7 落ちた先には何がある
暗闇に沈んでいた意識が急激に覚醒し、山田夕月は飛び起きた。
いや、正確には飛び起きようとはしたが、出来なかった。
「――ッ!」
目が覚め、視界に入る天井に見覚えがない。
気を失う前にいた部屋ではない事に気が付いたが、今はそんな事はどうでも良い。
四肢が動かせない。
山田は何かの台の上に大の字に寝かせられた状態で、四肢と首を拘束されていた。
そして、寒い。
水をかけられたのか胸から上がびしょびしょに濡れている。
「あぁ、起きたんですね。おはようございます。まぁ別にまだ寝てても良かったんですけど」
目の前には空のバケツを持って笑う優男。
持ったバケツの中身の行方は考えるまでもない。
バケツからタオルに持ち替えた男は、乱雑に山田の濡れた部分を拭う。
顔、髪、肩、胸――そこで山田はようやく気付いた。
自分が何も着ていない事に。
状況が、理解できない。
理解したくない。
「なん、で?」
「さて。汚れも落ちて綺麗になりましたね。では、始めますか」
「ちょ、ちょっ、待っ! なんやねんこぐぅッ――! ――ッ!」
「こら、うるさいですよ。良い子だから静かにしててくださいねー」
大きな声を出し抗議を始めた山田の口へ、男はすぐさまタオルをねじ込み封殺した。
色々な汚れを拭き取ったであろう汚いタオルを無理矢理ねじ込まれ、山田は呻くことしかできなくなる。
まるで聞き分けのないペットを優しく嗜めるような、男のそんな口調が恐ろしい。
困ったような笑顔に優しい声音、それとは裏腹に、一切の慈悲などを感じさせず、なんの躊躇もなく実行してみせた冷酷さ。
なにもかもが噛み合ってないようで、噛み合っている目の前の男が恐ろしくてたまらない。
「えーっと……荷物は後から調べるとして、まずはやっぱり本体から、ですよね」
山田が拘束されている台の隣に設置された小さな机。
男はそこからいそいそとバインダーとペンを拾い上げると、一糸纏わぬ山田へと視線を落とす。
山田とて女だ。
見ず知らずの男にジロジロと己の裸体を見られて何も思わない筈がない。
羞恥が込み上げる。
そして、それよりはるかに大きな恐怖という感情も。
逃げたくても体は拘束されて動けない。
己の体を隠す事もできない。
叫びたくてもタオルで口は塞がれ叫べない。
もとより恐怖で声もでない。
震え怯える山田の視線を無視し、男は山田を観察する。
「うーん。見た目は本当に僕たち人間と同じですねぇ」
山田の体を無遠慮にぺたぺたと触る男から色欲は感じられない。
どちらかといえば、知識欲や未知への好奇心といった類の感情だろう。
まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように、キラキラとした瞳で山田を見つめる男。
「うーん。ナカミも同じなんでしょうかねぇ?」
「――ッ!んぅうー!!」
「あ、こーら。暴れない暴れない。もお、仕方ないですねえ。めんどくさいんでちょっと寝といてもらっていいですかあ?」
一度山田から離れた男が再び戻ってくる。
その手には注射器が握られていた。
「はーい。チクっとしますよー」
「んんぅううううう!」
必死で抵抗するが拘束された体では高が知れている。
遠慮も何も無く、無造作に針を刺された首はチクどころかブスッっと音を立てたようだった。
注射器の中の液体が山田の体の中に注がれる。
山田の意識が途切れるのも時間の問題だった。
次に山田が意識を取り戻した時には別の部屋にいた。
いや、部屋というよりは檻の中。
もっと言えば牢屋と言ったほうが正確か。
窓はなく、薄暗い四角い部屋の真ん中に山田は転がされていた。
意識を失う直前にされていた事を思い出し、慌てて自身の体をチェックする。
四肢の拘束はなし。
服は着せられており全裸は免れた。
簡易的なシャツにズボン。
靴はなく裸足。
そして首には忌々しいあの首輪。
体は少し痛むが問題なく動く。
手を握ったり開いたり、腕を振ってみたり、ジャンプしてみたり。
異常はない。
念のため服を捲り素肌も確認する。
意識を失う直前にあの男は不穏な事を言っていた。中身がどうとか。
そうして――見なければ良かったと少しばかり後悔する。
胸、正確には心臓付近に一番大きな縫い跡。
他にも多数。
山田は二十五年生きてきた中で、幸いな事に縫うほどの大怪我をしたことがない。
だからこれは全てあの男の仕業。
ザッと音がしたように一気に血の気が引いていくのを感じた。
(なんで? だってそんなに痛くない……麻酔……? でも普通に動ける。え? なんで?)
