Ep.4 暖かく、愛おしく
今日子から噂話の詳細を聞いた鞠ナ。
誰かの悪意を感じた上、どこまでが事実なのかその真相を確かめに槐の元へ向かうが、どうにも歯切れが悪い。
鞠ナが考えている程、この噂は一枚岩ではないのだから――――
昼休み中、ひたすら走り続けた鞠ナだったが、そもそも訓練後で体力が無い上広大な施設内を手掛かりもなく虱潰しに駆けているので、もうふらふらになっていた。それでも槐に確認しなくては腹の虫も収まらない一心で探し回る。
ついにはA棟の管理人居住区まで来てしまったものの、少し前にチャイムが鳴り、戻らないといけない自分の良心と教室に戻りたくない悪魔の心が戦っていた時だった。
「っ、はあっ……どこ行ったのよあの馬鹿……っ!」
息切れもして、つい悪口が口をついて出ると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あらあ、何してんのかしら? こんなとこでサボってるとかアタシに失礼だと思わないのかしらぁ?」
ニヤニヤとした気分が悪くなる笑顔をたたえた槐が丁度部屋から出てきたところであった。
普段であれば愚痴の一つでもつきたくなる場面だったが、今の鞠ナにそんな余裕はなかった。
「っ、はあっ……はあっ……! え、んじゅ……!」
「ちょっとやだ! 何息荒くしてんのよ、こっち寄らないでちょうだい!!」
わざとらしく叫ぶ槐に鞠ナはいらだってしまい、つい口を荒げてしまった。
「ッうるさい!! 聞きたいことあるのにどこ行ってもいないとか仕事してるんでしょうね?!?!」
槐は顔をヒクつかせ、あからさまに面倒くさそうな態度を見せた。それでも鞠ナは怒りが先行していたからか、ただ黙って槐を睨んでいた。
そして槐はだるそうにふらふらと歩きながら、自分が出てきた部屋をあごで指し、ただ一言鞠ナに吐き捨てる。
「何。」
そして鞠ナより先に部屋へ入るとソファにどっかりと座りローテーブルに足を組んで乗せて姿勢を崩す。どこに腰かけていいかおろおろする鞠ナを見て、槐は再度面倒くさそうな表情をしてはテーブル横に放られているオットマンを指した。
鞠ナはオットマンを少し動かしてから座り、槐にようやく彼について聞くことができた。噂の真意と、なぜ自分が標的にされているのかを。
「小槻湊十ぉ?」
槐は大きな声で復唱しているが、全くピンと来ていない様子だった。うーん、うーんと腕を組んで悩んでいるフリをしているが鞠ナは真剣な顔で槐を見るばかりだった。
「何、アタシの顔が嫌なワケ。」
「いや。そんな茶番付き合ってられないなって思って。」
「……あんたってそんなつまんない子だっけ。」
「知ってるんでしょ? 教えて、私にはその権利があるはずよ。」
「ものの頼み方ってモンがあるんじゃなぁい?」
にやにやと口角を上げて鞠ナをからかうが、彼女は既に槐の考えを見透かしていた。
「教えて。」
一貫して態度を崩さない鞠ナに、槐は少しイラついたが、正直どうでも良かったので素直に教えることにした。鞠ナはまるで自分に関係があるかのような表情をしているが、事実一ミリも関わりがないと考える槐にとってはその表情までもが馬鹿らしいとさえ感じていた。
「教えてもいいケド、聞いたって何にもなんないわよ。」
「それでもいいわ。」
「ふぅん……そ。いいわね、アタシはちゃあんと、忠告したから後でぐちぐち言わないでちょうだい。」
へらへらと笑いながら、槐は鞠ナをからかいながらも湊十について語り始めた。その間ずっと、空を見つめたままで。
