24 大切なもの
留守番組であるナイは、同じく留守番組のリオンから文字を教わっていた。
この家に置きっぱなしになっていた四人掛けの机に向かい合って座る二人の間には、子供向けの絵本が三冊。
それと、綺麗な文字と、たどたどしい文字が書かれた紙が置かれている。
以前眺めていた本はリオンにより没収され、代わりに渡されたのが絵本だ。
初めはこんなものが読めるかと突っぱね返したが、文字を覚えるなら簡単な方がいいとリオンに押し切られ今に至る。
確かに、前に見ていた本よりかは文字数も少なく、ほぼ絵なので内容の理解もはるかにしやすいとは思う。
思うが、なんとなくナイの大人としてのプライドが邪魔をした。
以前までならハリスやミリーナがいようが関係なく本を開くことができたが、今では絶対に彼らの前では本を出さなくなった。
ゆえにリオン主催の勉強会は、彼らが寝静まった後に行われる。
その主に夜に開かれる勉強会だが、本日はハリスもミリーナもそろって出かけておりいない。
なので、やることもなく暇を持て余すくらいならと朝から勉強をしているのだ。
午前中は絵本を使ってどれだけ文字を覚えられたかをチェックしていた。
リオンが指差す文字がなんと書いてあるかを答える簡単なものだが、これがなかなか難しい。
自作の〈あいうえお対応表〉を睨みながら解読していくので時間がかかる。
この時にリオンの爪が目に入り、ナイは以前と色が違う事に気付いた。
今日の彼の爪は綺麗に塗られた桜色だった。
リオンはピンク色も好きなのかと意外に思うのと同時に、よくそんなマメに爪の色を変えて塗りたくれるなと感心する。
ナイは山田夕月であった頃からオシャレには疎い人間だ。
化粧品などもよくわからないし、あまり興味もなかった。
だが、リオンが楽しそうに爪を塗る姿を見ていたら少しだけ興味が湧いてきた。
いつか自分も爪を塗ってみるか? そんなことを考え自嘲する。
どうせそんな日が来ることは無いのだから考えるだけ無駄だ。
ハリスやミリーナが帰ってこないので午後からも勉強は続いた。
自分の名前やリオン達の名前を書く練習だ。
まずリオンがお手本を書いてみせ、次にナイがそれを真似て何度も書く。
それを繰り返している。
しかしリオンの指導は丁寧なのだが、如何せんナイのやる気がそろそろ持たない。
ナイはペンを置き、ちらりと部屋の隅にいる毛玉に視線を向ける。
部屋の一角に存在する巨大な毛玉。正体は丸くなって寝ているシロだ。
部屋の大きさに対して、スペースをかなり取っているが、文句は言えない。
ここは元々はこの狼の巣で、ナイ達はそこへ間借りしている状態なのだ。
シロは昼食――大量の肉――を食べたあとご満悦に昼寝を始めた。
「おい」
すぴすぴと気持ちよさそうに寝ているシロへと呼びかける。
ナイの声に反応してまず耳がピンと立ち、そして顔を上げた。
寝ぼけた顔がなんともいえない不細工さを醸し出している。
「こっち来い」
呼ぶと一瞬で目が覚めたのか、嬉しそうに尻尾をゆらゆら振りながら――以前ブンブンと派手に振った衝撃で、部屋の中ががぐちゃぐちゃになり、怒ったことがあるため。それ以来部屋の中では大人しくなった――ナイの元へとやってくる。
ナイが座る椅子のそばまで来ると、シロは伏せの体勢をとり期待したまなざしを向けてきた。
そんなシロの頭に手をやり、わしゃわしゃと撫でる。
雑な撫で方だが、シロは気持ちよさそうに目を閉じた。
モフモフでふわふわなシロの毛は暖かい。
誰もいない時にこっそりとシロを枕にしてみたが、とにかく最高であった。
山田夕月は犬や猫などもふもふした小動物が好きだった。
しかしこちらの世界へと召喚されてからは、そんな存在を愛でる心の余裕はなく、むしろ要らない存在となっていた。
だが、最近になり何故か心にゆとりができてきたナイは、もふもふの魅力に抗えなくなっていた。
シロは小動物などではなく、むしろ見上げるほどの巨大生物と言っても過言ではない。
山田夕月なら恐ろしくて腰を抜かしているだろうが、ナイとなった今では平気だ。
むしろ悔しいが、だんだんと可愛く見えてきてもいる。
伏せているのに、椅子に座るナイの視線の高さと、シロの頭の高さにさほど違いはない。
それほどにはシロは大きい。
試したことは無いがナイだけでなくリオンやハリス、ミリーナの四人全員を背に乗せて移動もできるのではないだろうか。
実際に今朝ハリスとミリーナを森の外まで送っていったときに二人を背に乗せていたが、まだ余裕はありそうだった。
あの二人は小柄なので、追加でナイとリオンの二人が乗っても大丈夫そうだ。
