35 家族
「美味しかったねー! エリックさん料理上手すぎない?」
「ほんと。この絶妙な辛さと奥深さ……悔しい」
「ふー。食った食った」
「……ごちそうさま」
エリック邸の客間にて夕食を馳走になったナイ達は、エリック特製のカレーの感想を言い合う。
本当は茶会での非礼の詫びや首輪を外してくれた礼をしたのちに、他の人間達とともに夕食をとるべきだったのだろうが、エリックが気を利かせてくれて四人での夕食となった。
「ねぇナイ。美味しかった?」
「え? まぁ美味しかった、けど?」
「くっ! 私ちょっとエリックさんに作り方聞いてくる!」
「え、ちょ、ミリーナ?!」
ナイの答えを聞いたミリーナが素早い動きで部屋を飛び出していくのを、ナイはただ見送ることしかできなかった。
ミリーナを静止するために伸ばした腕がむなしく虚空を切る。
「張り合うんじゃなくて、素直に聞きに行けるのがミリーナのすごい所だとぼくは思う」
「そだなー。ふぁーあ。なんか腹いっぱいになったら眠くなってきたな」
「ぼくは全然! 元気いっぱい! むん!」
「そりゃオマエはずっと寝てたもんな」
「えへへー」
「なぁ、これ片付けは……?」
「あ、ぼくがやるよ。はいはい食器回収しまーっす」
カレー鍋や米が入れられた飯櫃が乗せられていたワゴンへと使った食器を乗せていくハリス。
テーブルの上にあるすべての食器を乗せ終わると、ご機嫌にワゴンを押しながら客間を出て行った。
「……ねむ」
「……寝たら?」
テーブルの上にぐったりと倒れこみ、ふにゃふにゃした表情で目を閉じているリオンに、ナイは先程まで自分たちが使っていたベッドを勧める。
「んー……添い寝は?」
「してほしいならミリーナに言ってみれば? うちとハリスは眠ないし」
「じゃあいい」
「なんやそれ」
「ミリーナとハリスにはしたくせにぃー。オレだけ除け者かよぉー」
「なんやこいつめんどくさ」
べつにミリーナとハリスにも意識的にしたわけではなく、結果的に添い寝のようになっただけだ。
しかも泣き疲れて寝てしまったという体たらく。
いい大人が情けない。穴があったら入りたい。
子供のように声をあげて泣いてしまった先ほどまでの自分を思い出し、ナイは頬を赤らめる。
赤くなった顔をリオンに見られないよう、隠すようにナイはそっぽを向いた。
(冷静になるとすげー恥ずいわ……)
しかし、自分の中に溜まっていたどす黒い感情を吐き出した挙句に、気が済むまで泣いてしまったので、今のナイはすこぶる気分が良い。
まるで生まれ変わったかのように心が軽かった。
ふと、己の首に指を添える。
そこには何もなく、ただ真新しい包帯の感触があるだけで、忌々しい重りは存在しなかった。
「ナイ」
「なんや」
隣から呼ばれ、視線だけをリオンへ向ける。まだ顔が赤い気がするナイの、せめてもの抵抗だ。
ナイを呼んだリオンは倒していた上体を起こし、頬杖をついてこちらを見ていた。
まだふにゃふにゃとテーブルに突っ伏していると思っていたナイは、意外と近くでバチリとかち合った視線に一瞬驚くも、すぐに平静を取り戻しリオンが口を開くのを待つ。
「…………ナイ」
「?」
たっぷりと間を開けて発されたのはナイの名前のみ。
他に何か言うのかと思いしばらく待ってみても、リオンは特に何を言うでもなくナイを見つめていた。
「……いや、だから何? なんか用があったから呼んだんちゃうんか?」
「……ナイ」
「なんや」
「ナイ」
何故か名前だけを連呼するリオンに、意味がわからなすぎて、ナイの眉間に皺がよる。
「ナイ」
「だから――」
「――ゆづき」
ビクリと、自分でも驚くほど大袈裟に反応してしまった。
誰にも言ったことがないナイの本当の名前。
たしかに騒動の中、口走った記憶はあるが、まさかあんな一瞬の一言を覚えていたとは思わなかった。
そしてそれが、今、リオンの口から出てきたことに驚きを隠せない。
「ちょっと言い辛ぇな」などと失礼なことを口走っている目の前の悪魔は、ナイの驚きなどつゆ知らず、その名を自分の口に馴染ませるように何度も小さく口の中で転がした。