「あんたのセンパイに当たるコよ。別にそのコが死んだとかじゃないわよ、そんな警戒しないでちょうだい。ひと月くらい前だったかしらねえ、大けが負って学園に帰ってきたから大騒ぎになったってダケ。あんたのクラスのコも何か勘違いして騒いでんでしょ、小槻クン自身は何でもないし帰り道によろけてコケただけって言ってんの。分かる? あんたらの考えすぎなワケ。」
「でもそれじゃあ、何か隠してるのかも――――」
「だーかーらぁ。そんなん言い出したらキリないじゃない。馬鹿のやることよ、いい? 金輪際その名前を出して心配すんじゃないわよ。あーあ、うっとうしいったらありゃしない。」
自分が殺人犯に仕立て上げられ、根も葉もない噂が流布されているというのに、この男は黙って指くわえて見てろというのか。あまりにも無責任な槐の言葉に鞠ナはかなりの怒りが湧きあがってきていた。
「考えすぎとか、何にもならないとか、それは槐さんの都合ですよね。今、私はみんなから疑われてあろうことか殺人犯とさえ囁かれているのよ。そんな状況で見え見えの嘘を吐かれて、はいそうですかって引き下がれるわけないじゃない。」
鞠ナは早くなる言葉を極めて冷静にゆっくり紡ぐよう心掛けていた。どんどん冷たく鋭くなっていく槐の目に、背筋が凍るような思いもあるがそれに負けていられる場合じゃなかった。
槐と似た視線を鞠ナが返すと、槐はしばらく黙って腕を組んでいた。
数分程経った頃、鞠ナはたまらず口を開いてしまう。
「……な、なによ。私何か悪いこと言った?」
槐は少し顎を上げるだけで未だ口を開こうとしない。
若干泣きそうになっていた鞠ナだったが、タイミングよく電話がかかってきたことで彼女は救われたような思いに笑っていた。
「もしもし?!」
電話の相手は少し怯えたような声の恋雪だった。
「鞠ナちゃん、急にごめんね。湊十先輩が呼んでて……鞠ナちゃんのこと。」
「私を?」
「うん。今から食堂に来れるかな。」
電話の向こうの恋雪はどこか不安そうに話していた。鞠ナが気を悪くしているんじゃないかと労わっていることが十二分に伝わるほど震えていて、思わず鞠ナは恋雪を安心させたくなってしまった。
「大丈夫よ、すぐに向かうわ。恋雪も同席してもらえないかしら。」
「……うんっ! うん! 私も食堂で待ってるね!」
声色が明るいいつもの調子に戻り、鞠ナはつい安堵のため息を漏らす。恋雪と待ち合わせを決めて電話を切ると、目の前に仏頂面を引っ提げて唇を歪めた槐が大層不機嫌そうにしていた。鞠ナが驚いていると槐はわざとらしく大声を出して文句を垂れ始める。
「あーーーーーーあ。ほんっと、つまんない女になったわねえ。」
「ひっ……! な、何してんのよ、ついに盗聴シュミでも始めたの? ヘンタイッ!!」
「はあ? そんなわけないでしょう、おつむのちいちゃな馬鹿の会話なんか聞いてたらこっちまで頭狂ってしょうがないわよ。寝言はアタシの前で言わないでちょうだい。ああ、あんたのクラスメイトなら喜んで聞いてくれるでしょうね、あんたに感化されて一緒に馬鹿になったのかしら! ……それにしてもその目を見てるとほんっと気分が悪いわ、あっち向いてちょうだい。」
鞠ナが一言悪口を言えば槐は十倍となって返してやった。ふんっ、と大人げないドヤ顔を披露して満足そうな槐は部屋を出ていこうとする。
「用が終わったらさっさと帰ってちょうだい。アタシ、貴重な休憩時間削られていまイライラしてんのよ。」
