。


「何も、しようとしていないわ。本当よ。私、学校での居場所が無いの。」


 できるだけ簡潔に、短い言葉を選んでいくと、愛ではなく槐が訝しげに尋ねてくる。

 とっくに限界を過ぎていた鞠ナの腕は、傍目に見ても折れているであろうとんでもない方向を向いていたが、心配はおろか、見向きもしない槐は淡々と語りかける。


「クソガキ。あんた本当に邪魔しかしないんだから、あっち行っててちょうだい。」


 言われた愛も黙ってはおらず、なんとか槐に一手でも仕返ししようと試みたものの、軽くあしらわれてしまう。


「痛……っ、~~~~もう!! なんなんだよおお!!」


 愛はむくれた顔でテクテクと壁際へ向かう。彼女にとっては、ぽっと出の薄汚い何かにばかり構う槐が大層面白くなかった。

 それでも槐に言われるならと我慢をして、文句を言いながらなんとか引き下がる。

 

「居場所ォ……?」

「えぇ。いじめ、とまではいかないけれども。ちょっと……嫌な思いすることが多くて。」

「ふぅん。ま、アンタって人から嫌われるタイプよねえ。嫌味ばっかり文句ばっかり、あーだこーだと屁理屈重ねるだけで自分じゃなーんにも行動しないって、うざったいったらありゃしないワ。」

「……。」

「なによ。言いたいことあんなら言ってみなさいよ。睨めば周りの大人がよちよちしてくれる甘ったるい温室で育った(ボク)チャンには難しかったかしらあ?」

「……っ、…………いえ、別に。」


 反論するでもなく、言葉を詰まらせうなだれる鞠ナに、槐と愛は顔を見合わせる。

 槐があごを使って合図を送ると、愛は大人しく刃を収めた。

 鞠ナは大きなため息をつき、刃先が当たっていた箇所を優しくさする。ふと手のひらを見ると血にまみれてしまっていたがもう一度ため息をつき、ハンカチで血液を拭う。


「なんか、どうでも良くなってきました。めちゃくちゃな人と居ると、感情もめちゃくちゃになりますね。」

「本当にさっきからなんなのよアンタ。構ってちゃんとかアタシから見ても古いわよ。」

「そうじゃなくって、こう……………………他の生徒からの嫌がらせがエスカレートしていて、色々と限界になってたんです。」


 鞠ナは初めて、自分の感情を素直に吐露する。ぽつり、ぽつりと呟く言葉を、槐も愛もただ黙って静かに聞いていた。


「私、殺人犯として噂されているんです。噂だけだったらなんともないんですけど、悪人なら何してもいいって人がクラスにいて。食堂で噂していた人達がいたから、私、彼女達の癪にさわったらしくて……。」


 徐々に鞠ナのプライドがほぐれるにつれ、堰き止めていたSOSが雪崩こんでくる。爪を食い込ませて拳を握っても、体の震えが止まることは無かった。


「私、何も、してないの。噂だけが一人歩きしていて、殺人犯だのデコイだの、身に覚えのないことで罵倒を浴びせられて、耐えられなかった、だけなの……。」


 槐は眉をひそめていたが、反対に愛は一人きょとんとした顔を見せる。


「なんだよそれ。お前今の姿の方がどう考えたって嫌じゃねえのかよ。」

「貴方はまだ、理由が分かるもの。死ぬよりも痛いけど、分別がついているわ。」

「…………血みどろのボロ布横たわった傍で言われんのも、気色悪りぃなあ。」


 愛は鞠ナが本当に偶然部屋に来た事を理解すると、完全に興味を失ってしまったらしく、未だ転がったままの誰かを小突いて遊んでいた。


「なあんか上手いこと良い雰囲気持ってってるみたいだけど? アタシ、結構怒ってるわよ~?」

「なんも良くねえだろ!!」

「お黙り。」


 槐は軽い口調でぴしゃりと愛を諭す。ぶつぶつ文句を垂れながらも、愛は静かに座り込んだ。

 だが槐の腹の内ではにまにまと何か企んでいるらしく、きゅっと口角を吊り上げて見せる。


「分かってなさそうねえ~。だからガキって頭悪くって嫌いなのよネ。」


 その場でスマホを取り出し、どこかに連絡しながらぶつくさと文句を垂れ始めた。


「そもそも? 管理人であるアタシに許可なく出歩けていることがそもそも変だと気が付いて欲しいわよね。せっかく世界一やさしいアタシが気を利かせて自由にしてあげてんのに、アンタと来たら問題ばっかり起こしてくれちゃって! 本当にあり得ないわあ。そもそもココだって管理人の許可無しじゃ来れないって知ってるわよね? アンタ一体どうやって侵入したのよ。そりゃあスパイだって噂されるに決まってるじゃなあ~い。誰かに見られでもしたんじゃないの? アタシが付いていながらヘマしてくれて、いい迷惑よ。事の発端だってアンタ自身じゃない。」


