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花園の鍵  作者: 羽切 愁慈
Episode.
4/7

Ep.3 二律背反の非日常は少女を喰らう

 槐と皐月は全速力で走り、ある民家に向かっていた。

 しかし、家には人の気配が無くしんとした静かな雰囲気を漂わせていた。皐月は汗をにじませながらドアノブを回すが、明らかな違和感があった。

 鍵が開いているものの、チェーンだけがかけられているその状況に槐は血相を変えて焦っていた。


「まさか――――」


 槐が家のドアを急いで蹴破って二人で押し入った。だが、昼間と思えないほどに家の中は暗く物音もしない。耳を澄ましてやっと、かすかに左の部屋からしゅんしゅんとした音が聞こえるだけだった。


「クソっ……!! まんまとやられたわ、皐月。あっち見てきてちょうだい。」

「了解っす!!」


 皐月は素早く槐の指した台所へと向かうが、荷物も全てそのまま放り出されたままで、まな板の上の野菜も切られたまま、やかんの火も点けられたままで、忽然と人だけが消えたようになっていた。

 皐月は迷わずやかんに触れ、当然、あちちと手を振る。


「せんぱぁい。まだ居なくなってすぐっすよ。」


 それを聞いた槐は家の外を振り返った。

 しかし、足跡どころか鳥の鳴き声すら聞こえなかった。槐は急いで通りに出るも、瞬く間に喧噪に包まれて道が分からなくなってしまった。


「ああ~~~~もうっ!!! 腹が立って仕方がないわね。アタシをこけにしやがって。」


 露骨に苛立ちを見せて髪を掻き上げ、壁に拳を思いっきりぶつけた。ヒビが入ったことにも気にせず、ただそこにある喧噪を光の無い目で見据えていた。


「舐めくさった真似すんじゃないわよ。」


 槐は舌打ちをしてヒビの入った壁を思いっきり蹴ると、踵を返した。

 そして、それを見下ろす影が祈るように手を組んだ。

 どうか、どうか。






 鞠ナ(まりな)帝華(ていか)学園に来てから、一か月が過ぎようとしていた。怪我がかなり回復し、長く歩けるようになったため今日から恋雪(こいゆき)と共に授業に出ることになった。


「鞠ナちゃん、おはようっ!」

「んん……。」


 恋雪に起こされた鞠ナは目をこすりながら体を起こす。恋雪は既に制服に着替えており、準備万端だった。もたもたと起き、ベッドから降りて大きく伸びをする鞠ナ。

 部屋に備え付けられている洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨く。その間、恋雪は楽しそうに鞠ナの髪を梳かしていた。鞠ナの方が背が高いので、恋雪は適当な台に乗って。


「ふわふわになったよー。」

「ん、ありがとう。」


 ブラシを置いて、恋雪は台を片付けた。ぱぱっと着替える鞠ナに恋雪はカバンを持ってくる。


「バッチシ準備しといたよ。」

「全部任せっきりね……。ありがとう。」


 鞠ナは最後にボタンを留めると、カバンを持って部屋を出た。

 怪我で臥せっている間は、部屋まで恋雪か由月(ゆづき)がご飯を持ってきてくれていたが、普通は今日のように食堂でご飯を食べに行く。鞠ナにとっては今日が初めて食堂に行く日である。

 

 二人は、自分達の部屋がある七階から、一つ上の六階にあがるためエレベーターへと向かった。


「恋雪ー!!」

「あっ、今日子(きょうこ)先輩。おはようございます。」

「隣のコが新しく来た鞠ナちゃん?」

「初めまして、中峰(なかみね)鞠ナです。」

「初めましてー。今から食堂に行くとこ? あたしも一緒に行っていいかな。」

「もちろんです。」


 その間、今日子――岩谷(いわや)今日子(きょうこ)と共にエレベーターを上がり食堂へ向かった。


 食堂は既に人が集まっており、今日子が席を取ってくると行って離れてしまった。


「結構、広いのね……。」

「すごいよねぇ。あっちのケースから、食べたい方の札を取ってくるんだよ。」


 そう言って恋雪はカウンター端のカゴを指さした。

 カゴの横にはホワイトボードが掛かっておりその日のメニューが書いてある。カゴ毎に入れられた小判型の札には『①ごはん』『②パン』とそれぞれの書かれていて、好きなものを選べるようになっていた。今日でいえばオムレツに和え物、ゼリーが共通のメニューでご飯のセットかトーストセットかを選べるようだ。

