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誰もかれも、自分の愛に殺される

私だけは勇者のことをよく知っていた

勇者は、気の毒なほどに思いやりのある男として知られていた。


この常識的事実は、彼がまだ勇者ではなくて、王国中に魔物が跋扈していたころ、毎日のように新聞一面を飾っていた、魔物による街の破壊と被害者の哀れを伝える報に、毎日のように嗚咽を漏らして泣く彼の姿と、滝のような涙を拭ったならばすぐに宿を飛び出して、街の復興と無残な魂への献花を始めてしまう彼の姿から知れ渡ったものであった。


彼は自らの行いを当然のことだと言い切っていた。そんなようだから、周囲は彼に深い感服と敬意、それから信頼を寄せた。特に信頼の厚さは、たとえば被害のあるところに彼がたまたまいなかったとき、彼はひょっとして魔物に殺されたか、病気にやられたのではないかと心配して大騒ぎを始めてしまうほどに大層なものであった。


見ず知らずへの思いやりですら極めて重苦しいな彼において、母の死とは世に言葉に表せぬほど、彼の様子を悲惨にした。

魔王討伐の旅の途中で訃報を耳にしたとき、彼は古今東西のどんなに不幸な人よりも可哀想に身体をひくつかせ、目玉をこぼれ落とさんほどに脳の奥から悲しみを溢れ出させ、そして失神してしまった。その後、彼は目を覚ましても、途端、只今の己を苦しめるとんでもない不幸を思い出してしまって、参ってしまって、また失神した。これは、彼のことを余りにも可哀想に思った神が、天にあった彼の母の魂をペンダントにして、特別に恵んでやるまで何度も繰り返された。




彼が勇者に名乗りを上げたのは、言うまでもなくこの気性のためだったし、王が何の躊躇もなく彼を勇者に選んだのは、やはりこの気性のためだった。

また、彼の旅に同行を懇願した仲間とは、彼に同情して集まった者たちだった。


ただし、私だけは異なった。私が彼の仲間になると決めたのは、彼が将来手にするであろう富と名誉のおこぼれを醜く吸うためであって、私以外の仲間たち…戦士・武闘家・賢者のように、高尚な意志の萌しと、彼への敬意を持ち得たためではなかった。


しかし、この恥ずべき気質が功を奏して、彼の正体が、実は勇者を名乗るに全く相応しくない、究極の利己的精神の具現であることを、私だけが早々に知ることに成功した。

注釈しておくと、これは初めからそう訝しんでいたことではない。

彼に同行するほどに気づかされたことではあるが、決定打となったのは武闘家の死であった。




武闘家は、見た目の荒々しさからは想像できないほどに気配りの男であった。寡黙であったが身の動きは繊細で、彼は私たちの内で誰よりも仲間を気にかけ、心配していた。魔物との戦いの際には真っ先に先頭に立ち、積極的に私たちの壁になろうとしたし、戦闘外においては、たとえば仲間の誰かがトラブルを抱えたとき、彼は実に適度で、気持ちのいい距離感でそっとトラブルの解決に付き合うよう振る舞っていた。

これらは、日々の緊張で心も頭も存分に取り扱うことが難しい、私たちにとって非常にありがたいものであった。彼の繊細さは義理の厚さに由来するものらしくて、彼はかつて勇者に自身の故郷を救われたのだという。彼は恩義にずっと忠実で、勇者のことを大事にし、また、勇者の仲間である私たちを同じように大事にした。彼はその実を知れば知るほど好きになれる稀有な男で、これは私のようなとげとげしい人間においても十分に発揮されていた。私を含め、仲間の皆が彼を愛した。


だからこそ、彼が勇者を庇い、残酷な魔法攻撃に胸をえぐられてしまって、死んでしまったときには皆でとことん彼を惜しみ、泣いたのだ。


ただし、勇者だけはそうではなかった。少なくとも私にはそう見えた。確かに、彼も私たちと同じように武闘家のために一通りは泣いて見せてはいたが、その涙には彼の歪さが込められているように感じられた。この主張は、感覚的な独断のように聞こえるだろうが、実のところは至極客観的で、少し遡り、武闘家が勇者を庇う羽目になったキッカケを探ると、私の言っている意味が一目瞭然になる。