べっと舌を出し、あっかんべのように人差し指を顔に当てる槐に、鞠ナは感情を逆撫でされたような気分になっていた。ついに怒りは頂点に達し、槐がいないことをいいことに――
「っ……なっ、なんっって!!! 最低で低俗な考えの大人なの?!?!?」
――全力で叫んだ。
鞠ナは怒りの限りを使ってバシンッとソファを引っぱたくと、ふんっ、と悪態をついてから槐の部屋を後にした。それでも悪態をつかれ馬鹿にされた苛立ちは収まらず、鞠ナは走って食堂へと向かった。
「ど、どうしたの? 鞠ナちゃん……。」
「……っ、はあっ……っ、はあっ……だっ……大丈、夫……はあっ…………っ。」
食堂へ着くや否や、鞠ナは息切れて足を止め、その場にへたり込んでしまった。流石に恋雪も心配になり駆け寄ったが、鞠ナはなんでもないと笑って返した。
そして恋雪に支えながら席に着く。
「どうぞ、これでも飲んで。」
「あり、がとう……いただくわ。」
恋雪が持ってきたお茶を受け取った鞠ナはそのまま一気にグラスを煽る。カコンッと勢いよくグラスを机に置くと、恋雪はその飲みっぷりに少し感心していた。
「ふふっ、少しは落ち着いた?」
「ええ。ごめんなさい恋雪。もう大丈夫よ。」
鞠ナは恋雪に礼を言うと少しきょろきょろと辺りを見回す。その様子に恋雪は気づいて慌てて紹介をする。
「湊十先輩だよねっ! そうだった!」
そう言った恋雪が鞠ナの後ろに向かって手招きをする。振り向くと、一人の少年――いや、青年がこちらに向かって歩いてきていた。
「やあ、初めまして。」
青年はにこやかに笑うと、鞠ナの隣に腰かけた。
恋雪も鞠ナの隣に腰かけると、ハッとしたように鞠ナが挨拶を返す。
「こちらこそ初めまして。小槻……先輩。」
「湊十でいいよ。そんな敬われるような人じゃないから。」
ふわりと笑った笑顔は絹糸のように柔らかく、肌も髪も明るい、色素の薄い人だった。
「中峰さん、だよね。今日子ちゃんから聞いたよ。」
優しい声で語りかけながら、鞠ナの隣に腰かける湊十。だが彼の額や腕には、まだ痛々しい程の包帯が巻かれ、一部からは血が滲んでいるほどだった。
「こんな格好でごめん。中峰さんのことを聞いて、心配になっちゃって。」
「いっ、いえ! むしろ私がご迷惑をお掛けしていて……っ!」
素早く首を振る鞠ナに慌てて手を返す湊十。勘違いだと話した上で、今学園に流れている噂についてを鞠ナに教えた。
「ああ違うんだ。中峰さんがどうとかじゃなくって。今日子ちゃんからね、ついこないだから僕が怪我をしたのは君のせいだなんて噂が流れてるって聞いちゃって、居ても立っても居られなくって。」
「そう……ですか。」
「でもね。僕の怪我は僕自身がヘマをしたんだ。中峰さんは何一つ悪くないんだ、少なくとも僕に対して卑下するような気持ちは持って欲しくない。」
冷静に、出来るだけ落ち着いて話すよう心掛ける様子は鞠ナにも伝わった。湊十の言葉に一瞬だけ躊躇したが、ひとまず事情を聞くことに徹する。
「それでも、湊十、先輩は。ひと月立っても額から血が滲むほどの大けがをしたのは、事実なんですよね。」
「確かに、それは否定しないよ。現にやっと回復してきたばかりで人前に立つのも恥ずかしいからね。」
湊十はくすくすと上品に笑ってみせるが、鞠ナも恋雪も心配は晴れなかった。湊十はそんな二人に構わず話を続ける。
「本当に中峰さんは関係ないんだ。僕が早く言いたかったのはそれ以外にも理由があってね。」
湊十は鞠ナに憐みのような慈愛の目をゆっくりと向ける。そして申し訳なさそうに続ける。
