20 リオンは見た
「…………寝たか?」
目の前の存在から返事も反応も無い。
リオンの大きな身体に、すっぽりと収まっているナイが船を漕いでいたのは気付いていた。
それをあえて無視して読み聞かせを続けていれば、いつしかナイはリオンに体を預けるようにして眠ってしまった。
普段あまり寝ないナイが、あからさまにうとうとしているのが嬉しかった。
普段警戒心の強いナイが、己の腕の中で無防備に寝姿を晒したのが嬉しかった。
ナイを起こさないように細心の注意を払いながら、寝やすいように位置を調整する。
初めて出会った頃は四六時中着ていたローブも、今では――室内に限るが――脱ぐようになった。
ナイが自分たちにだんだんと心を許してくれているのが分かり、リオンは頬を緩める。
リオン的には顔がよく見えるようになり、ナイの表情の変化を発見しやすくなったので良い変化だ。
ただでさえナイは猫背で、顔を下げて過ごすことが多いうえに、ナイが真っ直ぐ立ったとしてもリオンとは頭一つ分は身長差もある。
そこにフードなぞ被られた日には、全くといって良いほど顔が見えない。
その点、今はガードが緩くなり、表情も見やすくなった。
そのおかげもあるが、本日またナイの新たな一面が見れ、リオンの気分も上がる。
もちろん家から出る場合はローブも着ているし、フードも目深に被っているが、リオン的にはそこはどうでもいい。
彼は朝からの出来事を思い出し、また笑う。
朝からハリスが出かけ、シロも狩りへ行き、ミリーナは台所へ。
やることもなく暇を持て余していたリオンは、昼寝でもするかと部屋の端へ寝転んでいた。
置いてあったハリスの鞄を枕がわりに、リオンは目を閉じた。
そうしてしばらく経った頃だ。
誰かが近付いてくる気配を感じ、リオンは覚醒する。
目を開けなくてもわかる。この気配の主がリオンが気に掛ける女であることを。
何か用でもあるのかと様子を伺っていたが、ナイはリオンに声をかけるでもなく、近くに座るでもなく、ただ視線だけを投げてくるのみ。
そのうち、ゆっくりと近づいてきたかと思ったら、ナイの思いがけない行動に、心臓が飛び出そうになる。
ナイはリオンの隣に腰を下ろし、あまつさえ腹に頭を乗せてきたのだ。
今までなら、リオンから近寄らなければそばには座らなかったナイが、まさかの自分からリオンの隣に座ったのだ。
それだけでも衝撃だったが、さらに横になり己の腹に頭を乗せてきた。
これが驚かずにいられようか。
完全に枕にされているリオンだが、不快感はない。
むしろ喜びが胸にあふれる。
懐かなかった猫が懐いたような、そんな感覚を味わった。
実際は猫など飼った事もないし興味もないので想像ではあるが、こんな感じなのだろう。多分。
また一つ、ナイとの距離が近くなったことに、意図せずリオンの口角が上がる。
いつものように、ここでからかいの言葉などを発してしまったら、ナイが逃げてしまう気がして、リオンは全神経を集中して何も気にしていないというフリをした。
そして、パラパラとページをめくる音が聞こえてくる。
いつもナイが眺めている本を見ているのだろう。
以前ちらりと内容を盗み見たが、どうやら恋愛小説のようだった。
ハリスの趣味なのか聞いたことがあるが、彼曰くジャンルにこだわりはないらしい。
面白そうならなんでも読むと言っていた。
常に鞄に数冊忍ばせており、読み終わったら売り払い新しいのを買うというのを繰り返している。
ナイが彼から本を借りた時には、たまたま手持ちの本が恋愛小説しかなかったらしく、一応断りはいれたがおそらく聞いてないだろうとのことだ。
そしてその予想は正しく、ナイは内容を一ミリも理解していないだろう。
いつも難しい顔で本と向き合い、とても恋愛小説を読んでいるとは言えない顔でページを行ったり来たりしているだけなのだ。