言うと、そのとき、勇者は強敵を前に呆然としていたのだ。只今、勇者とその仲間を殺さんとする魔王の手先を前に、どういう訳か彼はぼけっと突っ立っていて、その様子は、特に戦いの当事者から見ると、本当にふざけたものであった。だから、武闘家は勇者を庇う必要に駆られたし、だから、武闘家は死んだのだ。


私の涙には、勇者への恨みが込められていた。素晴らしかった彼は勇者の愚鈍に殺されたのだ。

私は、勇者には武闘家の死に対して、喪失による悲しみよりも、自責による後悔をして、涙を流して欲しいと考えていた。

しかし勇者はそうしなかった。彼は、喪失による悲しみから涙するわけでもなく、自責による後悔から涙するわけでもなく、彼は彼自身のために泣いているように、私には見えた。

仲間たち…戦士と賢者は悲しみに暮れてしょうがなかったためか、勇者の愚行に構う余裕がなさそうで、私のように責任の追及はせず、ただ彼と涙を共有することに必死だった。


だから、勇者への反吐は私だけが吐いたのだった。

こうして私だけは勇者のことをよく知れたし、腹の底から彼のことを嫌うことができたのだった。




旅は加速した。武闘家の死をキッカケに、勇者と仲間たちに活気づいたからだ。私の足取りだけが重かった。

勇者の正体を知る私において、彼の旅に同行するとは、つまるところ、なんらか次の悲劇に出会うための足取りであると予感されたのだ。そのような身震いが私を襲ったのだ。

ただ、それでも私が重量の増した足を持ち上げて、同行を続けることにしたのは、武闘家と同じくらい、戦士と賢者が素晴らしい人たちであったからで、私が彼らを好いていたからであった。勇者と別れるより、彼らと共にいることの方が、私は良いと考えていたのだ。




次に死んだ、賢者は役職に似合わずお喋りな男であった。どうも、勇者に同情する人とは従ってお節介な人であるようで、彼もまた、武闘家と同じくらい仲間を気にかける男であった。ただし、彼は武闘家のそれとは方向性が違い、人と人との距離感を知らないうっとおしい奴で、他者の楽しみや悲しみにずかずかと土足で入り込んでは、他者以上に楽しみ、悲しむのであった。

このような態度は、多くの場合で迷惑極まりないものであり、出来るならば避けたり、追い払いたいと考えることが常であろう。しかし彼はこの常套に当てはまらなかった。彼は騒がしさの中に、賢者らしいサッパリとした理知の冷やかさを有していた。彼は感情的に泣いたり笑ったりすることが得意な一方で、楽しみや悲しみに対し、論理的に尤もな見解を提示することも得意としていた。

つまり、彼は、お喋りで、楽しくて、阿呆っぽい奴だが、それ以上に、付き合っていて自分の糧になる、有意義な奴であった。私は彼のこともまた、好きであった。こんな奴に、私は人生のもっと早いうちに出会いたかったと心の底から思った。彼と別れること、彼を失うことが、人生において重大な損失であることを、私はよく理解していた。


しかし、賢者は死んだ。


旅が中盤を越えた頃、私たちにはしばらくの間、動くことができない期間があった。進むべき道の先に毒の霧が充満していて、迂回の道を探る必要に駆られたからである。私たちは近隣の村を拠点にして、周囲の探索を行うことにした。

ただし、勇者は自己鍛錬を望んでいて、賢者は毒に弱いようだったので、探索は私と戦士の仕事になった。

賢者は、私のいない間に死んだ。彼の死を、私は勇者から聞かされて初めて知った。


その後、方々から話を聞き情報を集め、私は賢者の死の経緯をこう推理するに至った。


…私と戦士がちょうど探索に出かけている間、くすぶる勇者は、村の近くにあった深い森の中で鍛錬を積むことを習慣にしていた。彼は、日々を森々の木々を相手に剣を振るっては満足に汗かき、そのあと宿に戻って寝るようにして過ごしていた。