「きっと、槐に話を聞きに言ったんじゃないかって思って。」
「……!! どうして、それを……。」
「やっぱりかあ。」
口角を少しだけ上げて自らを嘲笑するような笑みを浮かべる湊十。膝の上で手を組み少し考えているようだったが、それよりも先に鞠ナは疑問が突いて出た。
「なんで、槐さんに聞くって分かるんです?」
「それは中峰さんの管理人が槐だって聞いたから。今日子ちゃん、なんでも喋っちゃうから大事なことは話さないようにね。」
ふふっといたずらっぽく笑う湊十とは反対に、恋雪は納得の表情を浮かべていた。
「まあ、要は今日子ちゃんから中峰さんのこと色々聞いたんだ。だから槐と仲が悪いんだろうなとか、槐はきっと何も言ってないんだろうなとか。」
恋雪は少し驚いたような様子だったが、代わりに鞠ナが納得の表情を浮かべていた。
「槐さんってそんな人なの?」
「ええそうよ、恋雪。あの人のことは絶対に信じちゃダメよ。」
鞠ナは察したように目を伏せる。
そんな様子の二人を見てけらけら笑いはじめる湊十に、鞠ナと恋雪はじっと見つめる。
「ああ、ごめんごめん。こんなに仲良しな友人がいるなら思っていたより大丈夫そうかなって思って。」
涙が浮かぶ目じりを拭い、湊十は座り直した。
「加々宮さん、中峰さんの言う通り槐は意地悪な男だよ。」
「全然、見えない……。」
「そうよ、意地悪どころじゃないわ。だから今私の変な噂を流されてるのよ。」
「ああ、気が付いてるんだね。」
湊十はまた柔らかい笑顔を浮かべると、少し悲しそうに話し始める。
「でも槐は中峰さんのために頑張ってもいるんだよ。信じられないかもだけど、噂の火消しに回っている側なんだよ。」
「……。」
「信じられないって顔してるけど、本当だよ。槐に話にいってものすごく嫌そうな顔されたろ。」
「あ、ええ……。」
「こっちの苦労も知らないでって言いたいけど言えない立場だからね。ものすごく嫌な顔をして愚痴を言うしかなかったんだよ。分かってあげてね。」
唇を尖らせて、渋々頷く鞠ナ。湊十はにこやかに鞠ナを見守りしながらも恋雪の方を見やる。
「加々宮さん、僕からお願いしてもいいかな。」
「え……あっ、はいっ!!!」
「中峰さんの噂は根も葉もないものだ。僕が怪我をしたのはもっと大きな理由で、中峰さんと同じ時期になったのは本当にたまたま、それこそ槐も関係ない。僕自身が招いた事故で僕が悪い、それは揺るがない事実だ。だから心配しないで、加々宮さんは中峰さんのことを心底信頼してあげてくれないかな。」
恋雪は一瞬、言葉が飲み込めずきょとんとしていた。だが隣で聞いていた鞠ナは少しだけ唇を噛みしめる。
あれだけ嫌な奴で意地悪で大人気ないが、槐の側にいることが一番安全だと言いたいのだ。そして、そのことで苛立つ鞠ナを見守れと、恋雪に語っているのだ。
「っ、湊十先輩! 恋雪が一番関係ないのよ、湊十先輩も何か隠すのなら私は徹底的に戦うわ。」
「い、いや。そうじゃないよ。本当に僕は関係ないんだ。」
「じゃあ、どうしてっ。湊十先輩が怪我した理由は教えてくれないんですか。」
声を荒げて言い張る鞠ナに、図星の湊十は何も言えなくなってしまった。
彼女がいくら知りたいと願い、どれほど知る権利を保有していたとしても、それを湊十から語ってもいい理由はどこにもなかった。
そうして黙りこくる湊十に鞠ナは顔を俯けて歯を食いしばる。
これだけの怪我を何らかの理由で。間接的にでも、負わせたのだ。しかもそれを知る人は誰も自分を責めてはくれず、教えようともしてくれない。