「なぁ、『ゆづき』って、字はどう書くんだ?」
「……夕方の、夕に、月って書いて、夕月……」
驚きすぎて頭が真っ白になっているナイは、半ば条件反射のように口が動いた。
何故リオンは今ナイの本名を呼んできたのだろうか。ナイにはなにもわからない。
「へぇ、夕方の月か。いいな!」
ニカっと笑んだリオンにナイは何も返せない。
「それで、だ」
頬杖をついていた体を起こし、椅子に座り直したリオンは改めてナイに向き直った。
「ナイ」
「……な、に?」
「夕月」
「……?」
「どっちで呼んだらいい? オマエはもう『無い無い尽くしのナイ』じゃなくて、いろんなもん持ってるだろ? それに、首輪も取れて正真正銘自由になった。オマエを縛るもんはもう何も無い。あるとすりゃオマエ自身だが……それももう大丈夫だろ。……だから、改めて聞かせてくれ」
一度言葉を切ったリオンはナイの手をとり、少しだけナイに顔を近付けて真剣な眼差しで口を開いた。
「オマエの名前、なんてーの?」
「…………ぁ」
『なぁなぁ。オマエの名前、なんてーの?』リオンに初めて会った時に聞かれたことを思い出す。
あの時のナイは召喚師から離れ自由になったばかりのうえ、かなり心が荒んでいた。
そしてリオンからの質問を無視した結果、リオンに『ナイ』という名を貰ったのだ。
当時は何とも思わなかった。
むしろ、どうでもいいと思いつつも、勝手に名前を付けるなと憤っていた気もする。
もうよくは思い出せないが、きっとそうだった。
それがどうだ。
今ではとても大切なもう一つの『自分の名前』だ。
無い無い尽くしのナイだったかもしれないけれど、リオンの言う通り今では大切なものも増えた。
愛想だけはまだ無いが、それでも、〈名前〉も〈家族〉も〈居場所〉も、この両腕に抱え込んでいる。
落とさないように、零さないように、そっと――そっと、抱えている。
〈山田夕月〉も自分の名前だ。むしろ〈ナイ〉よりずっと長く使ってきた名前で思い入れもある。
でもそれは人間だった頃の、生きていた頃の自分の名前。
山田夕月が殺された時に、山田夕月が死んだ時に、その墓前に捧げ、残った己は名無しの化け物となったのだ。
だからそれは“今”の自分の名前ではない。
ゆえにリオンのこの問いの答えは一択。
「うちの、名前は……」
握られた手をこちらからも握り返す。
「――うちの名前はナイ。『無い無い尽くしのナイ』じゃなくなったけど、リオンが――大好きな人……悪魔かな? が、くれた大事なもんやから。リオンが、ハリスが、ミリーナが、うちをナイって呼んでくれるのが嬉しいから、好きやから。ナイって名前が気に入ってるから。ナイはもううちの名前やから。だから、これからもナイって呼んでほしい」
「――そうか」
見たことのない優しい笑顔を浮かべるリオンに、ナイの心臓が少しだけ跳ねる。
この悪魔はこんな顔もできるのかと、また新たな一面を発見した気分だ。
「んじゃあ、これからもよろしくな。ナイ」
「うん。よろしく、リオン…………」
でも、だけど、もし――もし、ほんの少しだけ、わがままを言っていいのなら――
「どうした?」
「あ、あのさ……」
「?」
小首を傾げるリオンから視線を外す。
なんだかとても恥ずかしい。
「リオンさえ、良ければ、なんやけど……」
「なんだ?」
「たまに……その、ほんまにたまにで良いから『夕月』とも呼んでくれると、その――嬉しいというか、報われるというか、なんというか――その、あの……」
恥ずかしすぎる注文に、最後の方は完全に小声となる。
口の中でごにょごにょと言葉をこねくり回すだけの装置になってしまったナイには相手の反応を見る勇気がない。
(だってしょうがないやん! 自分以外にも〈山田夕月〉って存在を知ってくれてる人がいるなら、たまには名前呼んで存在を肯定してほしかったんやもん! 夕月は死んだけど、それでも、そんな人間がいたって誰かに知っててほしかったんや! 覚えててほしかったんや!!)