ただ、ある日、賢者が死んだ日、この日の彼は普段では考えられないほどヘトヘトになるまで頑張っていて、そのために、宿に帰ってくるなりばったり倒れ込んで眠りこけてしまった。ただし、勇者はあまりの疲れから、森に自分の大事なペンダントを落として行ったことに気づかないで宿に帰ってきてしまっていた。これに気づいた賢者は、お節介にも落とし物を回収しに森に向かった。おそらく、彼は目覚めると同時に遺失物に気が付いて動転する勇者を予想し、憂いたのだろう。

特に戦いの用意もせず気楽に森に入った賢者は、元々の肉体の弱さも合わさり、飛び掛かる魔物にまるで抵抗できなかった。彼は魔物に食い殺されてしまって、その後に私たちが見つけた彼とは、とても無残な肉片と乾いた血しぶきでしかなかった。

何よりも悲しいのが、彼の手だけが無事であったこと。ペンダントを見つけた帰りに襲われたのだろう、爪や牙に身体を裂かれてしまって、抵抗できないと悟った彼は、せめて勇者が自分の命よりも大事だと言っていたこれだけは大切に守ろうと、握る手にもう片方の手を被せ、更にこれを懐の奥にしまい込んだのだ。そうしたおかげで、懐に至る手前の、腕はぐちゃぐちゃに食いちぎられてしまったにも関わらず、衣服に包み込まれしっかりと守られた彼の手と、その中心にあるペンダントだけは無事だったのだ。

ところで、森に魔物が発生した理由は、勇者が木々や草花を構わずなぎ倒して暴れ散らしたことで、既存の生物がいなくなってしまったから。これの穴埋めに、魔物が寄ってきたからだと考えられる。


私はこの事実を推理し切ったとき、勇者に対し並々ならぬ殺意を抱いた。もっとも、当の勇者は賢者の死にわんわんと泣いていて、その姿は私を逆撫でするものだった。

私は勇者をひどく罵った。以前に押し殺していた鬱憤がこのタイミングで喉を逆流してきたことも手伝って、私はこれでもかというほどの怒りを絶え間なくぶつけた。私が知る限り全ての罵詈雑言を浴びせた。言葉で彼を殺そうと思っていた。

しかし、勇者は私の怒りにただ、うん、うんと情けない泣き顔で返すだけであって、それよりも可哀想な自分を、仲間を失ったことに加えて私に罵られてもっと可哀想な自分を世に提示したくてしょうがないようだった。それがまた私を苛立たせた。

彼が、やはり賢者のためや自己反省のために泣いているわけではないことを、私は知っていた。だから、私はいつまでも彼を責め続けた。彼が己の愚かさのために自分を絞め殺してしまい、そして生まれ変わって、真の涙を流せるようになるまで、私はこれを止めるつもりがなかった。


しかし、最初こそ、私の怒りに参加して同じように勇者を罵っていた戦士は、形だけは泣きじゃくる勇者に次第に同情してしまって、ついに私を制止する方向に動き始めた。

彼は心優しい男あり、同時にいくじなしであったから、私のように怒りに全身を預けることができなかったのだ。




戦士は素晴らしく戦いの腕が立つ男であったが、誰よりも戦いを避けたがる男であった。生来、剣ばかりを握っていた手を、できるならば花を摘まむことだけに使いたいとする姿勢が、彼の癖であった。また、彼は物理的な圧以外にめっぽう弱かった。つまり、言論の場において、彼は非常に貧弱であり、いつであろうと引っ込み思案の子供のような、頼りない発言しか出来なかった。彼が自分の意見らしい意見を言った姿を、私は見たことがなかった。