 ホワイトボードを見つめて少し悩み、鞠ナと恋雪はそれぞれ二番の札を取った。


「わー、一緒だねっ。じゃあこの札を持って、あっちの列に並ぼっか。」

「大分並ぶのね……。」

「いつものことだねー。これが嫌で早く来る子もいるんだよ。」


 列には既に十人ほどが並んでいたが、みな背格好も歳もごちゃまぜで鞠ナはようやく色んな人がいることを認識する。


「はあ、私ここに来たのね。」

「どうしたの?」

「やっと実感が湧いたというか、ここにいるんだなって。」

「来てから長かったもんね。今日は美味しいもの食べようねっ!」


 長く感じた列も、気づけば二人が先頭に来ている。

 恋雪が鞠ナに教えながら、札をカウンターに出す。その時、厨房にはよく知った寮母が立っていた。


「おはよう。起きれてえらいねえ、鞠ナちゃん。恋雪ちゃん。」

「ゆづちゃん! おはようございます!」

「おはようございます。」


 手際よく皿に盛り付けていく由月。あっという間に二人分のお皿を差し出し、受け取った鞠ナと恋雪はそれぞれのトレーに乗せる。


「授業頑張ってね!」


「はーい!!」

「はい。」


 元気よく由月に返事をして、今日子が座る席を探す。

 真ん中あたり、今日子は手を振って待っていた。


「おかえりー。じゃ、いってきまーす。」

「いってらっしゃい、今日子先輩。」


 恋雪は丁寧に今日子を見送った。今日子の優しさに今更気付いた鞠ナは慌てて頭を下げたが、大丈夫と今日子に言われてしまった。

 少し申し訳なく思った鞠ナだったが、早く食べようと誘われて肩をすくめてから手を合わせた。


「いただきます。」


 ようやく朝食にありつけ、ひとくち食べた時だった。隣の席から少し訛った言葉で女の子が話しかけてきた。


「あなた中峰ちゃんね?! わあああっ、嬉しいわあっ!!! 会いたかったんよー!!!」

「は、はい……。」


 どうするべきか困っていると、彼女の向かいの席に座っていた少年が声をかける。


「落ち着きなよ叶雨(かなう)。」

「だって、めちゃくちゃ、こう、美人さんでさあーー!!! うち、なんか緊張しちゃってさあ!」


 少し崩れたおさげ髪に、厚めの眼鏡をかけた少女がテンション高めに語りだす。あまりの早口に鞠ナはついていけなかったが、こんなことは初めてではないらしく少年は慣れた手つきで素早く制する。彼は困った表情で鞠ナに謝った。


「ごめん、怖いよなこいつ。いつもこんな感じだから、あんま気にしないでくれよ。」

「え、ええ。頑張るわ……。」

「俺は真浪(まなみ)凌也(りょうや)。こいつ――(まゆずみ)叶雨(かなう)と同じDクラスだ。」

「Dクラス……?」

「ありゃ、まだクラス聞いてなかったのか。」


 鞠ナがきょとんとしていると、食べながら恋雪が説明をしてくれた。


ひょっとまってね(ちょっとまってね)……もぐもぐ。」

 ごくり、と飲み込むと恋雪が叶雨達を指差しながら鞠ナに質問をする。

「鞠ナちゃんは何歳になるの?」

「私? この間で16歳になったばかりよ。」

「わあっ、じゃあ私が一個お姉さんなんだっ!」


 恋雪は自分がお姉さんであると知ってから、うきうきと楽しそうにクラスを説明し始めた。鞠ナはその間苦笑いをして、見守る叶雨はにやにやして、その様子が異様に見える凌也は怪訝な顔をしながら。


「帝華だとね、6歳から22歳くらいを合わせても全部で50人もいないの。だから複数学年を一クラスでまとめているんだよ。」


 恋雪は、テーブルに置いてあるペーパーナプキンを一枚取り出しアンケート用のペンを持ってきて、図を書いて見せる。上からA、B、C、D、E、Fと六個のアルファベットを書き連ねた。


「簡単に言うと―、えっと、AとBが小学校、Cが中学校、Dが高校で、EとFはもっと上。頭が良い人とか難しいこと勉強するならEとかFとかふんわり分けられてるんだよ。」


 鞠ナがふむふむと相槌を打ちながら聞いていると、横から叶雨が乗り出してそれに書き加えた。


「大人に近づくと色々やること増えるんよ。適正とか、人数見て分けるらしいんけど、とりあえずこんなもん!」


 恋雪と叶雨が書いたクラス分けは以下だ。



 A…小学校低学年(5~9才)

 B…小学校高学年(10~12才)

 C…中学校(13~15)

 D…高校生くらい(16,17)