心の中で意味不明な言い訳を繰り返すナイ。
今リオンがどういう表情をしているのか、確認したいが、できない。
ドン引かれていたらどうしようと一人恐怖に怯える臆病者のナイには、目を閉じてリオンからの返事を待つしかできなかった。
「あ゛ー……」
何を言われるのかびくびくしていたナイに届いた返事は、何とも言えない微妙な声音のうめき声だった。
不思議に思いそっと瞼を持ち上げると、目の前にいるリオンは何故か天を仰いでいる。
目元を空いている手で覆い、開け放たれた口からは低音の言葉にならない言葉が響く。
「……?」
状況が理解できないナイは、恥ずかしさよりも不思議さが勝ってしまい、まじまじとリオンを見つめ返した。
「……リオン?」
「あ゛ぁ……――いや、大丈夫、オレは大丈夫だ。わかってる、ちゃんとわかってる」
「何が?」
大きく息を吐き出し、自分自身に言い聞かせるように語るリオンは少し怖い。
一体何がわかったというのだろうか。
「ちょっと時間くれ」
握られた手はそのままに、リオンは下を向いて呼吸を整えている。
そして十分落ち着いたころに、改めてナイへと視線を戻した。
「うし、いいぞ。で、なんだっけ?」
「名前……」
「あぁそうそうそれな。おっけーおっけー了解した」
「まじで?」
「マジでマジで」
いつものようにヘラヘラと笑いながら頷く悪魔を見たナイは、肯定されたことが無性に嬉しくなりテンションが上がる。
「あ、りがとう。嬉しい……へへっ」
自分でもわかるほど、緩んだ笑顔をしている自覚があるが、止めようとも思わなかった。
自然と口角が上がってしまうのだ。
そうやってにへにへ笑っていたら、突然リオンと繋がれた手に力が加えられた。
「いたたたたたたた! リオン痛い!」
「あ、わりっ」
すわ、このままでは握りつぶされるのではと危惧したナイは、力が込められているリオンの手を叩き落とす。
痛みを逃がすように手を振りながら、ナイはリオンを睨みつけた。
(そんなに笑ってたのが気に入らんかったんか?)
笑顔から反転、ナイの表情はむっとしたものに変わる。
当然だろう。誰しも手を握りつぶされそうになった相手に笑顔を向けることなどできはしまい。
「あー。悪かったって。ついな、つい」
「つい、で手を握りつぶされてたまるかボケ」
「お、いいぞ。それだ。その調子だ。それでこそナイだ」
「あ゛? なんや? もしかして喧嘩売ってる? いくら? 買うぞ?」
一瞬で目が据わったナイを落ち着かせようとしていたリオンだったが、上手くいかないことを悟ったのか、最終的にドアに向かい声を張り上げた。
「おーい、そろそろ助けてくれ! 怒ったナイちゃんに殺されちまう!」
「は?」
リオンの声に反応してドアが開き、そこから見知った顔がゾロゾロと姿を現す。
「おや、もう入ってもいいのかい?」
「いやぁ、お邪魔しちゃ悪いかなぁって思ってさぁ」
「最後のアレはリオンが悪いと思うわ。うん。リオンが悪い」
楽しそうな笑みを携えたエリックが、先程部屋から出て行ったハリスとミリーナを引き連れてやってきた。
「………………いつから?」
「…………ついさっきだよ」
絶対に嘘だ。
エリックの後ろにいるハリスとミリーナにそれぞれ視線を飛ばせば、どちらも一瞬でナイから視線を逸らす。
本当にいつからいたのだろうか。まったく気付かなかった。
そして彼らの反応から察するに、ナイの恥ずかしいお願いも聞かれていた可能性がある。
ハリスやミリーナにも頼むつもりでいたので、この二人に聞かれたことはこの際気にする必要はない。心の準備が出来ていないという点を除けば、だが。
問題はエリックだ。彼に聞かれることは完全にナイの想定外。
ここはエリックの家で、彼がどこにいてもナイが文句を言える立場ではない。
なのでこれは完全にナイの油断。
首輪が外れたことに浮かれすぎていたがゆえの失態。
状況を理解したナイの顔が青から赤に変わる。
「――――ッ! 殺せ! いっそ殺してくれ!」
「どうしたナイさん! 気をしっかり持つんだ!」
「ナイが照れてる! かわいいー!」
「ちょっとミリーナ。それトドメになりそうだからやめなよ……」
「いやー。一気に賑やかになったなー。うん」
赤くなった顔を両手で隠し、ナイは蹲る。
嬉しそうにぱたぱたと駆け寄ってきたミリーナがナイのそばに座り、ナイの頭を撫で始める。
やがてそこにハリスの手も参戦してきた。
羞恥により動けないナイは二人にいいように撫でまわされる。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