しかし、戦いとなると彼の働きぶりは必ず絶品であって、日々の様子が噓のようであった。最も武勲を上げる者とはいつも彼のことであった。私は、彼の、戦士としての偉大さを知るからこそ、彼の、普段の女々しい態度と、弱弱しくてなさけない言動に夢中にさせられた。彼は受動的な寵愛がよく似合う男であった。事実、私は彼のことをよく可愛がっていた。他方で、戦う彼の芯のある強靭さを目撃したとき、身体の芯が熱くなっていくことを実感した。私は彼を好まざるを得なかった。私でなくても、私と同じ立場にあるならば誰でもそうなったはずだ。彼にはそれだけの魅力が備わっていた。

いつの日か、この想いを彼に伝えようと考えていた。他の二人とは異なり、私は、彼を恋心的な意味で好いていた。


恋情とは非道なもので、人に大抵の不条理を無視するために十分な横暴さを与えてしまう。これは私においてもそうであった。

賢者の死について、正当な事由で勇者を罵る私を、戦士が制止しようとしたとき、私は彼に嫌われたくなくて、間抜けにもその通りに止まってしまった。そうして、勇者はついに自分を悔い改めなかった。彼は賢者の死の責任の全てを魔物に転嫁して、遺体の手からひったくったペンダントを握りしめながら、魔物と、魔物を従える魔王への怒りを叫んでいた。彼の姿は本当に滑稽だった。




この後、私は戦士に、勇者の正体について尋ねた。

この行為の意図として、もしも戦士が私と同じように勇者の正体に気づいているのならば、直ちに勇者を見限ってしまって、二人でどこかに行ってしまおうと考えていた。また、鈍感にも勇者の正体について何も気づいていないのならば、まず私の口から分かるまで彼にこれを教えてやって、その後に、やはり勇者を見限ってしまって、二人でどこかに行ってしまおうと考えていた。

どちらにしても、私は勇者にうんざりしていた。

戦士は、薄々ではあるが気づいていたようだった。勇者の愚かしさについて、私のように明確に言語化するにはまだ至っていないものの、頭の中でそこそこ納得していたようで、勇者を見限ろうと提案する私の意見に対し、彼は同意してくれた。

ただ、同意する彼は、やはり弱弱しくて、なんだか温かみのある霧のように、いつでも散り散りになってしまうような気がして、私は気がかりを抱かざるを得なかった。しかし、このときの私は、好く男と二人でこれからを過ごせる喜びから興奮してしまっていて、気がかりが警告する将来の悲惨にまで思考を巡らせることができなかった。


気がかりは従って仕事を果たした。


たとえ勇者が追ってきたとしてもしっかり逃げ切れるようにと考えた私と戦士は、逃亡のために、食べ物や移動手段やらを暗黙に準備をしていたのだが、準備の最中、戦士は、不審な様子を勇者に見つけられてしまった。

ただ、私はそのような事態が特段の問題に繋がると考えてはいなかった。その実が逃亡の準備とはいえ、やっていることは食料や布を買い込んだり、馬を買ったりしているだけで、これらは普段から旅のために行っていることなので、適当な言い訳さえしてしまえば、疑いの目は簡単にはぐらかせると、私は考えていた。事実、私は一度、勇者に不審な動きを目撃されたことがあったのだが、とても簡単にいなせた。

しかし、弱弱しい戦士はそうできなかった。彼は勇者に疑われ問い詰められた途端、慌ててしまい、内緒にしようねと紡ぎ合った口を崩落させてしまって、結果、只今私と行おうとしている勇者への裏切りについて、洗いざらい吐いてしまった。


次に私が勇者を見たとき、勇者は怒り尽くしていて、私を見るなり思い切り殴りかかった。彼はひどく泣きわめいていて、気が狂っていた。


このとき、私は何かに気づきそうになった。それは、勇者の持つもっと根本的な歪み、彼をこうさせる元凶のような要素への気づきであった。しかし、この時点では完全な気づきを得るに至らなかった。


何故なら、私と戦士を罵りながら狂気に身を包み大暴れする勇者が、いよいよ腰に携える剣に手を伸ばして、戦士を思いっきり切り伏せてしまったからである。突然に加え、そもそも仲間に殺されるとは全く思い至っていなかった哀れな戦士は、無抵抗にやられてしまい、ばっくりと開かれた自分の腹を見ながら倒れ、そのまま息絶えてしまった。