 一通りぶー垂れた後、槐のスマホに電話がかかってきた。

 明らかに顔を歪ませた後、汚いものをつまむかのようにスマホを持ち、耳に近づける。


「はあ~い。…………うるさいわねえ。聞いてるわヨ。むしろこっちから…………嫌よ、手前(てめえ)が来るのが筋ってもんじゃなあい? …………そうよねえ? 分かってるじゃない、よろしくう。」


 爪で叩くように電話を切ると、槐は鞠ナに向き直った。

 

「んじゃ、あんたはそこのボロ雑き――じゃなくて、ガラクタ持って皐月(さつき)を待ってなさい。いいわね?」

「わっ、私っ、戻りたくない!!」

「ああ゛?」

「…………ッ!」


 冷たい視線で有無を言わせない槐に、鞠ナは絶望しながらも従うしかなかった。

 あの生活に戻るくらいなら、いっそここで愛にとどめを刺してもらう方が幸せかもしれない。そんな希望が心の奥底で灯っていた。

 しかし槐も愛も、鞠ナに振り向くことなく部屋の奥へと歩いていってしまう。今の鞠ナには二人に声をかけることも、この場から逃げることもできなかった。


 そうこうしているうちに、ブザーと共にドアが開き遠くから皐月の声が聞こえてくる。

 声のする方を見やると、大きな袋を持った皐月と、スーツを着た鞠ナの知らない男性が二人入ってきた。皐月がへたり込んだ鞠ナに気づくと、手で二人に合図を送る。すると二人は皐月から袋を受け取り、血まみれの人の元へ向かってしまった。


 皐月だけが鞠ナに近づいてくる。その表情は穏やかで優しく、驚かせないようにひらひらと軽く手を振ってみせていた。


「あれ? 先輩は一緒じゃないんすね?」

「皐月さん……。」

「あーあ。またド派手にやっちゃってるっすねえ。鞠ナちゃんは怪我とか無いっすか?」


 何も聞かず、ただ心配してくれる皐月の言葉にほろりと涙が溢れてしまう。それでも皐月は慌てることなく、優しい笑顔でタオルを差し出してくれる。


「まあ色々話はあるっすけど、とりあえず帰るっすよ。」


 ただ潤んだ瞳で皐月を見つめる鞠ナ。心が砕け散っていたせいか、声を出そうにも掠れた息しか吐くことができない様子の彼女に、皐月は眉を下げて応える。


「大丈夫、大丈夫っすから。ひとまず俺の執務室に行きましょう。」


 震える手で力なく拳を作り、なんとか頷く。皐月の伸ばす手を取って、鞠ナはようやく立ち上がることができたのだった。


「男の部屋でそこは申し訳無いっすけど、代わりにケーキ出しますから。美味しいお店見つけたんすよ~? 先輩にも教えていない俺の秘蔵の店っす!!」


 皐月は精一杯鞠ナに話しかけながら背をさすっていた。ゆっくり、ゆっくりと歩を進めているせいか、鞠ナにはエレベーターまでのたった数メートルが果てしなく遠く感じていた。


 ようやくボタンを押せたかという瞬間。


 つんざくようなけたたましいベルが鳴り響く。




『緊急警報、緊急警報。コード・イエローが発令されました。繰り返します――――』




「な、なにこれ……。」


 戸惑う鞠ナの隣で、皐月は険しい表情を見せる。振り返ったものの、槐と愛の姿は見えず鞠ナの顔は曇っていた。

 鳴りやまないアナウンスの中で、遠くの足音だけが聞こえてくる。




『繰り返します。コード・イエローが発令されました。管理者各位は直ちにツボミの安否を確認してください。』




 皐月は鞠ナの肩に手を添えると、ぽんぽんと叩いて、目線を合わせる。


「いいっすか。今は俺のそばから絶対離れないでください。ただ、槐先輩がいたら、全速力で槐先輩に頼ってくれませんか。」

「皐月さんは……。」

「すみません。俺には誰かを助ける力が無いっす。少なくとも、先輩の方が確実に()()()()()に向いてるんで。今は、ただ頷いてくれませんか。」


 目元だけは緩め、少し困ったように返す皐月。鞠ナはよほどの事態が起きていることを理解し、静かにうなずいた。


「ありがとうございます。約束っすよ。」


 そういうと、皐月は左手の手袋を外し、甲にある錠を露わにする。若干手は震えているものの、鞠ナを心配させまいとして、自らを鼓舞する。


「こういう時、先輩が羨ましくて仕方ないっすねえ……。」


 皐月の右手に鍵が現れると、それをゆっくりと錠に差し込む。

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