それは鞠ナにとって、舐められているも同然の仕打ちだった。
――――彼女は事実に耐えられない。
鞠ナ自身、十階の少女から受けた傷が完治している訳ではない。その上恋雪にも打ち明けられていない。それは今の鞠ナに何よりも現実を見せつけてくる。
湊十にも、槐にも、同様の事情があるのは明らかであった。
「行きましょう、恋雪。」
湊十におじぎをすると、鞠ナは食堂を出ていく。恋雪は慌てて湊十に礼を言うと鞠ナの後を追うように走っていった。
二人の姿が見えなくなり、湊十はその場で大きなため息をついた。
「逆効果、だったかな。」
だがその呟きがトリガーのように、湊十を疲労が襲い始めた。
それも当然で、彼が負った大怪我は転んだ程度のものではない。二日に渡る手術でなんとか一命をとりとめた瀕死の怪我である。
それも、鞠ナの花毒によって受けた傷だった。彼女の意識が無いうちに。
湊十は胸元のギプスを撫でるが痛みはズキズキとひどくなっていく。そのうち呼気も荒くなり、冷や汗がだらだらと垂れてきた。
「くそ……っ、体が、上手く……っ!!!」
もうろうとする意識の中、湊十に聞こえてきたのは自分を呼ぶ声だった。
「湊十っ!! おい、湊十―――!!!」
「あ、すか…………?」
少年は、涙で濡れた親友が駆けてくる幻覚を見る。
次の瞬間、視界は赤黒く反転し、そのまま湊十は目を瞑り頭から倒れ込んだ。
「あぶね……ったく、すぐ無茶するんだもんな。ちっとは自分を優先してくれよな……。」
倒れ込み頭をぶつけそうになった湊十を、駆けてきた少年はあと数センチのところで受け止める。そのまま湊十を抱えてこみ、鞠ナたち同様食堂を後にした。
「あす、か……。」
「はいはい、帰りますよ。お無謀さん。」
湊十はいつものあたたかな背中に安心して、そのまま眠りについた。
*****
一方、鞠ナと恋雪は自室に帰りグチグチと不満を漏らしていた。槐のこと、噂のこと、自分のこと、探せば探すほど出てきてしまい、鞠ナも自分が思いのほか混乱していることに気が付いた。
喋る事に疲れてくると順番に部屋のシャワーを浴び、ソファに座って、備え付けのテレビを眺める。気が付けば夕食の時間だったが、二人とも食堂に行く気にもなれず、時間を見計らって購買で済ませることにした。
「今朝授業に出ていて良かったわ。でもお小遣いって言っても結構しっかりもらえるのね。」
「そうだね。バイトするとかもできないけどお金の使い方を学べってことらしいけど、このお金も花毒の研究で稼いだお金だから事実働いているようなものだよね。」
「花毒の研究? がどうして私たちに繋がるの?」
「授業だよー。今日の訓練とかもそうだけどある意味みんな実験中だからね。分からないことも多いし、こんなに異能の被験者がいっぱい集まるだなんて普通は無いからだよ。きっと。」
「ああ、大人の事情ってやつね……。まあおかげで好きに過ごせてはいるし文句は言えないわね。」
二人でふうとため息をつき、より深くソファに沈む。
夕食が終わる消灯前の十時を待ちながら、深夜帯のディープなバラエティーを見てだらだらと過ごした。
「そろそろ行こっか。お腹も空いてるよね。」
「そうね。ついでに色々買いこみたいわ。」
十時少し過ぎ、二人は静かになった廊下を歩きエレベーターホールへと向かい、二階へと上がる。
ここは基本的にロビーとして位置付けられているが、使われるのは一部の管理人用の宿直室と購買部の二つのみ。生徒たちはなおさら、買い物にしか来ない場所であった。
