電話ボックスの女
いつも通りの残業代の出ない残業。
我が社は17:30になったら強制的にタイムカードを押され、碌に残業せずに帰ろうものなら、上司に無理難題を押し付けられるそんな会社だ。
事務仕事をすれば昼日中から冷房の聞いた涼しい部屋でサボりたい放題の上司の暇つぶしにつき合わされるだけ。
いっそその方が楽だからと、要領のいい奴らは事務所で仕事のあるフリをするが、自分ははっきり言って上司の人間性が嫌いだ。顔を見るのも嫌だ。
だから、黙って昼の暑さのこもる工場内で、一人明日の準備をしていた。
気がついた時には事務所の電気は落とされ、自分一人だけ。
何なら自分がまだ残っている事にも気が付いていないのだろう。門まで閉められていたが、別に何て事はない。
通勤鞄を背負って、門を乗り越えて帰ろうとすると、
外は梅雨が明けたばかりだというのに、妙にじめじめとしていた。
いつもの通勤路、何の変哲もない田舎寄りの半田舎の工場地帯を抜け、貯水池のある公園の横の道を歩く。
自分が子供の頃には、よく夏になると変質者や通り魔が出たもので、年々街灯が増えていった。
今では殆ど人通りのない田舎道にも関わらず、結構明るく余り怖いものでもない。
急に叫び声が聞こえたりしなければ。
何と言っていたのかは分からない。女性の叫び声が聞こえて心臓が跳ね上がり、全身の鳥肌が立つ。
事件かと思い周囲を見渡すが、パッと見、視界には何も異常がない。
しかし、叫び声は続いている。
そしてその叫び声は、助けを求めているというよりは怒声のようだ。
キーの高い女性の怒声、何を怒っているのかちゃんと聞き取れないが、襲われているのとはちょっと違う感じ。
誰かを責め立てる様な雰囲気に、喧嘩か何かかなとちょっと胸を撫で下ろす。
もし事件なら、せめて警察を呼ぶ位の事はしなくてはならないだろうが、生憎自分は仕事中スマホを弄らない主義なので、家に置きっぱなし。
じゃあ、どうやって通報すればいいのかと、つい自嘲していたら公園内の電話ボックスが目に入る。
公園前の歩道から50m位は離れているし、自分はあまり目が良くないので、はっきりとは分らないが、白い服の女性がいる?
そしてこちらを向いているように見える。
だからと言って、自分に何か言っていると思うほど自意識過剰じゃない。
多分電話している相手に文句を言っているのだろう。
彼氏に嫌なことを言われたのか、迎えに来てくれと頼んでるのに来てくれないのか、まあよく分らないが、誰もいない田舎一帯によく通る怒声。
本当に夏になると変な人が出るもんだ。
あまり見てて絡まれても嫌だし、さっさと立ち去る。
しかしまあ、歩いても歩いても追っかけてくるように、やたらはっきり聞こえる怒声。
全然距離が離れていかない。
何を言っているのかは相変わらず分らないが、公園前を抜け切り、コンビニの前を抜け、ガソリンスタンドのある十字路を折れて、田んぼの間を抜けていく。
いやいやいやいやいやいや!いつまで聞こえるんだこの声!
幾らなんでも異常な状態に流石に怖くなり、全力ダッシュで走りだし、家に向う途中ふと余計な事に気がつく。
このまま家まで、つけられたらどうしよう。
うちの近所の交番はインターフォンが付いている常駐型じゃないタイプ。
それならばと、家と反対側の駅方面に進路を切り替えた時、急に声が聞こえなくなった。
振り返るべきじゃないのに反射で振り返ってしまい後悔すると、そこには個人宅の小さな祠があった。
とりあえず、誰も近くにはいない。
そのまま自宅へと帰り、その日は少し多めにお酒を飲んで早く寝た。
翌朝いつもの通勤路、貯水池のある公園をチラッと覗くと、電話ボックスが目に入り、ちょっと近づいてみる。
よく見たら、何年も使われた形跡が無い。
何しろ、びっちりと蜘蛛の巣で埋まっている。
しかし、別に田舎の電話ボックスなら珍しい光景でもない。
携帯電話普及後、全く使われず、それでいて撤去にもお金のかかる電話ボックスが、適当に放置されているなんて、自分の地元じゃ当たり前。
しかし、だとすると昨日のあの怒声はどこから聞こえていたのか?
まだ温度の上がりきる前の早朝、やけに涼しく感じながら出勤する。