5 山田夕月
ふと見上げた夕暮れ空に、月を見た。
とても綺麗な月だった。
それが、彼女――山田夕月が見た最後の景色。
これが、山田夕月の終わりの始まり。
「――なッ失敗! ひぃいい、いや、来ないでぇぇええ!」
瞬き一つ。それだけで山田の世界は変わった。
気づいた時には月の代わりに知らない女が目の前で泣き喚いていた。
派手なローブを身に纏い、綺麗な細工が施された杖を右手に持った女。
腰が抜けているのかへたり込んだ状態で、ずりずりと後ずさるその女の表情は恐怖で歪んでいた。
何が何だか分からない。
状況が理解できない山田を恐怖の眼差しで見つめる女は、半狂乱になりながら左手に握っていた小さな玉のような塊を山田に向かって投げつける。
「わっ!」
咄嗟に頭を庇いながら身を低くする山田。
幸いにも、その玉のような何かが山田に当たる事は無かった。
当たったのは山田の背後にあった何か。
バキッとガラス製のものが割れたような、そんな音が存外近くから聞こえた山田は音の発生源を思わず見やる。
まず目に入ったのは焦茶色をした毛むくじゃらの壁。
そのまま視線を上げると鋭い牙。
山田より頭二つ分は高い場所から注がれた視線。
それと、目が合った。
直後、金縛りにあったかのように山田の体は恐怖で動かなくなる。
山田の背後にいたのは立派な体躯を持った熊のような生き物。
その熊のような生物は山田を観察するように少しだけ眺めると、自身の太い腕をおもむろに振り上げた。
殺される。
逃げたくても体が動かない。声も出せない。
恐怖で見開かれた山田の瞳には、無慈悲にも振り下ろされる毛むくじゃらの大きな手が映っていた。
ぽすっ。
「――へ?」
顔いっぱいに毛の感触。
「ぉわっ!」
次いで、横方向への衝撃。衝撃といっても大したものではなく、押された程度のものだ。
それでも山田の体を動かすには十分すぎるほどの力が加えられ、簡単に引き倒される。
「いった!」
かろうじて受け身は取れたが、腕や膝などを打ちつけ手のひらには擦り傷を負った。
ジンジンと痛む体に、血のにじむ手のひら。首も痛む。
しかし、それだけ。
それだけで済んだ。
熊のような生物は山田に興味を無くしたのか、山田を無視し、逃げた女を追いかけ始めた。
いつの間にか離れた場所まで逃げていた女にあっという間に追いついた熊のような生物は、女の背中を己の爪で切り裂く。
女の甲高い悲鳴があたりに響くとともに、大量の血飛沫が舞った。
山田のいる場所からは、幸いにも熊のような生物が壁となって女の姿を直視する事はない。
しかし声は、音は聞こえる。
熊のような生物が女を攻撃している様子は見える。
熊のような生物が動くたびに女の悲鳴が響く。
何度も、何度も。
山田は動く事も、目を逸らす事も出来ずに、ただ惨劇が繰り広げられていくのを見ていることしか出来なかった。
次第に小さくなる女の声は、いつの間にか聞こえなくなる。
血の海に佇む熊のような生物は、女が死んだ事に満足したのか山田に見向きもせず立ち去って行った。
あとに残されたのは山田と女だったもの。
熊のような生物がいなくなったことにより、壁が消失した。
その事で無惨にもぐちゃぐちゃにされてしまった死体を直視するハメになった山田は、込み上げてくるものを我慢できずにその場に吐いた。
吐く物も無くなった山田は、死体を直視しないように急いでその場を離れた。
持っていた鞄から携帯を取り出し、警察に通報しようとするものの、画面には圏外の文字が踊る。
雑木林の中、道らしい道もない場所に電波など届いてるはずもないと冷静な自分がツッコミを入れる。
ショックから立ち直りきれてはいないが、じっとしていても仕方がない。
山田は電波が届く場所、もしくは人を探して歩き始める。
歩き始めてすぐ。
五分も経っていないだろう短い時間で、山田は探していた人間を見つけた。
しかしそれは山田が期待していたものではなく、彼女の視界には地獄絵図が映っていた。
人と人が折り重なるようにして死んでいる。
腕が無いもの。足が無いもの。ハラワタが飛び出しているもの。
ありとあらゆる人だったものが転がっていた。
正確な人数はわからない。わかりたくもない。
あまりの凄惨な場面に呆然と佇む山田は、そのうちの一人と目が合った。
苦悶の表情でこちらを睨む男。
首だけのその男と目が合った時、山田は走り出していた。
どこに向かっているか山田本人も分かってはいない。
ただあの現場から離れたかっただけだ。
なぜ自分がこんな目に? ここはどこ? あの死体の山は? あの女は何? あの熊みたいなやつは?
