32 化け物の慟哭
「なんやねんおまえ……さっきからいちいち人の神経逆撫でしやがって、喧嘩売ってんのかッ? あ゛ぁ゛?」
「ち、ちがっ……あたしはただ、仲良くなりたくて――」
「あぁさよか。なら無理や。うちはおまえとは仲良くできそうにあらへん。さっさとうちの目の前から消えてくれ」
「――なん、でっ。なんで、そんな酷いこと言うの! せっかく同じ境遇の人に会えたと思ったのに! 仲良くなりたいと思っただけなのに! なんでそんなっ――」
「同じ? どこが?」
ナイの視線を受け女が口をつぐむ。
離れたところにいたブライトやハリス、それにミリーナがこちらの騒ぎに気付いたのか慌てて近付いてくるのが視界の端に見えた。
「なんか大きい声がしたけど、どうしたんだ? 喧嘩? えっと、フーカきみまた何かしたのか? だから慎重にって言ったのに……」
「またって何よ、あたしは何もしてない! この人がいきなり怒り出したんだってば!」
たしかにそうだ。嘘は言ってない。
他人から見たらいきなり怒りだしたのはナイの方で、意味がわからないだろう。
しかし、ナイからすれば無神経にずかずか踏み込んできたのはそっちだ。
何も知らないくせに、勝手に知った風な口をきいたのはそちらだ。
冷静になろうと心の奥底を落ち着かせようとするが、どうにも上手くいかない。
ミリーナがナイの背を撫でてくれている気配を感じるが、それもまたどこか他人事のように感じる。
指された指を払いのけながらナイは口を開いた。
「……おまえうちと同じや言うたな? 同じやからうちの気持ちがわかるって」
「……言ったけど、それが何? だって同じでしょ! いきなり異世界に召喚された日本人で、帰りたくても帰れない! 知ってる人も、知ってる場所もない! ここで生きていくのに覚える事いっぱいあって大変だよねって言っただけじゃん! あたし何も変なこと言ってないでしょ! なんでそんなに怒るのよ! わけわかんない! 頭おかしいんじゃない?」
「フーカ!」
「……なんでブライトもあたしを怒るの? あたし悪くないじゃん……ただナイちゃんと仲良くなりたかっただけなのに……なんで、あたしだけ怒られなきゃ、いけないのぉ」
涙ぐみ始めた女を慰めようとブライトが背を擦る。
アゼリアもやってきて同じように女の背を擦り始めた。
楽しいお茶会が一転、地獄絵図に変わる。
ナイの冷静な部分が、ここで謝罪をして終わりにしたほうがいいと頭の炎に水をかけるが、そんな事でナイの怒りの炎は鎮火しなかった。
むしろ目の前の光景を見せられたせいで、余計に燃料をくべられ燃え上がる。
また同じことを繰り返そうとしている自分に嫌気がさすが、止められなかった。
自分の中の黒い炎が、自分でもどうしようもできないくらいに大きく育ってしまった。
「なぁ。同じや言うなら、なんでおまえの隣にブライトがおるんや」
「――ぇ?」
「なぁ。同じや言うなら、なんでおまえはおまえのまま、そこに立ってるんや」
「なに、いって?」
「なぁ。同じや言うなら、なんでおまえは、そんな笑えるんや」
意味が分からないという顔をしてナイを見つめる女。
その顔すらも腹立たしい。
「なぁ。同じや言うなら、なんでおまえは、自由なんや」
「――っ! ナイさん、すみません。フーカはまだ首輪のこととかよく知らなくてッ――」
ブライトが女をかばうように言葉を紡ぐが、そんなことはナイの耳には入らない。
「なぁ。なんでや? なぁ? なぁ? なぁ? ――なんか言えやッ! なぁオイ!」
「ひっ!」
「ナイ落ち着いてよ!」
「ナイ冷静になって!」
女の胸倉を掴もうと伸ばした手はミリーナとハリスに阻止された。
それでもナイは女を睨み続ける。
クロスが呼んできたのか、家の中から慌てたようにエリックとリオンの二人が出てくるのが見えた。
「どうしたんだ、これは何の騒ぎだい」
「先輩!」
「おいオマエらどうした」
「リオン!」
ナイのそばにはリオンが。女のそばにはエリックがそれぞれ近付く。
互いに相手を遮るようにナイ達の間に立った二人は、これ以上事態を大きくしないようナイと女を引き剥がす。