 E…高校生、大学1年生(18,19)←勉強ほどほど

 F…それ以上(20~23まで)←超タイヘン



「思っているより、細かいのね。」

「そう? 鞠ナちゃんならきっとすぐに覚えられるよ。」


 心配そうな顔をする鞠ナに、恋雪はふわりと笑いかける。そして、恋雪は頷いてからDを指さした。


「鞠ナちゃんは年齢と多分頭いいから最初からDクラスだと思うよ。私とおんなじ!」

「そう、ふふっ。恋雪と一緒ならきっと大丈夫ね。」


 鞠ナと恋雪がそう笑い合っていると、叶雨がぶーぶーと文句を言い始める。


「なにそれ、ずるーい。うちも一緒なる!! どーしよ、先生に言えばどーにかなるんやないかな?!」

「いや、無理だろ。待てって落ち着けって叶雨。あーもう、すまん加々宮。俺追いかけてくるわ。」


 そして凌也の制止も聞かず、どたばたと席を立って叶雨はどこかへ去ってしまった。嵐のような二人に恋雪と鞠ナがぼーっとしていると、いつの間にか今日子が戻ってきていた。


「いいよねぇ、叶雨ちゃん。いつも全力で。」


 今日子がまるで人生何週目かのような貫禄で呟くもので、鞠ナも恋雪も言葉をかけにくかった。

 食べようとしてそれに気づいた今日子はケラケラと笑いだし、スプーンを置いた。


「なーにしてんの。ほらぁ、もう冷めてんじゃない?」

「あ、ああ……。それもそうね。」

「わ、あっ、はいっ! いただきますっ!」


 三人でのんびりと、でも急ぎながら朝食を食べる。食べ終わるとトレーと共に食べ終えた食器を返却口へ戻した。

 その時のことだった。鞠ナの耳に何やら囁き声が聞こえた。


『ねえ、あれ? 新しい……』

『じゃない? なんかいかにもってカンジ。』

『ちょっと変なこと言わないでよ。あ、ほら。』


 端のテーブルで食事をしていた女の子達が鞠ナに向かって噂話をしていた。気づいた鞠ナがそっちを睨むと、げ。と言わんばかりの嫌な顔で返した。


『何あれー。』

『やばくない? こわすぎー、あははっ!』

『ばか、声でかいって。』


 その笑い声で恋雪と今日子も流石に気づく。今日子は鞠ナと女の子達の間に入るように立ち、恋雪は鞠ナの手を引っ張った。

 鞠ナは負けたような気持ちになり、振りほどこうとしたが恋雪があまりに必死に首を振るので仕方なく着いていくことにする。

 食堂を出て、エレベーターホールの方へ向かうと、ようやく恋雪は力を緩めた。


「相手にすることないよ、鞠ナちゃんは何も悪くないんだから。」

「でも、あんなのムカつくわ。それに、堂々と来るなら私は受けて立ってやるもの。」

「まー鞠ナちゃんのいーとこでもあるんだけどさ。」


 今日子は鞠ナの肩を軽く叩き、振り向いたところで食堂の方を顎で指した。


「あいつら、腹立つよね?」

「え、ええ。」


 そう聞くと今日子は目を瞑って腕を組み、少しだけ考えた素振りを見せる。それも一瞬で組んだ腕をほどくと鞠ナに問いかける。


「でもねぇ、これから鞠ナちゃんなら五年間あいつらがいるの。それが何だって思うかもしれないけどー。」

「……。」


 鞠ナは完全に図星だった。

 気まずそうな鞠ナを見ると、今日子はにやりと口角を上げる。


「もっと楽にしてなきゃ、この先辛いよ~? 」

「楽……?」

「そ。のら~りくら~りしてる方がココじゃあ何倍も上手い生き方ってやつ。」


 鞠ナはこの後の授業で思い知るのだった。寮生活が、この地下空間がいかに過ごしづらいものなのかを。


*****


「あ、あの子……。」

「その先輩が……して……ああ、それで……。」


 朝食を終えた鞠ナは、既に三限目に入っていた。しかし、未だに周りからヒソヒソされており、居心地悪くてたまったものではなかった。

 国語担当の教師、(きく)がこそこそと話す生徒を睨んで鋭く諭す。


「そこ、私語は慎みなさい。」


 生徒は黙って首をすくめる。菊はその舐めたような態度が気にくわずしばらく睨んでいたが、教室の静けさに気づくと、こほんと小さく咳払いをした。

 この授業だけで既に二回目、今日一日で見ればもう何回も繰り返したこのやり取りに、鞠ナは疲れきっていた。

 噂話の中身までは聞こえないものの、馬鹿にしてることだけはよく伝わった。


「鞠ナちゃん、大丈夫?」

「ええ……。でも一刻も早く帰って寝たい気分だわ。」

「そうだよねえ……。」


 頬杖をつきだるそうにする鞠ナがあまりに疲れた顔を見せていたので、隣の席についている恋雪は心配そうにしているが何もできない歯がゆさを噛み締めるしかない。

 鞠ナは鞠ナで今朝、今日子が言っていた『上手い生き方』を痛いほど肌で感じていた。

 ここは地下で隔離されているようなもの、つまり世界がこの学園内で一つ完結してしまっており、数十人しかいない子ども達は手っ取り早い娯楽に飢えている。そこに鞠ナという恰好のエサがやってきて、自分達の思う通りに彼女が反応を示せば、それはそれは箸が転がるよりもうんと面白い見世物である。

 そもそも鞠ナ自身が人といることが下手くそな性格なのだから、当然と言えば当然の状況ではある。

 考えても解決しない疲労が限界になり、遂に鞠ナは机に突っ伏してしまった。


「ねえ恋雪、あとどれだけいたら授業って終わるの?」

「今日はあと3時限分あるかな?」

「私耐えられる気がしないわ。途中で帰りたい、どうにかこうにか帰れないのかしら。」

「どうだろうねえ。ツボミが基準外の行動するには管理人の許可がいるから……。」

「ぜっっっったいに無理じゃないそんなの。はあ、どうしてこうなるのよ。」


 菊は二人の私語に気づいたものの、流石に鞠ナを叱る気にはなれず咳払いで合図を送る。また遠くからくすくす笑われ、きつい洗礼をしっかり浴びた鞠ナなのであった。

 ひたすら嫌な視線に耐え、チャイムが鳴る前に授業を終わらせチャイムが鳴るとさっさと菊は教室を出て行った。鞠ナはそれを見届けると、ぱたりと机に潰れるように突っ伏した。