パニックになっているところに、今一番聞きたくない間延びした男の声が聞こえた。
「あー。やあっと起きましたね。死んじゃったかと思いましたが、元気そうでなによりです。気分はどうですかあ?」
「……………………」
「ちょっとお、無視はよくないですねえ。ご主人様の質問にはちゃんとお返事しなきゃ」
「ぐ、あああああぁぁぅああああ!!!」
身体中に走る激痛に耐えきれず、またも床を転がる。
おそらくたった数秒しか与えられなかっただろう激痛でも、山田にとっては永遠に感じた。
叫びすぎて喉が痛い。
荒い息を整える山田に男の声がかかる。
「それで、どおですか、気分は?」
「はぁ、はぁ……ぅぐッ――――最、悪や」
「それは結構! まあキミの気分や体調などどうでも良いんですけど」
じゃあ聞くなとは言えなかった。
その代わり精一杯睨む事で意思を伝える。
「わあ怖い。意識を失うまでは怯えてた癖に檻越しだと強気なんですか? 狭間の世界の人間とはみんなそうなのですか? それともキミ個人の性格でしょうか? いえ、興味深いですがそれはまた今度にしましょう」
今は躾を優先ですね。
そう言って男は檻の中へ入ってくる。
床に転がる山田を見下ろす男は笑みを浮かべてはいたが、その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。
暗い地下室からは山田の叫び声が連日響く。
しかし、それも一週間もすれば、静かになった。
それからは山田夕月にとっては地獄の日々だった。
山田は名無しの召喚獣に成り果て、男の命令通りに生きる毎日。
拒否すれば首輪により激痛を味合わせられるので、拒否もできない。
やりたくなくても、やけくそででもやるしかなかった。
訓練と称して化け物と戦わせられた。
何度も死にかけた。
罪を犯した人間を捕まえて殺した。
謝罪なんて意味がなかった。
実験として体を弄られた。
死ぬほど痛かった。苦しかった。
エトセトラエトセトラエトセトラ。
常に体はボロボロだった。治療は最低限、死なない程度に。
人間としての尊厳などなかった。
だって山田は人間ではなく召喚獣。
この世界の人間にとっては文字通り獣で、そしてあの男にとっては実験動物、珍しいモルモット程度の認識。
しかしなかなか手に入るものではないから、殺さないように、それだけは注意されていた。
町の人間どもも山田の存在など見えていないかのように振る舞い笑う。
もしくは腕に付けられた本当の目印を見て安心して笑うのだ。
彷徨獣などではなく、ちゃんと主人のいる召喚獣なんだと。
吐き気がする。
死ぬ事も許されず、心を殺してやり過ごす日々。
いつか憎いクズ野郎に復讐できる日を夢見て。
いつか畜生扱いした連中を皆殺しにできる日を夢見て。
いつか存在を消した連中に地獄を見せられる日を夢見て。
いつかこの狂った世界の全てを壊せる日を願って。
帰るのは諦めた。
帰ってもどうせもう自分は自分で無くなってしまったのだ。
元には戻らない。戻れない。
元の生活はできない。
ならこの世界で生きていく。
人間達から全てを奪ってでも生きてやる。
もう、遠慮はしない。
もう、戸惑わない。
だって――自分はもう山田夕月ではないのだから。
獣ならば人間の都合など知ったことではない。
獣は獣らしく生きるまで。
いや、強化実験とかいうくだらない実験のせいで、すでにこの身は純粋な召喚獣ですらないのかもしれない。