「良い子にしてろって言っただろ? 何やってんだよ、ナイ」
「……」
リオンに問われるがナイは視線を女に向けたまま何も答えない。
そしてリオンにではなく、女に向けて口を開いた。
「……なぁ」
ナイの声にビクッと体を揺らす女。
「おいナイ。やめろって――」
「おまえは、自分は何もしてへんのに、他人から物を投げられたことあんのか?」
「へ?」
エリックとブライトの後ろで怯えたように小さくなっている女が声を漏らす。
そしてナイを止めようとしていた三人の力が少しだけ弱くなったのを感じた。
「トマト投げられたことあるか? タマゴは? ジャガイモは? 石は? 自分の召喚石は?」
「なに、言ってるの?」
リオンを押しのけて前に出る。不思議なくらい抵抗もされずに退かすことができた。
これ幸いとナイは女の正面――間にエリックやブライトがいるが――に立ち、彼女の目を真っ直ぐに見ながら言葉を続ける。
「〈ヒトモドキ〉だっつって、訳もわからんと追いまわされたことは? 畜生呼ばわりされて、好き勝手に体を弄られて、遊ばれるオモチャにされたことは?」
「そ、んなの、あるわけ……」
「反抗的だっつって拷問じみた苦しみを味わったことは? 訓練だっつって化け物と戦わされて死にかけたことは? 拒否権もなく、殺人を強要されたことは? 飯も満足に与えられず、怪我も満足に治療されずに使い潰されそうになったことは? 悪夢に魘されて寝られなくなったことは? 目を抉られたことはあるか? 体を切り刻まれたことはあるか? 他人の体の一部をくっつくられたことはあるか?」
「だ、から! そんなのあるわけないって言ってるでしょ! なによそれ、気持ち悪い! ブライトたちはそんな酷いことしないし、そもそもそんなことする人がいるわけないじゃない! 馬鹿馬鹿しい! どうせあたしを怖がらようとして大袈裟に言ってるだけなんでしょ!」
「……だったら……良かったなぁ。いいなぁ…………羨ましいなぁ……ふふ、あはは」
体から力が抜ける。
伸ばしていた背はだらんと折れ曲がり、両手はぶらぶらと宙を舞う。
突然のナイの豹変に召喚師達に緊張が走ったのが感じ取れた。
「……ナイ」
小さくハリスの呼ぶ声が聞こえる。
(ごめんな、みんな……やっぱ、無理やったわ。うちはただの化け物やった)
「ははは、あははは、ひゃはははははははは!」
「な、なによ! なんなのよこの人! 怖いんだけど!」
手が、無意識に喉を、頭を、掻き毟る。
駄目だと思っていても止められない。
「ハハハハハハハハ! あー! 羨ましい! 羨ましいなぁ! 羨ましすぎて――吐き気がするッ!!」
エリックが、ブライトが、他のすべてがナイを警戒する中、ナイは暴れるでもなくただ女を下から睨みつけた。
顔は歪に笑っているのに、目だけがギラギラと光る不気味な化け物がそこにいた。
「どこが同じやねん……全然違うやんけ。ふざけんなクソが。優しい召喚主も、親切な町の住人も、安全な居場所も、健全な環境も、必要な知識も……全部、全部ッ、持ってるやつが! 与えてもらえる立場にいるやつが! 何が! 同じ! 何が! 気持ちがわかるだ! ふざけんな! うちには何もない! 何も! 何もッなかった! おまえは持ってるくせに、持ってないうちを否定したっ! なんでや、わかるんちゃうんかッ!? 同じとちゃうんか! なぁおい。やっぱ違うやんけ……何も知らんくせに、恵まれてるやつが知った風な口利くなや!」
怒りで思考がまとまらない。
自分が何を口走っているのか、そして口走ろうとしているのかさえも、もはや不明だ。
ただ蓋をして封印しようとした醜い感情が、口を通して溢れるだけの機械にでもなったようだ。
誰も何も言わない空間で、ただひたすらナイの悲痛な叫びが木霊する。
「何が召喚師! 何が召喚獣! そんなん知るかボケッ! 勝手に呼び出したくせにハズレってなんやねん! あげく勝手に死にやがってよぉ! わけわからん世界に放置されるわ、わけわからん理由で罵倒されて、石投げられるわ、その挙句に畜生呼ばわりまで! おまえら何様やねん! こちとら人間以外のもんになった覚えないんじゃクソが! なんで玩具にされなあかんねん! なんで体いじくりまわされなあかんねんッ! うちが何してん! なんも、しとらんやんけッ!」