意を決し――開き直ったともいえるが――ナイは顔を上げ、前にいる二人に視線を合わせた。
動き出したナイに一旦手を止めた二人は、ナイと目が合うとにっこりと微笑む。
「……ハリス」
「なあに?」
「ミリーナ」
「ん?」
ナイはそっと二人の服の裾を掴む。
嫌がるそぶりもみせず、ナイのしたいようにさせてくれる二人に感謝しながら、ナイはエリックに視線を向けた。
「あぁ、なぜか急に目と耳の調子が悪くなってしまったな! 困ったな!」
わざとらしいセリフを大きな声で吐きながら、後ろを向き耳を塞ぎはじめたエリック。
そんな彼を見たリオンから小さな笑いが漏れ聞こえる中、ナイは改めて目の前の二人に向き直った。
「そのな、聞いてたかしらんけど……その、うちの名前のこと、なんやけど……」
「うん」
「これからも『ナイ』って――呼んでくれるか?」
ハリスとミリーナは一瞬お互いに視線を交わし合い、頷く。
そして満面の笑みをナイに向けると、二人同時に言葉を発した。
「もちろん!」
「……ありがとう」
気恥ずかしくなったナイは視線を下げ、小さく礼を言う。
だがまだ二人には言う事がある。というよりこの次がナイとしては本命だ。
その言葉を伝えるためにナイは口を開く。
「それと……」
赤い顔がさらに赤くなっているのがわかる。
おそらく耳まで赤いに違いない。
下げていた視線を無理矢理持ち上げようとするが上手くいかず、最終的に二人の口元へと視線を合わせた。
「二人も……たまにでいい、から、その、『夕月』って呼んでくれると……嬉し、いなぁ。なんて……」
やはり後半に行くにつれ声が小さくなってしまったナイは、またしてもきつく目を閉じてしまう。
裾を掴む手が小さく震えた。
リオンからは良い返事を貰えたが、二人からも貰えるとは限らない。
断られる可能性が少しでもある以上、ナイの心がざわつくのはやむを得まい。
そうやって二人からの返事を待つナイだったが、二人からはなんの反応も返ってこない。
リオンとはまた違う反応に怖くなったナイは、顔を下げ、裾を掴む手を放した。
そして自由になった手を自分のところへ戻そうとしたが、それより早くその手をハリスとミリーナに捕まえられた。
驚いて顔を上げたナイの目に飛び込んできたのは、ナイ以上に驚きを露わにした二人の顔。
大きな目をこれでもかと開き、ぱちぱちと瞬きを繰り返す二人。
やがてナイと目が合ったハリスが口を開く。
「いい、の?」
続けてミリーナがハリスの言葉を補足するように言葉を紡いだ。
「私達も……『夕月』って、呼んでも、いいの?」
「へ? 当たり前やろ? だってうちら家族なんやし……それとも嫌、か?」
何故そのような確認を取るのかがナイにはわからず、思わず聞き返す。
これで「はい嫌です」なんて返されてしまったら、しばらく立ち直れないかもしれない。
そう思いながら二人を見返すと、感極まった様子で目に涙を浮かべている。
「――ぇ?」
「そんなことあるわけないでしょ!」
「うわっ!」
ナイの小さな声を掻き消すように、大きな声とともにハリスがナイへと抱き着いた。
突然のことに踏ん張りがきかず、ナイは尻もちをつく。
「ぼくはナイのこと大好き! ナイは!?」
「え、あ、うん。うちも、ハリスのこと、大、好き、やけど?」
「じゃあ何も問題なし、だね! ぼく達両想い! ふへへ」
「え、うん」
状況についていけない。
結局これはどういうことなのだろうか。
お願いを聞き入れてもらったと考えていいのだろうか?
「ハリスずるい! ねぇナイ! 私も! 私もナイが大好きよ! 大大だーい好き! ナイは!」
「……うちも、ミリーナのこと、大、好きやぞ……あー。大大だーい、好き……?」
「やったぁ! うふふ、これで私達も両想いね!」
大好きでは満足できなかったのか、言葉の途中でナイを睨むミリーナの迫力に負け、ナイは言い直す。
その言葉に満足したのか、ミリーナもナイに抱き着いてきた。
今度はきちんと受け止める事に成功したナイは、腕を伸ばし二人分のぬくもりを抱きしめる。
これはもう肯定と受け取っても差し支えはないだろう。
嬉しさのあまり、ナイの頬は緩む。
それを見た二人の笑顔もさらに深まった。
「なぁなぁ。オレも混ざっていい?」
「え、駄目。リオンはもう先にナイと仲良ししてたでしょ」
「そうよそうよ。今は私達の番!」
「んだよー。ケチー」
「ケチで結構!」
「ナイの笑顔一人占めした罰よ!」
「だから、おまえらのその謎の張り合い……いや、もうええわ。好きにしろ」
暑苦しくぎゅうぎゅうに固まった団子は、しばらくの間離れず、床の上に転がっていた。