「トシちゃん、こんばんは。」
「おやこんばんは。夜更かしかい?」
購買部は、地元の小さな商店が経営しており、老夫婦が二人でやりくりしている。学園の事情も知っているのは、彼らの孫がここの学園出身だからというのもある。
そのためかほとんどの生徒とは顔見知りで、足りない商品は言えば取り寄せたりパソコンを貸し出すことも協力してくれる。代わりに、夜の十二時から朝の六時までは仕入れで閉まっており、昼帯の十時から夕方六時は妻か孫が店番を務めている。
「初めて見る子だね。名前を聞いてもいいかな。」
「あ……はい。鞠ナです。中峰鞠ナ。」
「鞠ナちゃんか。宜しく、俺は高田利通ってんだが、おっちゃんでいいぞ。そこの恋雪ちゃんもトシちゃんって呼んでくれてるしな。」
にっかりと眩しい笑顔を見せる利通。
そして広々とした店内をあごで指し、鞠ナを店へと誘導する。
「俺が言うのもなんだが、ここには何でもあるからな。安くしてやるから好きなだけ見ておいで。」
「ありがとうございます。」
鞠ナはそう言って、利通が差し出した飴を受け取る。恋雪にも渡すと、利通は食べながら見てて良いと残し、競馬新聞を広げる。
恋雪は鞠ナの手を取って、店内を案内した。
「いいおっちゃんでしょ。好きなだけ見てて良いって言ってもらったし、好きなだけ見ようよ!」
「ふふっ、ええ。そうね。」
鞠ナがカゴを持って店内を見て回る。
学用品はもちろんのこと、食べ物や飲み物も幅広く、コンビニにも引けを取らない品揃えになっている。他にも生活用品はかなりの種類揃っており、衛生用品や衣服まで、まさにここで暮らすのに十分なほどかなりの商品を取り扱っていた。
「すごいわね、ボードゲームや漫画なんかも売ってるわ。」
「ここは飽きやすいし出掛けることは少ないからね。管理人さん向けにお酒やたばこもあるけど、鞠ナちゃんはダメだよ?」
「ふふっ、分かってるわよ。恋雪もね。」
そんな話をしながら一通り見て回ると、鞠ナと恋雪はジュースやお菓子やパンなど日持ちしそうなものから、今から食べる弁当や漫画雑誌をカゴに入れる。
そこそこ重たくなってきたところで、利通にカゴを渡す。
「お願いします。」
「あいよ。」
手際よく計算をし、袋へ詰めていく利通。電卓を半ば適当に叩いて本来の額より少し安い料金を提示した。
「お会計ね。」
「えっ、いや、正規の料金を支払いますから。」
「いーっていーって。こんなべっぴんな可愛い子から無暗にお金は取れねえよ。」
利通は豪快に笑うと、鞠ナが差し出したお金からかなり少ない分だけ受け取る。そして商品の袋と一緒に、レジ台からもう二つ袋を出してそれぞれに手渡した。
「ここにいる子らはみーんな、俺ァ年寄り共よりもうんと苦労してるんだ。これくらいのご褒美もらったって神さんは怒りゃしねえよ。」
そう言う表情はどこまでも優しく、柔らかく、慈愛に満ち満ちていた。
二人はきちんと御礼を言い、利通から袋を受け取る。両手にいっぱいの食べ物は、食料に困ってきた利通からの激励のようであった。
「何度でも来ます。」
「ああ、そうしてくれると助かるよ。」
ひらひらと手を振る利通に深く頭を下げて、鞠ナと恋雪は部屋へと戻った。
「いいおっちゃんね。」
「そうっ! みんなの自慢のおっちゃんなの!」
楽しそうに笑う恋雪に微笑みながら、部屋に着き荷物を下ろす。
利通にもらった袋を見てみると、その中にはおにぎりや惣菜のパック、野菜ジュースなど仕送りのようなラインナップが入っていた。それも、何種類も。