――あぁ、止まらない。
こんなことを言っても何にもならないのはわかっている。
でも、止まらない。
言うつもりなんて無かった言葉が、想いが、止まらない。
この世界へ来てからずっと溜め込んでいた、蓋をしていた感情が溢れて止まらない。
ハリスが、ミリーナが、泣きそうな声で自分を呼んでいる気がする。
いや、もしかしたら泣いているのか? ナイには確認できない。
視界が狭まっているのが自分でもわかる。赤く染まる視界には自分と対極にいる女しか映せなくなっていた。
大きな瞳に涙を溜めて、頬を零れ落ちていくその雫すら憎い。
恵まれた目の前の女の一挙手一投足が煩わしい。
自分にはないものをもって存在するのが羨ましい。
純粋に異世界を楽しんでいる余裕が恨めしい。
どうして神様はこんなに不公平なことをしたのだろう。
彼女が持っていた幸運をほんの少しで良いから自分にも分けてほしかった。
せめて心を殺さなくてもいいくらいには。
山田夕月を殺されなくても生きていけるくらいには。
ほんの少し、一欠片で良かった、欲しかった。
――どうしてどうしてどうして? どうして自分には何も無かったの?
――ずるいずるいずるい。
意味のない疑問が、無価値な切望が、自らを埋め尽くしていく。
わかっている。
何も無かったからからこそ、大切な者に出会えたのだと。
理解している。
何も持てなかったからこそ、手放したくないものを手に入れられたのだと。
――きっとここには人間、山田夕月では絶対に到達できなかったということを。
でも少しだけ、ほんの少しだけ。自分にもあったんじゃないかと夢想する。
だって目の前に全部を持って幸せそうに、笑顔で過ごしていた人間がいるのだから。
だから、自分にだってそんな未来があったかもしれないと考えたって良いではないか。
少しくらい、希望を抱いても良いではないか。
それがどんなに無意味で無価値で無駄なことでも、少しくらい手を伸ばしてみても良いではないか。
下ばかり向いてる化け物でも、空に浮かぶ星に恋焦がれても良いではないか。
落ちた月は空への回帰を果たせない。
ならばせめて、水面に映る月に自らを重ね、想いを馳せても良いではないか。
「何も、してない……ただ呼ばれた、だけなのに……なんで、この世界は、こんなに、残酷なんや。こんなところ来たくなかった……来たくなんて、なかったっ! 死にたくなんてなかったっ! 殺されたくなんて、なかったっ! 人間で、いたかった――ただそれだけで良かった……なのに、なんで…………憎い、憎い憎い憎い! うちの……山田夕月のすべてを奪った、この世界が、憎いッ!」
あの女は運が良かった。
ナイは運が悪かった。
言ってしまえば、それだけだ。
でも本人からすれば、そんな“運が悪かった”なんて、そんな一言で簡単に済まされたくはない。そんな一言で簡単に済ませたくはない。済ませられない。
顔面を覆った両手の指の隙間から“運が良かった”女を覗き見る。
人のまま、ありのまま、ただそこにいることを許された女。
心から笑い、感情のまま泣き、未来を見据え、苦痛などと無縁の女。
何も縛るものがなく、自由な女。
人ではいられなかった、ありのままではいられなかった、ただそこにいることすら許されなかった自分。
心から笑えず、涙はとうに枯れ果て、いつまでも過去に囚われ、苦痛に塗れた自分。
首輪の恐怖に雁字搦めにされ、動けない自分。
ナイと女。この二人はいったい何が違うというのだ。
同じ地球から呼ばれ、同じ日本で生きてきた、同じ、ただの普通の女。
どこで差が出たのだろう。
いったい自分の何が悪かったのだろう。
わからない。
惨めだ。
とても――惨めだ。
ならば、どうすればいいのだろう。
この気持ちはどこにぶつければいいのだろう。
――目の前の運の良い女にぶつければいいのではないか?