「帰りたい……。」

「お疲れ様ー。」


 動こうとしない鞠ナに恋雪は優しく声をかけると、はっとした様子で


「あっ、でも次は訓練だね。もうストレス発散する勢いでいいんじゃない?!」

「ん……? 体育じゃなくて……?」

「そ、訓練。」


 恋雪はなぜか得意げだった。鞠ナは教室にもいたくなかったので恋雪に誘われるがままついて歩く。エレベーターホールへ向かい、三階へと向かう。エレベーターを降りてすぐのところに更衣室があった。

 恋雪は更衣室の鍵を開けて中へと入る。

 広いロッカールームで、それぞれ固有の番号がロッカーに貼られていた。入口付近に掛けられたキーフックから、鍵を取ると鞠ナに渡した。


「ここが鞠ナちゃんのロッカーになるんだよ。同じ番号のロッカーが開けられるから探してみてっ。」


 鞠ナは恋雪から鍵を受け取って同じ番号のロッカーを探す。思っていたより数があったからか少し手間取りながらも自分のロッカーを見つけると、そのまま鍵を開けた。


「見つかったー?」


 恋雪が後ろからてこてこと着いてきていたので、鞠ナは開いたロッカーを見せる。


「ここで合ってるのかしら。荷物が入っていて……。」

「それは鞠ナちゃんのだよ! この間健康診断受けたでしょ?」

「健康診断? ……ああなんか入学前にあったと思うわ。」

「でしょ。その時の数値で鞠ナちゃんにぴったりになるようジャージとか作られてるはずだから、それに着替えるんだよ。」

「なるほど……なんだか近代的なシステムね。」

「そう? 何にも考えなくていいのは楽じゃない?」


 そう笑うと、恋雪は自身のロッカーへと着替えに向かった。鞠ナもそれに倣って袋を開けジャージに着替える。いたって普通のジャージではあるが、大きくもなく、小さくもなく確かにジャストサイズで若干の感動を覚えた。

 少しして、恋雪が鞠ナの元へ戻ってくると、鞠ナは丁度ロッカーの鍵を閉めているところだった。


「着替えれた?」

「おそらく。」

「んじゃ行こー。」


 途中、恋雪が鞠ナにヘアゴムを渡し、簡単にくくりながら再度エレベーターに乗り、四階の訓練場へと向かう。


 ――――はっきり言って、舐めてかかったら死ぬんじゃないかと思う程、相当キツイプログラムであった。


 訓練場は通常のグラウンドのような更地になっており、ここが地下であることを忘れそうなほど広大なスペースが取られている。このまま運動会をしても平気なほどに。

 この訓練場の端っこ、壁際で一人だけ先にウォームアップを始めていた男子生徒が涼しい顔をして立っていた。

 彼は志島(しじま)涙依(るい)。鞠ナと同じ16歳でありながら、身体能力がずば抜けて高く、管理人達を含めても指折りの実力を持っている。

 涙依は鞠ナ達に気が付くと服の裾で汗を拭いながら軽く会釈をした。


「ああ、加々宮さん。」

「おはよう志島君。」

「はよっす……あと、中峰さん……。」

「え、ええ。おはよう。」


 鞠ナは慌てて会釈を返した。

 同年代にも関わらずかなりの気まずさに冷や汗垂らすだけの鞠ナは苦笑いを浮かべるしかなかった。


「別に怒ってないよ。」

「え?」

「俺が怒ってるとか思ってるなら違うから。」

「そんなこと思ってないわよ……。」

「そう? 良く言われるから。良かった。」


 涙依は顔色を変えず、困った素振りも見せずに淡々と言葉を返す。鞠ナは何も言えなくなっていたが、恋雪は何も気にせず楽しそうに涙依と話していた。


「そういえばさ。」


 涙依が思い出したように声を上げたその時、チャイムが響いて先生が入ってきた。

 会話は途中で切り上げられ、三人はいそいそと位置に並びに行く。


「よーしっ、揃ったなー? お、君が中峰か!!」


 先生は元気で大きな声を出し鞠ナを見やる。年若くフレッシュで、白い歯がのぞく笑顔がまぶしい教師だ。ジャージをきっちり着こんで、ホイッスルを下げ、バインダーを片手に抱えていた。

 その見た目と大きな声で名指しされたことでどことなく怒られるのではないかと感じた鞠ナは、少しだけ首をすくめたが、すぐに先生は首を振った。


「よろしくな、俺は鉄線(てっせん)だ。来てすぐに申し訳ないが、中峰に伝言があるぞ。」

「は、はいっ。」


 こほん、と咳払いをすると、ポケットから紙切れを取り出し読み上げ始めた。


「えー、そのまま読むからな。なになに……『ちんちくりんへ アタシは忙しい身なのであんたの見学は一切同席するつもりがないから、よろしくぅ。全部鉄っちゃんに見てもらってちょうだい。ヘマしてトラブル起こすんじゃないわよ、くそ面倒くせえから。んじゃね。』ってことらしいぞ!」


 もちろん、鞠ナだけがげんなりした顔を見せた。

 どこからどうみても槐からの言伝であり、内容から見るに鞠ナを放っておくと言われているようなものである。

 事実、訓練場の端には十階で見たようなベンチの部屋があり、ガラスは無いものの数人の大人が部屋にいた。鉄線はその部屋を指さして解説をする。


「なんだか察し良さそうだな中峰!! そうだ、基本はあのベンチに各々の管理人が待機するんだ。訓練と体育だけだがなぁ、まあ怪我することもあるからそれ用にいるって思ってくれ。」