「そりゃあ重たいわよね。」
「あははっ、きっと鞠ナちゃんが細いから食べろってことなんだよ。トシちゃんらしいなあ。」
今の二人にとってはありがたいそれらを小さな冷蔵庫いっぱいに詰める。元々恋雪が買っていたものや、由月にもらった見舞いの品で寂しかった中身が、今は優しさでぎゅうぎゅうになっていた。
少しだけ二人して見つめると、顔を見合わせ笑い出す。
「ご飯食べよっか。」
温めたいものは冷蔵庫の上に置かれている電子レンジで温めて、おにぎりや総菜を机に並べる。お腹が空いていた二人は小さなダイニングテーブルいっぱいにご飯を並べていたが、どれも美味しそうで今ならぺろりと食べられそうであった。
「後は少しずつ食べていきましょう。買ってきたデザートも食べたいもの。」
「そうだね。じゃあお茶持っていくから待ってて。」
並んで席に着くと、一緒に手を合わせる。
「「いただきます。」」
数時間ぶりだからか、疲れているからか、その時の食事はいつもより数段美味しく、口いっぱいの幸せを噛み締める。食堂のメニューは栄養や量もきちんと考えられているので、ある種の背徳感もあり、より一層腹は膨れる。
「わ! 鞠ナちゃん、このお惣菜美味しいね!!」
「本当ね恋雪。こっちのおにぎりもすごく美味しいわ。」
「なんだか贅沢な気分。食べ終わったらデザートもあるし!」
「確かに、食堂のメニューじゃできないことだものね。」
二人は笑い合って食べ進める。
あっという間に食べきると鞠ナは皿やパックを片付け、恋雪はデザートの用意をした。
ソファに戻り、チルドのカフェラテを開け、ミニパフェを手にまた沈む。
「ふぁ〜〜っ、幸せすぎる〜〜っ!」
「確かに、文字通りとろけそうね。」
デザートもカフェラテもあっという間に食べ切り、膨れたお腹をさすりながらまただらだらと過ごす。
消灯時間はとっくに過ぎていたが寝付けるような気分でも無かったので、眠気が来るまでのんびり過ごしていた。
結局、布団に潜ったのは日付も変わり丑三つ時になろうという時であった。
「じゃあ、おやすみなさい。恋雪。」
「おやすみなさい鞠ナちゃん。」
二人はそれぞれ上下のベッドにつき、静かに眠りについた。
だがしばらくすると、鞠ナは悪魔にうなされはじめる。
「ぐ……っ、うぅっ……。」
夢に出るのは十階で出会った少女。容赦なく襲い掛かるつたのような顎を思い出し、腹部の傷が疼く感覚に苛まれる。
ギリギリと歯を食いしばっても夢はどんどん鮮明になっていく。
「いや……やめて……っ!! や……っ!」
頭の中に槐の言葉が反芻する。
それに混じって、無意識の内に謎の言葉で支配される。
《……み、ねぇな…………。起き……るみ……。》
頭を振って声を振り払うが着いて回るように脳裏にこびりついて来る。
真っ暗闇の中から目に見えないスピードで剣のようなものが鞠ナの頭目掛けて飛んだくる。避けようにも体が一ミリも動かない。
殺される。
そう思った瞬間、剣は血飛沫を上げながら鞠ナの眉間にずぶりと、刺さった。
「……わぁっ、は、ぁっ!!!」
今夜で二度目、それも30分前に目覚めたばかりだったが、夢の内容はほとんど同じものだった。
(すごい、リアルな夢だったわ。)
流れる冷や汗を感じながら、鞠ナは息を整える。ストレスなのか、寝つきが浅いのか頭も痛い。
水でも飲もうとベッドを降りて、ウォーターサーバーへと向かう。冷たい水を一杯飲み干すと、ひと息ついてからゆっくりへとベッドへ戻る。
布団に入っても眠れる気配はなく、ただ目をつむって時が過ぎるのを待っていた。
