Story:4.5 月は余りに美しく、散って儚く恋心
鞠ナと恋雪が共に布団に潜りおしゃべりをして眠気を待つ頃。恋雪はふと妹のことを思い出していた。
「私には妹がいてね、おんなじ名前で月雪って言うんだけど。」
あまり面白くない、それこそ悪夢を見そうな過去をじんわりと思い出しながら妹の話をする。
当時、加々宮家は不況に煽られ不動産業で成り上がった加々宮グループの内、いくつかの店を畳んだ影響か、今よりももっと不安定であった。一時は財閥とも並ぶ程大きな家であったが、今や古いやり方を変えようとしない卑屈で頑固なじじいがいるだけの居ても厄介な奴として扱われていた。
お陰で血縁関係も拗れ始め、自身が病弱でも後継ぎが欲しかった前々当主の兄君は、次から次へと近しい者同士で混ざり合ってしまい、もう生まれる子どもが病弱でない例が無いほどになった。
そんな加々宮家に生まれた恋雪も例に漏れず、子どもの頃から骨が弱く折れやすい体質であった。しかし、従妹たちと比べればまだマシな方で、比較的丈夫な子だ、後継ぎだと蝶よ花よと可愛がられ育てられていた。もちろん、嫉妬する従妹たちや気にくわないとして意地悪をする親族も少なくなかったものの、持ち前の心の広さと聖母のような優しさで子どもながらに何とかバランスを保っていた。
それは、数年後。妹の月雪が産まれたことで恋雪の人生は一変する。
月雪は恋雪の母と後夫の間に生まれた娘で、血の濃かった母だが後夫は海外赴任で出会い半ば無理矢理婚姻するためにできた子どもでもある。他から聞けば最低な親であるが、旦那も自身の両親も若くしてこの世を去った母にとって、衰えゆく加々宮家で生きるには丈夫な子を産み、周りに援助してもらうことしか手軽な方法が分からなかったのだろう。
おかげでうんと健康で賢く、立派な娘に恵まれ母は無事祖父や他の親族からも褒められ助けてもらえるようになった。
そしてこれまで恋雪のことを『雪ちゃん』と呼んでいた大人たちは、いつしかより優秀な月雪のことを『雪ちゃん』と呼び始めた。
恋雪のことは『優秀な妹を持った一つ足りない姉』として扱うばかりで。
事実、恋雪から見ても十分優秀で自慢の妹だった月雪。彼女に対しての嫉妬心こそ無かったが、淋しさで心はどんどん埋め尽くされていった。
幼い少女が大人の事情を理解できる訳も無く、ましてや自分の名前が取られたことに抗議できる訳もない。今まで大事に、大切にしてきていた色々なものが、ぼろぼろ、ぼろぼろと零れていくような苦しさしか感じられなかった。
小学校に上がったばかりの少女は漏れてくる家族の優しい声に、一人部屋の隅で身をこわばらせることしかできなかった。
母が呼ぶ。
「おいで雪。」
父が呼ぶ。
「どうした、雪。」
祖母が呼ぶ。
「雪ちゃん。」
従妹たちが呼ぶ。
「来いよ雪!」
多くの人が雪と呼ぶ。
そのどれもが恋雪のものだった。
そのどれもが月雪のものになった。
大人たちとしてはより良い後継者がいればそれで良く、もはや年齢を気にしていられない家の事情を前に、自らの子らもまともに扱われない中では味噌っかすの呼び名などどうでもよかったのかもしれない。
それでも尚、世間を加々宮家しか知らない恋雪にとってはその呼び名が全てでもあり、唯一縋りつけた最後の藁だった。
こうして、ちょっとずつ削りながら心の端っこを使っていたが、限界などあっという間であった。
「あーっ、こんなとこにいた! こんな暗いとこに居て何してるの?」
「……なんでもないよ。そういう気分だった。」
「そっかぁ。じゃああっちでおやつ食べよ! 叔母さんがつるのこ餅くれたの!」
それを聞いた恋雪は、そういえば月雪の誕生日だったな、という考えと、自分はそんなお祝いされたことがないな、という考えがせめぎ合い実の妹に祝いの一言もかけられなかった。
「何ぼーっとしてんの! 先に言ってるからねー!」
踵を返す月雪になにかまずいことをしたのかと焦った恋雪は慌てて立ち上がり、追いかけた。
「あっ……待って、月ちゃん。」
「あーーっ! お姉ちゃんそれやめてって雪言ったでしょ!!」
月雪は頬を膨らませて手を腰に当て、わざとらしく怒ったフリを見せる。恋雪は心の残滓を吹き飛ばされたような衝撃に、思わず口を噤んでしまった。
必死にあがいて吹き飛ばされた心を取り戻そうと俯いたが、もう彼女の心は壊れきっていた。吹き飛ばされた残滓も壊れる際に散った塵や屑ばかりで、取り戻したところで形にならない。
彼女は幼いのだ。
居場所も名前も奪われ、正常でいられるほど成長していない。まだ、幼くか弱い子どもには違いなかったが、回らない頭を懸命に回して、一つの結論に辿り着く。
頑なに言えなかったモノを言うだけで自分は楽になるのだ、何も考えなくていい、もう自分はいらない妹のために生きれば今よりずっとずっと気楽で何も考えずにいられることに。
恋雪は自分に対して嘲笑するような、妹を慈愛に満ちた目て愛しむような、華憐で美しくて儚く脆い満面の笑みを湛えて、月雪に笑いかけた。
「ごめんね、雪ちゃん。」
恋雪の自我はこの時完全に崩壊した。
自分を守っていた唯一の盾を捨てた。
この混沌としてぐちゃぐちゃの世間で一人ぼっちになった。
これから嫌なことばかりが起こる。妹にはさせられないことも平気でさせられる。ゾッとする背筋を丸めて耐える日々が来る。
でも以前よりずっとずっと楽な気持ちだった。
これからは、自分のことはどうでも良くて妹さえ無事ならなんでも良いのだ。妹のことさえ考えれば良いのだ。
それは、この狂った家で丈夫な子の遺伝子を欲しがる大人の目を一人で抱えて生きていく覚悟であり、全てを否定して生きていく覚悟であった。
あまりに、余りに、残酷すぎるよ。
「妹?」
「うん。すっごく頭が良くて、すっごく可愛いの!」
「だから恋雪は面倒見が良いのね。」
「そうかな? 自分勝手だと思うよ。」
「あっ、だから、その……私の名前ーーーー」