「あ、でも……。」

「大丈夫だ、安心してくれ!! 槐先輩は来ないらしいが代わりに俺が見るからな!!!」

「……ありがとうございます。」


 鞠ナの心の中でどっちも嫌だと呟いた。

 そんな彼女を放って、鉄線はぱぁんっと勢いよく両手を叩いた。


「っし!! じゃあ始めるかあ! 中峰は初回だしストレッチと準備運動しながら最初は見学しておいてな。他はみんなランニング2周!! よーいどん!!!」


 まくし立てるように一息で言うと、鞠ナの周りは次々に走りだした。涙依も恋雪も鞠ナにばいばいと手を振って走り去ってしまった。

 あまりに急な出来事で驚いていると、鉄線は腕を組んで怒号を飛ばす。


「後半遅せぇーぞ!!! そんなちんたら走ってたら死ぬぞ!!!」


 昨今では考えられない言葉に鞠ナは目を丸くしていた。

 だが鉄線は顔も動かさず、列を見つめたまま鞠ナに説明する。


「この訓練はな、お前たちの花毒でお前たち自身が死なない為の訓練だ。本当は体育の方からできればよかったんだが、まあ仕方ないな。」


 訓練の名の通り、死なない為に体の動かし方を学び、自らを守る術を叩き込み戦えるようにするのがこの訓練の目的であった。だが本気で死ぬような訓練をするわけではなく、あくまで街中で狙われたり、友達が暴走した時のためである。

 故に鞠ナ以外は準備運動も無く突如として走らされている。


「お前たちの持つ花毒はそれだけ強大で、それだけ協力な代物なんだ。いざとなったその時には、友人を殺す覚悟でいろ。」


 そう語る鉄線の声は低く、鋭く、刺すような声で放った。顔色も変えず。

 鞠ナはその様子に、何か恐ろしい空気を感じ取り思わず背筋を伸ばした。


「花毒はそれだけ非日常的な存在で異常現象そのものなんだ。だからこそ、お前たちツボミにはできるだけ普通の人と同じ生活を求めてもいるんだがな。」


 鉄線は口角を上げ、笛を吹いて傍に置いてあった箱を持ち上げる。鉄線はその箱から次々とくじを引いて名前を読み上げていった。

 

「良しっ!! じゃあペアできたかー。」


 人をぐるっと見やるとこくりと頷いて再度笛を吹く。


「はじめっっ!!!」


 それを合図に、ドカァァンッッととんでもない爆発音をたてて砂埃が撒きあがる。鞠ナは思わず目を瞑り、咳き込んでしまった。

 鉄線は動かないままにやりと笑う。その視線の先を辿ると、恋雪と涙依が組み合っていた。じりじり押されている状況に鞠ナは恋雪が危ないと咄嗟に叫んでしまう。


「恋雪?!」

「まあ落ち着け、大丈夫さ、加々宮も志島も強いからな!」


 鉄線の言う通りか、砂埃が薄まると、二人は互いに相手の襟や腕を掴むなどして戦っていた。

 涙依が真っすぐ拳を突き出すと、恋雪は極めて冷静に少ない動きで避け、涙依の姿勢を崩しにかかる。だが涙依も超人的な動きで突進する恋雪を流してかわす。


「どう、なってるの?」


 呆気にとられる鞠ナを他所に、鉄線は何やら熱く叫んで楽しそうに笑っていた。


「いけっ、加々宮!! 俺は志島が倒される瞬間が見てみたいぞ!!」


 まるでプロ野球の中継を見る少年のようなはしゃぎっぷりだったが、二人の周りでそれぞれ組み合っている生徒たちは一切気にした様子が無かった。

 恐らく教師としてはダメな発言だが、ベンチに悠々と座る管理人たちも無視していた。

 鞠ナは自身の目を疑ったものの、あちこちから吹く突風や襲い来る砂埃が現実であることを裏付けてくる。恋雪は女子らしく細い身体で、普段はおっとりした空気をまとっているのに目の前にいる恋雪は鋭い眼光で涙依の次の動きを見定めるような狩りをする眼差しを向けていた。


「志島君ッ! 手加減は今すぐやめて!」

「……いいけど。……怪我しても、俺に文句言わないでよ。」


 二人が叫ぶと、鞠ナは思わずその動きを注視してしまう。きっとあまりに危ないなら鉄線やそれぞれの管理人が出てきてくれると信じて。


「恋雪、頑張って。」


 鞠ナの呟きが聞こえたのか、聞こえていないだろうが、その瞬間二人ともが同時に飛び出した。恋雪が歯を食いしばって腕を振りかぶり涙依に襲いかかる。だが涙依も平然とした涼しい顔でそれを片腕で受け止める。

 恋雪が慌てて体勢を立て直そうと腰を落とす。

 それを狙い澄ましたかのように涙依が屈んで足元を薙ぎ払うと、恋雪も負けじと後ろに倒れるようにして足を開いて耐えしのぐ。

 涙依がほんの少し眉をしかめると、立つ動作と共に一歩前に踏み込んで恋雪に掴みかかる。

 襟元を掴まれてしまった恋雪はそのまま一緒に倒れるようにして投げられ、地面に叩きつけられてしまった。

 