「鞠ナちゃん、鞠ナちゃん。」
「……ん、あっ? 恋雪?」
鞠ナは恋雪に起こされて気が付いた。傍らに枕を抱えて不安そうな面持ちの恋雪がいた。
鞠ナはゆっくりと起き上がり、恋雪に顔を向ける。
「恋雪……? どうかしたの?」
「あの、起こしちゃって……ごめんね。なんか私、寂しくなっちゃって、眠れなくって…………その、い、一緒に寝ても、いいかな?」
恥ずかしさで照れながらおずおずと聞く恋雪。鞠ナは布団を少し上げて笑顔で答えた。自分も眠れないからか、恋雪の気持ちは少し分かるからか。
「ええ。いいわよ、おいで恋雪。」
「ありがとう鞠ナちゃん……子どもみたいで、嫌だったらごめんね。」
「そんないいのよ、私も寝付けなかったところだったもの。おしゃべりしていたらきっと眠れるわ。」
恋雪も照れながらも笑顔に戻り、鞠ナの布団に一緒に潜る。二人とも眠れなかったので、向き合っておしゃべりをする。
「ふふっ、暖かいね。」
「……いいえ、こちらこそ。ありがとう、恋雪。」
「え、なんで?」
「さっきから悪魔ばかり見てたのよ。怖かったし、体はだるいしでちょっと嫌な気持ちになってたから、恋雪が来てくれて少し安心できたのよ。」
「そうだったんだ。私で良ければいつでも飛んで来るよ!!」
「頼りにしてるわ。」
鞠ナは、ついさっきまで抱えていた不安が飛んでいき、恋雪といる安心の方が心を占めていた。
見た悪魔の話、学園の話、期間限定メニューの話、恋雪の話、湧き出るだけひたすら喋っていると、二人ともようやく眠気を感じはじめる。
「ふあ……ぁ、恋雪。そろそろ寝ましょうか。」
「あっ、そうだった! あのねっ、私ね、一個だけお願いがあって、その……名前を……。」
「名前?」
「う、うん。名前、嫌じゃなかったら、鞠ちゃんって、呼んでもいい……ですか。」
恋雪は潤んだ目だけが見える位置まで布団を寄せ、耳を赤くして照れる。鞠ナは優しさに溢れた目で恋雪に頷く。
「ふふふっ、いいに決まってるわ。恋雪ったらそれでもじもじしていたの?」
「わっ! 笑うとこじゃないよ! すっごく、すっごく勇気出したんだからっ!」
「ふふっ、分かってるわ。ふふふふっ。」
「絶対分かってないよっ!」
ぷんすこと音が鳴りそうなほどに怒りはじめる恋雪に鞠ナは分かったからと両手で制しながら息を整えた。それでも寝返りを打って怒りを見せる恋雪。鞠ナはたまらずこっちにおいでと声をかける。穏やかな笑みを湛えて静かに笑いかけると、恋雪も合わせたように落ち着きを取り戻してばつが悪そうに布団をかぶった。
鞠ナはそんな恋雪を見て、そっと彼女の髪を撫でる。
「じゃあ私も、恋って呼ぶわ。……あ、でも、呼び捨てじゃあ怖いわよね。」
「ううん。そんなことないよっ。鞠ちゃんから名前を呼んでもらうの大好き!」
「そう? ありがとう、恋ちゃん。もう遅いしこのまま寝ましょう。」
「っ……! うんっ! おやすみなさい鞠ちゃん。いい夢見てね。」
「ええ、おやすみなさい。」
鞠ナも恋雪も満足そうにまぶたを閉じる。
何一つ解決していないものの、二人はほんの少しだけ互いの優しさに甘えることにした。束の間の休息というには長く、幸せな日々にしては短いが、鞠ナも恋雪も互いに身を寄せっては一緒に優しい夢を見て。
槐も湊十も、何かを知っていながら鞠ナにわざとらしい噓をつく。
今日子にも涙依にも怪しまれ、挙句噂は収まらないまま。
鞠ナは唯一信頼してくれる恋雪に支えられながらも、徐々に疑心暗鬼に陥っていく。