召喚獣は召喚された時点で、召喚師との意思疎通をスムーズにする為に、人間の言葉だけは理解できるように術がかけられるらしい。
しかし文字についてはその限りではなく、必要が有れば自力で習得するしか無い。
リオンたち召喚獣が暮らしていた世界と、こちらの世界では使用する文字は違う。
違うが、読めないわけでは無い。
実際リオンやミリーナ、ハリスは読める。
それは、元いた世界でこちらの世界の文字に触れたことがあるからだ。
なので、リオンはあまり苦も無く読めるようになった。
だが狭間の世界出身であるナイは違う。
彼女の世界ではそもそも別の世界の存在など知られていないだろうし、異世界の言語など触れる機会もないだろう。
ナイの様子からして、文字の形や文法が似ているということもなさそうだ。
それならば、きちんと勉強しなければ読めるはずもない。
途中、シロの呼ぶ声が聞こえたが、リオンは大事な任務の真っ最中なので無視をした。
代わりにミリーナがシロの元へと向かってくれたので、リオンは心の中で彼女へ礼を言う。
ナイといくつかのやり取りをしたあと、彼女の指が本文の一節をなぞった。
そこには愛の告白の文字。
文字が分からないナイの事だ、とくに意味がある行動ではないのは理解できる。
できるが、どうにも心が落ち着かない。
ただでさえ心を許してくれているのだと感じられる行動をとったナイが、その後にそんな文章を見ているのだ。
意味はないとわかっていても、まるでその言葉が、自分に言われているかのような錯覚に陥ってしまう。
あり得ない事だとわかってはいる。
でも、少しだけ。
ほんの少しだけ思ってしまった。
そうであれば――――と。
リオンは思考を切り替え、ごまかすように声を出す。
「あなたを愛しています」
何が書いてあるのかわかっていないナイのために、少しの進歩も見えないナイのために、ただ訳してやるつもりで口を開いた。
それ以上でもそれ以下でも無かった。
しかし、その時に見せたナイの顔がリオンの想像の範囲外のものだったので、不意を突かれた。
きっといつもの不機嫌顔で舌打ちをしたり、鬱陶しそうな目を向けてくる程度だと思っていた。
だから心の準備ができているはずもなく、至近距離でリオンはそれを直視する。
眉間の皺が取れ、驚きに目を見開き、瞼をぱちぱちさせるナイがそこにいた。
それはリオンが初めて見る類の表情で、思わず心臓が跳ねた。
さらに情けなくも変な声までもが、己の口から飛び出す始末。
いつもより幼く見えるナイ。
その顔を、不覚にも、可愛いと思ってしまったのだ。
高鳴る鼓動がナイに聞かれていないか心配になるほど、リオンは平常心を無くしかけている。
不思議そうに、いぶかしむように、視線を投げてくるナイから顔を逸らし呼吸を整えた。
ナイが見つめていたのはせいぜい十数秒ほどの短い時間だったが、リオンにはそれがとても長く感じられた。
やがてリオンが何も言わないので興味を失ったのか、ナイはリオンから視線を外す。
ようやく視線から解放されたリオンは小さく息を吐き、己の失態に気付かれていない事に胸を撫で下ろした。
しかしそんな安心も束の間、彼女は持っていた本を閉じると体を起こし始めた。
これにはリオンも内心で慌てる。
せっかくナイが珍しくリラックスして横になっているのに、もう終わりなぞ勿体無いと。
リオンは無意識にナイへと手を伸ばし、彼女の襟首を掴んだ。
そのまま後ろへ引き倒すように引っ張れば、簡単にナイは倒れ込む。
己の腹に戻ってきたナイの頭に満足したリオンは、彼女からの抗議を軽く流し、代わりに本を譲り受け開く。
目的のページを素早く見つけたリオンは、そのページを開いたままナイへと返す。
それがどうしたとでも言いたげに、いつもの不機嫌顔でリオンへ訴えるナイに不思議と安心感を覚える。