右目を抉られ、代わりにどこぞの悪魔の眼を入れられた。
得体のしれない薬品を何度も投与された。
心臓に死んだ天使の心臓をいくばくか埋められた。
どれもこれも拒否反応が酷かった。
特に心臓は酷かった。
でも、生き残った。生き残らされた。
ならばこれらを糧とし自らの力に変える。
すべてを自らの力として利用する。
平凡な人間は名無しの獣に落とされ、名無しの獣は一年かけて無慈悲な化け物に成り果てた。
黒かった髪は真っ白になり、赤と黒の淀んだ眼光は凶悪になった。
食事をまともに取らなくても死なない体になった。
今まででは考えられないような馬鹿力を出せるようになった。
人を殺すことに、罪を犯すことに何も感じなくなった。
良いことだ。この世界で生きるのに最適だ。素晴らしい。
従順な振りをして機会を伺う。
そんなある日クズが出かけると告げてきた。
「東の都市にある研究所を破壊して悪魔が逃げ出したそうです。ふふっ。ちょうど欲しかったので捕まえに行きましょう」
そう言ってそのまま列車に乗せられた。
今までいろいろな場所へ行ったが、列車に乗せられたのは初めてだ。
人間であった山田なら少しばかり心躍ったであろう新しい土地への期待感も、今となっては何も感じない。
むしろ煩わしく、めんどうくさいだけだ。
狭いコンパートメントの中、向かい合った座席。
化け物は窓際に腰を下ろした大嫌いな男のはす向かいに座る。
少しでも男の顔を見たくもない化け物は目を閉じてただ時が過ぎるのを待つ。
そんな時ふと複数の声のような何かが外から聞こえた気がした化け物は目を開ける。
窓の外に目をやると、一瞬何かが見えた。
「どうかしましたか?」
「いえ……別に」
「そうですか」
本当は報告をするべきなのだろうが、キチンと視認したわけではないので黙っていた。
嘘をついたわけではない。
そしてそれは起こった。
突然の爆発音。
激しく揺れる車体。
打ち付けられる体に、車内より響く悲鳴。
何が起こったのかはわからない。考えたくない。
なのでただ一つだけ、はっきりとわかっている事を考える。
目の前でひしゃげた車体に挟まれて、身動きが取れずにうめき声をあげているクズがいるということを。
自分もかなりの怪我を負ったようだが、そんなことはどうでもいいと思えるぐらいには気分が良くなった。
衝撃でコンパートメントの外へとはじき出された自分は、運よく被害を免れた。
今まで散々な目に合っていたのはこの時の為だったのかと思えるくらいの幸運が訪れたのだ。
――待ちに待ったチャンスが。
男には意識がない。
周りの人間どももパニックになって、こちらなんて見ていない。気にしていない。
思わず笑みがこぼれる。
笑ったのなんていつぶりだろうか。
まだ自分は笑えたのだと驚きすらある。
床に落ちていたクズの杖を拾う。
忌々しいくらいに綺麗な細工が施された、人の背丈ほどもある見事な杖を。
クズに意識はない。首輪の戒めも使われない。
大上段に振りかぶり、そして――。
自分の血か、それとも返り血かもわからない程に血に濡れた人影が、列車からのそりと這い出てくる。
手には見事な――血塗れではあるが――杖を持ってはいるが、その杖に似合わない服装をした可笑しなヒトが。
だが誰もその違和感を気にしない。
だってそれどころではないから。
周りで怒号や泣き声、喚き声が飛び交う中、のそのそとそれは一人列車から離れて消えていく。
「あはははははは。自由だ。これで、ようやく――」
全部壊せる。
――ガリッ。