「っ……いっ…………たああぁぁっ!!!!!」


 恋雪が痛みで悶えると周りから歓声が沸き上がった。

 鉄線も同様に。


「うおおおおっ、惜しかったな加々宮!! あとはスピードだな、志島の回転の速さはずば抜けてはいるが、技術の丁寧さでは加々宮の方が上かもしれんなあ。」


 鉄線はぶつぶつと何かバインダーにメモを始めた。

 鞠ナはそれも見ずに駆け出していた。


「加々宮さ―――――」

「恋雪ッ!!!!!!」


 涙依が服の埃をはたいて立ち上がり、恋雪に手を伸ばすと、それよりも早く鞠ナが駆け寄った。

 起き上がろうとしない恋雪を不安に感じて、心配そうに必死に恋雪の手を握る。


「大丈夫?! 恋雪、怪我は無い? 痛いところがあったら私に言うのよ?!」

「あ……あははっ。ありがとう鞠ナちゃん、大丈夫だよ。」


 鞠ナの焦りように逆に冷静になった恋雪はよいしょと声を出して起き上がる。そして、鞠ナの後ろから同じく心配そうに覗き込む涙依に笑いかけた。


「イケると思ったんだけどなー。やっぱ強いね、志島君。」

「いや、加々宮さんも十分強かったよ。勢い任せに投げてごめん。」

「大丈夫!! 私ちょー丈夫だからっ!!!」


 恋雪はそう言って鞠ナと涙依に笑って見せた。

 その様子に安心した鞠ナはふふっ、と笑みをこぼす。つられて恋雪も涙依もくすくすと笑い始める。その間に他のペアも続々と決着が付いているようだった。


「恋雪って強いのね。驚いて思わず飛び出しちゃったわ。」

「ありがとう、でももっと頑張るんだあ。志島君や百合(ゆり)さんの方がうんと強いんだよ。」

「百合さん……?」


 すると恋雪がベンチの方を指さした。そこでひらひらと鞠ナたちに向かって手を振る長身の女性がいた。細身でもメリハリのついたスタイルに艶やかな髪を揺らしているその立ち姿はまさに百合のような清純さがあった。

 鞠ナが見つめていることに気が付くと恋雪はくすりと笑みをこぼす。


「私の管理人さんなんだよー。すっごく強いからいつか見せられたらいいなあ。」


 だが鞠ナは全然違う箇所で一人感動していた。


「管理人って普通あんなに優しそうなの……?」

「中峰……?」


 鞠ナの様子に涙依も気づく。だが鞠ナは一人眉をしかめて考えを巡らせていた。


「中峰、大丈夫か?」

「やっぱ槐さんっておかしい人なのね。」

「鞠ナちゃん……?」


 二人が話しかけてもぼーっとしたままの鞠ナ。彼女を現実に引き戻したのは鉄線の吹く笛の音だった。


「よぉーしっ!!! みんな終わったかー?」


 ぐるりと鉄線が見渡すと、にっかりと笑い生徒たちは立ち上がる。それを見ると鉄線は生徒に指示を出す。


「走れっ! 全員今から三周ランニング!!」


 それとほぼ同時にみんなが走り出す。恋雪と涙依も駆けだした。鞠ナが鉄線の勢いに固まっていると鉄線からのヤジが飛んできた。


「どうした中峰!! お前も走るんだぞ!!」

「えっ……あ、はいっ!」


 わたわたと慌てて走りだした。結論として鞠ナは他の生徒の半分も走れなかったがチャイムが鳴る前に解放されくたくたのまま訓練授業を終えた。

 更衣室に戻り、着替えているとまたクラスメイトから囁かれていることに気づき、鞠ナは再度ギリッと睨んだものの『なあに、あれ。』と言うばかりでこそこそ笑われるばかりだった。彼女は幸いにも恋雪に声を掛けられて更衣室を後にしたが、胸には嫌なもやが引っかかっているようだった。


「何をあんなに話すことあるんだろうね。」

「いや、いいのよ恋雪。ああいうのは言わせておけばいつか飽きるわよ。」

「鞠ナちゃんがいいならいいけど……。」


 心配する恋雪に御礼を伝えると、丁度エレベーターホールに涙依が立っていた。


「お疲れ。二人ってお昼は食堂? 一緒にいいかなって思って。」

「いいよー! ね、鞠ナちゃん。」

「ああ、そっかお昼。私は一緒でいいわよ。」


 鞠ナが頷き、三人で食堂へと向かう。

 訓練が少し早く終わったからか今朝よりも空いており席が選び放題な状況。いそいそとカウンターに近く、それでいて込みにくい壁側の席を取ってそれぞれお茶を汲んだグラスを置いた。