次に拠点を変えるような事があれば移動が楽になるだろう。
最悪リオンは乗れなくても自前で飛べるので問題はない。
「よしよし」
「おいナイ。もう勉強は終わりか?」
放置されているリオンから抗議の声が上がる。
それもそうだろう。
リオンからしたら、わざわざ時間を取って教えてやっているのに、その本人にやる気が見られないのだから。
「……今日はもうええわ」
「おっけ」
リオンは机の上の絵本と書きかけの紙、それと筆記具を手に取り、まとめてナイの荷物袋へと片付けた。
「――あんがと」
「おぅ」
ナイもこの世界の文字を少しずつではあるが、理解できるようになってきている。
これもリオンのおかげだが、彼は少し面倒見が良過ぎるのではないだろうか。
ナイは自分でもリオンに対して――リオンだけではないが――酷い対応をしていると自覚している。
そんなやつの面倒を進んでみるなど、よほどの物好きなのだろうか。
それともやはり母親気質なのか。反抗期の子供を相手にしているような感覚なのか。
ナイにはリオンが何を考えているのかわからない。
シロを撫でる手を止め、窓の外を見る。
暗い空が広がり、今にも雨が降りそうだ。
だが、買い出しに出た二人が帰って来る気配はない。
ナイは立ち上がり、出かける準備を始めた。
「ん? ナイ、どこ行くんだ?」
「……散歩」
「へー。んじゃオレも行く」
ニヤニヤした笑顔を張り付けたリオンが、傘立てからすべての傘を鷲掴んだ。
緑の傘と、黄色の傘と、白い傘と、大きめの赤い傘の四本。
以前の買い出しで雨に降られたので、その際に買った色違いのお揃いだ。
ナイとしては自分の分は要らないと断ったが、気付いたら買われていた。
今までなら雨に降られたとしても気にしなかった。濡れてもどうせ放っておいたら乾く。わざわざ傘をさす意味はない。
この拠点に越してからハリスとミリーナがいろいろなものを買い足しており、生活は充実してきた。
しかしここに根を下ろすわけではない。いずれは拠点を移動する可能性もある。
その時に全て持っていけるわけではないので、買っても無意味だ。そもそもなくても問題はない。
それに何故か買う時はやたらお揃いにしようとする。
この間は、暑いから髪をまとめたいと言い出したミリーナが髪ゴムと何故か髪飾りまでもを人数分買っていた。
嫌な予感は当たるもの。
買い出しから帰ったらさっそくミリーナが髪を結いだし、ハリスとリオンがそれを誉めた。
そこまではいい。
だが、次にハリスの髪を結い、その次にリオンの髪ときたら、そのまた次が誰かなんて分かりきっている。
ナイは被害に遭う前に逃げようとしたがハリスに捕まり、まんまとミリーナに髪を結いあげられた。
残るシロの毛も綺麗に三つ編みに結いあげたミリーナは、仕上げにと髪飾りを付ける。
全員が同じ髪飾りをつけているのを見て、すっかりご満悦なミリーナは、その日はずっとご機嫌だった。
反対にナイはずっと不機嫌であったが。
外に出てフードを被っていたら、シロもついて来ようと外に出てきた。
「おまえは留守番」
拠点の中を指差しシロに留守番を命じると、しぶしぶといった感じで部屋の中へと戻っていった。
ナイは拠点から離れ森の出入口へと足を向ける。
ずりずりと杖を引き摺りながら森を歩くナイの背後から陽気な鼻歌が聞こえてきた。
「随分とご機嫌やな」
「ん~。素直じゃないナイちゃんとのお散歩は楽しいなぁ~と思ってなぁ」
そういってリオンは楽しそうに笑う。
なにがそんなに楽しいのか。
「……言っとくけど、これはただの散歩や。別に目的があるわけやないからな」
「はいはい。わぁってますよー。ククク」
杖を握る手に力が入る。
あの腹の立つ顔面に一撃を入れて黙らせてやりたい欲求にかられるが、それを抑えてナイは足を進める。
「こないのか?」
「うっさい」
「早くしないと雨降りそうだもんなー」
「どうでもええわ」
リオンの笑い声が癇に障る。
別にナイはハリス達を迎えに行こうとしているわけじゃない。
これはただの散歩だ。
散歩なのだ。
その後もリオンによるナイへのからかいが続いたが、すべて無視をした。
よくもあれほどに口が回るものだ。
そんな軽口が森の入り口付近に差し掛かったところでピタリと止まった。
その理由はナイにもわかる。
血の匂いだ。
足を速め現場を見る。
血を流し絶命するサボテンラビットの死体が四匹転がっていた。
そして複数の人間の足跡。
ナイは一気に警戒を強める。
途中ハリスとミリーナには会わなかった。まだ帰ってきていないのならばそれでよし。
だが、もし、ハリス達がこの足跡の持ち主と出会っていたのなら?