わからない。わからない。わからない。わからない。何もわからない。
がむしゃらに走り続ける。走って、走って、走って、転んだ。
真上にある太陽の光が山田のボロボロの姿を容赦なく照らしだす。
髪はボサボサ。服は枝に引っ掛けたのか所々破れ、転んだ拍子についた土で汚れている。
荷物は鞄から飛び出し、山田の周囲に散った。
「はぁ、はぁ、ゲホッゲホッ。はー……コホッ、はー……」
しらず溢れた涙を乱暴に拭い、山田は立ち上がる。
恐怖で足が、体が、全身が震える。
その震える身体を必死に抑え、散らばった荷物を集めて携帯を見た。
相変わらずの圏外の文字。
感情のままに地面に叩きつけたくなる衝動を抑えて、山田はそっと携帯を鞄にしまった。
どれくらい歩いただろうか。
ふらふらになりながら歩く山田の目に、大きな建物が目に入った。
「…………町や。良かった」
やっとの思いでたどり着いた町は、一言で言うなら異様。
山田の常識からは、かけ離れた場所だった。
人は沢山いる。
店も沢山ある。
行き交う人々は笑顔を浮かべ、楽しそうにおしゃべりを楽しんでいる。
そこだけ見れば、なんの変哲もないただの町。
しかし住人たちが着ている服は、まるでファンタジーの住人が着ているようなデザインをしていた。
店の看板に書かれた文字も読めない。
英語でも日本語でもなく山田が今まで見たことのない文字で書かれている。
それなのに、住人たちの会話はきちんと聞き取れ、理解できた。
何を言っているのかはわかるのに、何が書いてあるのかはわからない。
頭がおかしくなりそうだった。
ボロボロの格好でぼーっと佇む山田を心配してか、近くの店の女性が山田に声をかけてきた。
「ねぇあなた。大丈夫? 随分とボロボロだけど、どうしたの? もしかして〈さまよい〉か盗賊にでも襲われたの? だとしたら大変だったわね。怖かったでしょう、もう大丈夫よ」
「……さま、よい?」
「〈さまよい〉は〈さまよい〉でしょ? ……え?」
なんだそれは。
聞いたこともない。
口から出そうになった言葉をすんでのところで止める。
何故なら目の前の女性が、心配そうな表情から一転、訝しげに眉を寄せ、一歩、山田から距離を取ったからだ。
聞き慣れない単語をまるで常識かのように話した女性に恐怖を覚える。
「あ、えっと。すみません。なんか動揺してて」
「あぁ、そうよね。こっちこそごめんなさいね」
「い、いえ大丈夫です。それでえっと……」
「大丈夫よ、落ち着いて。さまよいも盗賊も町までは入ってこないから安心して良いのよ」
「は、はい」
直感的にマズイと悟った山田は女性に話を合わせようとするが、頭が混乱していて上手くいかない。
女性は気遣わしげな表情で山田の背中をさすりながら、とりあえず落ち着けるところに、という事で自身の店に案内してくれた。
雑貨屋だろう店先には綺麗な細工物などが並べられ、若い女性の客がいる。
勧められるまま店先の脇に置かれた椅子に座り、濡れたタオルで顔や手の汚れを落とす。
救急箱を持ってきて怪我の手当てをしようとする女性に、大した怪我じゃないからと感謝の言葉とともに断りを入れた。
深呼吸をし、多少の落ち着きを取り戻した山田は慎重に、言葉を選びながら、自身に起こったことをポツポツと語りはじめた。
目の前で女性が熊のような生物に殺されたこと。
たくさんの死体を見たこと。
此処がどこかわからないこと。
帰り方がわからないこと。
途中、あの死体の山の光景を思い出し吐きそうになるが、ぐっと堪える。
気分が悪い。