これでこそナイだ。
リオンはナイの手の中にある本へ指を伸ばし、先程と同じ言葉を繰り返した。
そしてナイの顔を見る。
今度は耐性があったので、先程よりダメージは少ない。
余裕のある態度でナイに接することができた。
笑ったせいか不機嫌になるナイを宥め、先程の行動の意味を語る。
ナイに頭がおかしくなったと思われていたのは心外だが、どうにも気分は良い。
喉の奥から漏れる笑いを噛み殺す。
そんなリオンが気に障ったのか、ナイの眉間に皺が寄った。
ナイからの文句に冗談まじりに返せば、彼女の機嫌が急降下したのがわかったが、リオンの笑みが消えることはない。
怒りに任せ勢いよく体を起こしたナイの腕を掴み、己の腕の中に閉じ込める。
凶悪な視線を投げつけられたが、それだけで、抵抗らしい抵抗もなくナイは大人しくなった。
これ幸いと、リオンは少しだけナイとの距離を詰め、彼女が開いたページの音読を始める。
どこを読んでいるか、ナイにもわかるように文字を指で追いかけながら、リオンはゆっくりと声を出す。
しばらく大人しく聞いていると思っていたナイだが、突然話しかけてきた。
しかも今まったく関係のない爪の色について。
今頃気付いたのかという思いと、よく気付いたなという二つの思いがリオンの胸によぎる。
元々リオンは召喚される前から爪を塗る習慣はあった。
とくに意味はなく、ただ爪が綺麗だと気分がいいというだけの理由だ。
その時は己の目の色である紫や、髪の色である赤ばかりを多用していた。
だが、ナイと出会い、また爪を塗れるほど余裕が出てきたときに買い求めたのが今の色だ。
黒と赤と白。
そして、口には出さなかったが、薄紅と深紫。
すべてナイの色だということを、目の前でリオンの爪をマジマジと見つめている女は気付くのだろうか。
(気付いてねぇだろうなぁ)
白は彼女の髪の色。
赤と黒は彼女の瞳の色。
そして、残りの二つは己と彼女の色を混ぜた色。
ハリスやミリーナには気付かれている気もするが、何か言われた事はない。
代わりに無駄に良い笑顔を向けられた事はあるが。
いや、確実に気付かれているのだろう。
(どうせなら緑と黄色を買い足しても良いかもしれねぇな……)
リオンの周りをちょこちょこと駆けまわる緑の頭と黄色い頭を思い出す。
自分の色を塗られていることに気付いたら、奴らはどんな顔をするだろうか。
きっと馬鹿みたいに、嬉しそうに笑うのだろうな。
そんな事をぼんやりと考えていたリオンは、唐突に本日三度目の驚きを与えられる。
「似合うな」
たった一言。
それだけ。
それだけだがリオンの心をざわつかせるのには十分だった。
なんとか返事を返し、これ以上変な事を言われる前にとリオンは話題を変える。
大人しく乗ってきたナイに感謝しながらも、離された手が少しだけ名残惜しい。
自分から触れる事はあっても、彼女から触れてくることは稀な事だから。
湧いた気持ちに蓋をし、リオンは続きを読むために口を開く。
しばらく読んでいれば気持ちも落ち着いてきた。
それにしても、恋愛小説ゆえか雰囲気が甘い。
こういうのは少しばかり苦手だ。
どうせならハリスから他の本でも借りておけば良かったと、リオンは頭の片隅で考える。
女なぞ飽きるほど抱いてきたリオンは、女が喜びそうなセリフなぞ簡単に言える。
しかし実際に行動に移すのと、ただ読み聞かせるためだけに言うのとでは気持ちが違う。
しかも相手はナイだ。
なんだかむず痒い。
適当に開いたページから読み始めているので、話の繋がりや人間関係なぞ何もわからない場面を淡々と読む。
そのうちナイの頭が上下し始め、やがては穏やかな寝息を立て始めた。
どうやらナイも恋愛小説には興味がなかったようだ。
ハリスから新しい本を借りることを決めたリオンは、腕の中で眠る女を起こさぬようにそっと本を閉じた。