 昼食はA、B、Cの三種から好きなランチを選ぶ方式だった。運動後でお腹がぺこぺこだった三人は迷わず唐揚げ定食を選び、Aの札を取ってカウンターへ出す。


「お、新しい子だ!! みんな一緒とか助かりまーす!!」

「あっ奈々(なな)ちゃんだ!」


 カウンターには今朝は見えなかった若い女性が立っていた。エプロン姿が良く似合っており、奥には女性と似た顔の男性が寸動鍋で料理をしていた。


「どもども~、新しい子。由月ちゃんの娘やってます金子(かねこ)奈々(なな)って言いま~す。」


 敬礼のようなポーズをしてへらへらと挨拶をする奈々。そして奥の男性を指して彼の紹介もする。


「あっちが金子(かねこ)斗々(とと)。同じく由月ちゃんの息子とあたしの弟やってます。」


 そう奈々が紹介するとかなり鬱陶しそうな表情をしてイヤイヤ会釈をする。すぐに振り返ってどこかへ行ってしまった。

 奈々はあちゃーとわざとらしく額に手を当てると、いつの間にか出来ていた定食を三人に差し出した。


「斗々ってば人見知り激しいからあんま見ないかもしれないけど、由月ちゃん居ない時はあたし達が代わりに出てるからよろしく~。今度からはそんな訝しげに見ないでいいからね!! 新しい子!!」

「いや……そんな風には思ってないです。あと名前……。」

「さあさあ! 冷めちゃうよ~? ほらほら食べといで食べといで、お母さん戻ってくる前ならおかわりさしてあげるからっ!!!」


 奈々がハンドサインでしっしっと避けると、渋々鞠ナはお盆を受け取る。恋雪は奈々の事が気に入っているらしく楽しそうにしていたが、涙依はやや鞠ナの気持ちが分かるようで苦笑いをしていた。


「まあ奈々さんの言う通りだから、食べようか。」

「それはそうだけど……仕方ないわね。」

「美味しそうだよね、みんなが戻ってくる前に食べちゃおうよ!」


 ガタガタと席に着くと、手を合わせては揃っていただきますと言うとそれぞれ食べ始める。

 奈々はカウンターからその様子を見て、嬉しそうににこにことしていた。鍋を洗う斗々を見て頬杖をつきながら話しかけるが、斗々には一蹴されてしまう。


「斗々ちゃん良かったね~、恋雪ちゃん元気になって!!」

「………………そう。」


 むっと膨れてから、再度鞠ナたちを見て優しい目を向ける。



()()()()()、頑張ってね。」



 早く来れたおかげか混み合う前に食べ終えた三人はドリンクバーで持ち帰りカップに好きな飲み物を入れて教室へ向かう。

 その道中、鞠ナは朝と同様に嫌な出来事に遭遇した。

 廊下の反対から小走りで鞠ナたちに手を振る人影が見えた。


「岩谷先輩?」

「あーいたいた。探したんだ……お、良かった、志島と一緒で。」


 若干息切れをしながら今日子が駆けてきた。涙依の方を一目見てから鞠ナの肩に手をついた。


「鞠ナちゃん授業大丈夫だった? 怪我させられたりとかしてない?」

「はい……。岩谷先輩、何かあったんですか?」

「いや、あたしはいいんだよ。ちょっとみんなこっち来てくれる。」


 今日子は三人を連れて教室のある廊下の奥、階段の影になる場所へと連れて来られた。途中、涙依が『カツアゲですか?』などと聞いていたものの、今日子は無視していた。ぶつぶつと呟きながら悩んでいる様子に恋雪がしびれを切らした。


「ここならまあいいか……。」

「先輩、鞠ナちゃんに何かあったんですか?」

「ん? あー、そうじゃないんだけどさ。」


 頭を掻いてどういえばいいものかと迷う今日子。勢いで来てしまった部分もあり、あごに手を当ててうーんとしばらく悩んでから語り始めた。


「朝から多分鞠ナちゃんの噂祭りだよね?」

「ええ、そうです……。」

「その噂話が今ちょっと一人歩きしちゃっててさ、その方向が若干まずい方向なんだよね。」


 三人は互いに顔を見合わせて不思議そうな顔をする。確かに囁かれてはいたが新しいものに対する興味や嫌煙程度だったと感じていたが、それがどうマズいというのか。


「……気を悪くしないでね、噂だから。なんか、鞠ナちゃんが殺人犯みたいにされているんだよね。」


 鞠ナはすぐに理解ができず一瞬だけ眉間にしわを寄せた。どこの誰がそんな噂を流したのかさっぱりだったが、少なくともこの場にいる今日子、恋雪、涙依ではないことだけは分かる。鞠ナと同様に訝し気に眉をひそめているから。


「そうだよね、そういう反応になるよね。」

「色々言いたいんですけど、とりあえず飲み込みますのでもう少し詳しく聞いてもいいですか?」

「いいけどあんまり気分のいい話じゃないよ。」


 今日子は少し声を低くして鞠ナの意見を伺う。頷く鞠ナを見ると少し悲しそうに話し始めた。


「嫌だったら辞めるから言って。鞠ナちゃんがね、この施設で人を殺したって言われているんだよ。あたしもそうだし、恋雪は付きっきりでゆづちゃんも居たから鞠ナちゃんにそんな時間も理由も無いことはよく分かってる。でも来てからずっと姿を見せないことを怪しむような子がいてね、何か変だって。」

「それは鞠ナちゃんが体調を崩してっ!」


 途中で恋雪は切なそうに声を出したが、鞠ナは首を振って制止した。鞠ナからすればそんな風に言われても仕方がないし、事実怪しいことはあったのだから。


「恋雪のこともあたしは分かるよ。ゆづちゃんからも都度聞いていたし。だけどそれがどこかからこじれていったらしくて、スパイだの暗殺者だの、まあその辺は可愛いもんだけど。気分の悪いものだと学長の愛人だとか、管理人の……槐さんと寝てるだとか。」