そうだ、それが良い。
とてもいいアイデアだ。
自分を惨めにさせる存在を、目の前から排除してしまえばいい。
今までのように、自分が気に入らない存在を消してきたように。
それが一つ、増えるだけだ。
ガリガリガチャガリ。
金属音と指先が濡れる感触に気分が悪くなる。
早く不快感を取り除こう。
ナイの瞳に黒いものが宿る。
フラフラとした足取りで地面に転がる杖を拾った。
ナイの視線から逃げるように一歩下がる女に狙いを定める。
手に持った杖を強く握り、女の命を刈り取るため、ナイは一歩踏み出した。
そして――
「それ以上は駄目だ」
――リオンの声を聴きながら、ナイの意識は暗闇に落ちた。
完全に意識を失い、地面へと倒れこむナイをリオンは受け止める。
「悪いなハリス。俺の方が早かった」
「うぅん、大丈夫。ありがとうリオン」
握った拳を下ろしリオンに礼を言うハリスは、家族の暴走を止められた安堵感にひたり、次いで己が目から零れる涙を乱暴に拭った。
その隣ではミリーナが止まることのない涙を流し、幾度も拭う。こすりすぎた目は赤く腫れ始めており、ハリスからハンカチを差し出されたことでそれ以上の悪化を防いだ。
ナイの暴挙を一早く察知したリオンは、先日の宣言通り、ナイの腹を力の限り殴り、止めた。
ハリスも動こうとはしていたが、ナイの嘆きを聞き動きが鈍ったのだろう。一歩遅かった。
ぐったりと垂れたナイの手から杖を奪い取りハリスへと手渡す。
意識が無いのにそれでも武器を手放さないのは、そうしなければいけない環境にいたからなのか。
自分たちの知らないナイの過去を、本音という名の慟哭を聞いた。
どうしてナイがこうなってしまったのか察した。
そしてナイの過去に憐れみを覚える反面、不幸でいてくれた事実に喜んでいる自分もいる。
だってそうだろう。
その過程を経ていないと、自分はいずれ『ナイ』となる化け物には出会えていなかったのだから。
いや、出会えていたとしても、きっと自分はあのすべてを拒絶する負のオーラを纏った女でなければ興味をひかれなかった。
こうして一緒にはいなかった。
だからナイを不幸に陥れた連中が憎くもあるが、同時に感謝もあるという複雑な気分だ。
改めて両手でナイを抱きかかえたリオンは、背後にいるエリックへと向き直る。
「何回もうちの馬鹿が迷惑かけて悪かったな。……でもよ、今回はそっちの女も悪いと思うのはオレだけか?」
「……経緯がわからないから私からはなんともいえない。だがナイさんの神経を逆撫でするようなことを言ったのは事実のようだ。その点は私から謝罪するよ。すまない」
「……おれからも謝罪します。すみませんでした。おれがもっとちゃんとナイさんの事情をある程度フーカに伝えてればこんなことにはならなかったかもしれないのに。――本当にすみません」
頭を下げる召喚師二人にリオンは冷めた視線を投げかける。
正確にはその後ろで泣いている女にだが。
「なら今回はどっちも悪かったってことで水に流してくれるとありがたいんだが?」
「こちらとしてもそうしてもらえると助かるよ。……しかし契約はどうする? 続行ということで構わないかな? それとも取り消した方が?」
「…………悪いが続行で頼む。もしナイが嫌がった場合はナイだけ関わらせないようにするつもりだから、そっちもそのつもりで頼む」
「わかった。ところで君達はこのあとどうするんだい」
「そうだな……ここにいても仕方ねぇし、このまま連れて帰るわ」
「良かったら屋敷で休んでいってくれ」
「いや遠慮――」
「それで、君達が許可をしてくれるのならだけど――今の内に彼女の首輪を外させてほしい」
真剣な眼差しでこちらを見つめる召喚師を、リオンはただ静かに見つめ返した。