――だから、帰ってこれなかったのだとしたら?
「おい待て! ナイ!」
気が付いたら走っていた。
あいつらがどうなろうとどうでもいい。
そう、思っていたはずなのに。
今まで必死に見ないようにしてきた現実が、今、ナイの前に突き付けられる。
あぁ、気持ちが悪い。吐き気がする。
自分が誰かを心配しているなんて。
自分に嘘をつき続け、目を背け続け、すべてをなぁなぁにしてここまで来たのに。
シロは他人だ。どうなろうが構わない。
――違う……嫌だ。
ミリーナは他人だ。どうなろうが構わない。
――違う、嫌だ。
ハリスは他人だ。どうなろうが構わない。
――違う、嫌だ!
リオンは他人だ。どうなろうが構わない。
――違う! 嫌だ!
そうだ、わかっていた。
本当はずっと前からわかっていた。
ありえないことだと、そんなわけがないと、思い込もうとしていただけだ。
わからないふりを、していただけなのだ。
彼らは他人なんかじゃない。
――ただ、その事実を認めたくなかった。
だって、そんなことをしてしまったら――大切になってしまう。
大切になってしまったら、失った時に、耐えられない。
失うことが怖い。
彼らを失うことが怖い。
もう二度と、何かを失うことをしたくはない。
何も持ちたくない。
なら初めから何も持たなければいい。
それならば何も無いのと同じだから。
失うものが無ければ、何も感じなくてすむ。
心を傷付けなくてすむ。
だから、キツく当たって、早く自分から離れさせようとしたのに。
それでも彼らはナイのそばにいた。
いてくれた。
本当は一人で寂しかったのだ。
本当は一人で辛かったのだ。
本当は一人で苦しかったのだ。
だから、彼らが甘やかしてくれるのを良い事に、その行為に甘えていた。
彼らがナイを離さなかったのではない。
ナイが彼らを離さなかったのだ。
もう、どうしようもないくらい、彼らはナイの心を占めている。
認めよう。
ナイは彼らが――リオンが、ハリスが、ミリーナが、シロが、大切だ。
失いたくはないのだ。
他人などではない。
彼らは家族だ。
血は繋がっていないけれど、生まれた世界すら違うけれど、それでも、家族だ。
大嫌いなこの世界で出会った、大切な、大好きな、失いたくない、家族なのだ。
家族を傷付ける奴は許さない。
それが誰であろうと許さない。
もう誰にも奪わせたりなんかさせない。
自分の大切なものは自分で守る。
何一つとして、欠片とて渡してなるものか。
ナイの視界が開け、森を出た。
いつの間にか振り出した雨がうっとうしい。
足跡はまだ先へ続いている。
本格的に雨が振り出し、それらが消える前にと追いかけた。
そうして、すぐに、ナイは追いついた。
足跡の持ち主であろう、召喚師と、騎士と、その守護獣に。
そしてナイは見てしまった。
召喚師達のその向こうに――
「ぐ、があああああああああ!」
――怪我をし座り込んだハリスと、その彼に寄りそうミリーナを。
ナイは頭を抱え吠える。
――目の前が、赤く染まった。