頭の中がぐちゃぐちゃで思考がまとまらない。
警察に通報しないと。
気持ちが悪い。
あの熊を何とかしないとまた被害が。
警察って通じるのか。
何も考えたくない。
なんでこんなめに。
「ねぇ、一つ聞いても良いかしら」
女性の声にハッとする。
「あなた、騎士にも、召喚師にも、ましてや商人や旅人にも見えないのだけれど…………どうしてそんなところにいたの?」
「…………え?」
「あなた、もしかして…………〈さまよい〉、なの?」
いつの間にか山田から距離を取るように離れる女性。
周囲を見回すと店にいた他の客や店員も遠巻きに山田を見ている。
そして、その誰もが山田を忌避の目で見ていた。
「…………ぇ?」
先程まで山田を気遣ってくれた女性の表情の変化に背筋が凍る。
口に出してしまっていたのだろうか。
だとしても、どうしてそんな急に。
自分が何かしたか。していない、はず。
あぁ。わからないわからないわからない。
周囲の人間が山田を見てヒソヒソと話している。
誰かが走ってどこかへ行ったのが見えた。
「ぁの……いきなり、どうし――」
「――近寄らないでっ!」
椅子から立ち上がり女性へ一歩近づいた山田にかけられた拒絶の叫び。
女性の瞳から恐怖とも怒りともとれる感情をぶつけられるが、なぜ自分がそんな感情を向けられなければならないのか。
まったく意味が分からない。
「あなた、どういうつもり! やっぱり〈さまよい〉なんじゃない! 私を騙して何をするつもりだったの!」
「なに、いって……」
「人間のフリして取り入ろうなんて、〈ヒトモドキ〉の考えそうなことね!」
「ち、ちがっ――ッ!」
直後、山田の側頭部に衝撃が走る。
手をやるとぐちゃぐちゃになった赤いものが、べっとりとついた。
「……トマト――いっ!」
「町から出て行け、〈さまよい〉!」
「そうよ! あんたの好きになんかさせないわよ!」
「やめ――」
「おい、早く騎士を呼んでこい! 召喚師もだ!」
「なんで〈さまよい〉なんかが町にいるんだよ」
「しかもあれ〈ヒトモドキ〉よ。気味が悪いわ」
状況について行けない山田をよそに、町の人間は罵声とともに持っていたモノを山田へと投げつける。
トマトを始め、タマゴやジャガイモ、果ては石までも。
「う、あ、ぁう、うわああああああああああ!」
「きゃあ、こっちに来ないで!」
「おい、モドキが逃げたぞ!」
理解のできない理不尽が立て続けに山田の身に降りかかる。
これまで何一つとして理解できない事ばかりだったが、ただ一つだけ山田にも理解できることがあった。
それは、このまま此処にいてはいけない。ということ。
山田が近づくと自然と人が割れた。
そのまま人集りを突っ切り、できるだけ人のいない場所を目指し走った。
逃げて、逃げて、逃げた先は、スラムのような場所。
陽の光も届かない、狭く暗い場所を見つけた山田は、ドロドロの姿のままそこにうずくまる。
町での騒ぎもここまでは届かずとても静かだった。
「――もぅ、嫌や」
なぜ自分がこんな仕打ちを受けなければいけないのか。
本日、何度目かになる『何故』を繰り返す。
しかしまったく答えに辿り着けない。
さまよいだのヒトモドキだのと言われたところで、山田にとっては意味がわからない。
すべて難癖のようなものだ。
右も左もわからない場所。
誰も知り合いがいない場所。
何もしていないのに危害を加えてくる人間。
何もしていないのに。
もぅ、疲れた。
すっかり日も暮れ、夜の闇に染まったスラムで山田は考えるのをやめた。