「――――っ!!!」


 鞠ナは叫びそうになるのを必死で息を吸い耐える。自分の腕を掴んで食い込むほど強く握り締める。こそこそされるのはまだ良しとして、そんな気色の悪い噂を流されてはたまったものではない。ぎりぎりと歯を食いしばる音が漏れて、恋雪は思わず鞠ナの肩に手を添えた。

 そう、鞠ナは槐のことなど微塵も信頼などしておらず、むしろ敵対視しているのだから。


「……続けるよ。それだけでも気分悪いんだけど、どこかから同じ時期に起きた事故の話が混ざっちゃったらしくてさ、その事故が鞠ナちゃんのせいにされてしまっているの。」


 それを聞いた涙依は目を見開いた。

 その事故は、涙依が尊敬する上級生【小槻(こづき)湊十(みなと)とその管理人、(あざみ)が重症を負った事故】のことである。涙依は一瞬だけよぎった鞠ナへの疑惑をすぐに振り払う。目の前でそれを否定しているのに、疑うのは余りにも野暮だった。しかし、その疑惑は消しきれないものになる。


湊十(みなと)はあたしや叶雨ちゃんと同じFクラスなんだけど、ずば抜けて優秀な男でね。だから、重傷を負ったって聞いて結構話題になってたんだよ。」

「そ、それじゃあ……今日子先輩、それじゃあ鞠ナちゃんが……。」


 恋雪は何かに気づいた様子で慌て始める。

 かなり無理矢理な噂話だが、確かに広まるだけの根拠はあった。しかも、鞠ナが他人と話さなければ話さないほど信憑性は高まってしまう厄介な根拠が。


「そう。湊十が重傷を負った日と鞠ナちゃんが学園に来た日がまったく同じなの。そして薊はもう、亡くなっている。湊十も当時の記憶が無いから物的証拠が無いけど、状況証拠だけが出揃っているような感じかな。最悪だよね。」

「で、でもっ、鞠ナちゃんは絶対そんな……。」

「分かってるよ、だからおかしいって思って来たのよ。だって、鞠ナちゃんは湊十のことを知らないでしょ?」


 今日子は悲しみ、苦しそうな表情で鞠ナを見つめる。それは、鞠ナと湊十が別の事件であれと願う祈りでもあった。


「鞠ナちゃん。鞠ナちゃんが来た日、夕方過ぎに地下から誰かの悲鳴を聞いたって言った子がいるの。丁度、一人の時らしいんだけど。でも、それでも鞠ナちゃんは湊十には関係無いんだよね。」


 今日子に疑われている。隣にいる涙依も恐らく怪しんではいる。その空気を察した鞠ナは、噂の正体とあの怒りで睨むクラスメイトの気持ちを考え、苦しくなった。

 ここで今日子と涙依に言い訳することは出来ても噂が留まる一手にはならない。必死に頭を回転させてもいい方法が見つかるわけもなく、鞠ナはぼそぼそと話すことしか出来なかった。


「湊十……先輩のことは私は知りません。でも、でも……その悲鳴は、私の悲鳴だと……思います。」


 そして、素直に事実を打ち明ける。ぐっと歯を食いしばって、拳を一層強く握りしめる。誰がやっているかは分からないが、厳密にはある人が浮かぶものの噂を流す理由が無いが、こんな仕打ちはあんまりだと悔しさで顔を俯ける。


「ごめんなさい、みんな。でも私は殺人だとか誰かに殺意を向けたことは無いわ、絶対に。もし私が誰かを殺すような時があれば――――」


 鞠ナは一人でこの問題と戦う覚悟を決め、潤んだ瞳で睨むように顔を上げ言葉をつむぐ。



「その時は総出で私を殺していいわ。恨みの数だけ刃を立ててもらっても一向に構わないわよ。」



 そう宣言すると、くるりと振り返って鞠ナは駆け出した。

 恐らく事情を知っているだろう、槐を探しに。


「待って、鞠ナちゃん! 私も……。」

「加々宮。」


 一緒に駈け出そうとした恋雪を止めたのは涙依だった。彼も同様に複雑な感情を抱えたまま、恋雪を諭す。


「加々宮は疑っていないんだろ。」

「志島君は?!」

「落ち着け。違う、そうじゃなくて加々宮が中峰と一緒に動けば、お互いに迷惑になるだろ。」


 涙依は激高する恋雪をなだめるように優しく話す。一度でも友達を疑った自分に、そんな権利は無いと言い聞かせながら。


「加々宮だけは中峰を信じて待っててやれるんだよ。中峰を信じられるだけの理由が、加々宮にしか無いんだよ。」


 その言葉で、恋雪は怒りを鎮める。

 心配と不安と怒りでぐちゃぐちゃになった感情を抑え込みながら必死に息を整えると、その場にへたり込んでしまった。


「なんで……っ、鞠ナちゃんはいい子なのに。誰よりも優しい子だよ……っ!! なんでみんな疑うの?!?!」


 恋雪は悔しそうに言葉を吐くと、その場で嗚咽を漏らし始める。

 今日子にも涙依にも、それを諫める資格が無く、ただ恋雪のそばにいて泣き止むまで見守ることしかできなかった。


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