横たわる彼を見て、私は引き裂かれるようだった。それは、眼前の受け入れがたい悲惨さから逃げ出したいと悶絶する脳に対して、彼の熱を求める身体が、これを許さないことからくる矛盾的感覚であった。私の眼は、どうにかして正者としての戦士を捉えるべく、必死に瞳孔を大きくするし、私の肌は、先ほどまで戦士だった、人の形をする肉塊を何度も揺すって、動き出すことを要求していた。

一通りの足掻きが無駄に終わったことを確認したとき、私の頭はついに悲しみを受け入れてしまい、私からこれを放出することを決定した。このとき、私は引き裂かれるような感覚から解放された代わりに、今度は、心の奥底まで握り潰されて、全部の喜びや幸福が辺りに飛び散ってしまって、吐く息さえ、身体に残っていないのに、決して死ぬことができない、そういう、純粋極まりない苦しみに襲われてしまった。私は内側から針のむしろにされ、または千切れるようだった。




これは、この後によく知らしめられた事実であるが、どうやら勇者は私のことを非常に好いてたらしい。

ただ、本性を歪んだ形でしか出力できない彼は、自身の恋心を、純粋な形でさりげなく伝えたり、ふと何らかで間接的に表現することが全くできなかった。そのために、私は今まで、彼の気色悪い恋情を知ることができなかった。

私は、このときはじめて、彼が持つはち切れんばかりの愛と、その向かう先を知った。


私が演出する悲しみの躍動に、呼応されたのか、触発されたのか、勇者は私に倣うようにして、心のままの行動を始めた。

まず、打ちひしがれて動けずにいる私のことを組み伏せた。次に、横にある肉塊から袖や裾を引きちぎってきて、これを用い、私の手足を縛り上げた。そうして無防備にされた私を、勇者は蹂躙し始めた。

私は、身にまとう物の全てを剥がされ、彼の前に恥辱を露見させられた。

わが身の危機が、味わうべき苦しみと悲しみから即座に私を引き戻し、私に必死の拒絶を行わせた。しかし、これは失敗に終わった。

愛する者への憐憫と喪失感に未だ十分に浸れずにいた私を、彼は追撃のような形で堪能した。そして私は、ついに彼の本質を味わわされてしまった。




旅は、勇者と私だけで続いた。

私には彼に付いていく他なかったし、たとえそうしないと抵抗したとしても、彼は無理やりに私をそうさせた。

尊厳のすべてを踏みにじられた私には、もはや身動きが難しかった。気が向いたら、手元の林檎を齧るくらいに簡単な感覚で、私を貪ろうとする彼に対し、私は従順になるしかなかった。彼は私に何度も愛の言葉を囁いた。また、彼が自分と同じようにしろ命じられたとき、私も彼に何度も愛の言葉を囁いた。

それが、心にも無いものであったかどうか、私はよく知らない。少なくとも、彼はすごく満足していたので、私はそれでよかった。


道中の戦いや探索はすべて勇者が熟した。彼は好ましいものへの自由を手に入れてしまって、解放された気分にあった。ハツラツとしていて、かつて見たこと無いほどの活躍を私に見せてくれた。

多分、あれが彼本来の姿なのだ。彼は最初から仲間なんて要らなくて、その気になればいつだって、どんな困難だって、彼は一人で乗り切れるのだ。しかし、そうなるためには周囲に多大な犠牲を強いる必要があるのだが。

彼はついにそうしてしまって、そして只今の姿を獲得したのだ。




同行する私とは、付き従う娼婦に同じだった。私とは彼における阿片のような立場にいた。

ただ、私が娼婦や阿片と違うのは、使用者に対し、ぐちゃぐちゃの気持ちを持っていて、彼という、動き回る腐肉について、強烈な悪意をもって考える意志に溢れている一点だった。


彼について、私は色々な説を提唱しては潰して、それを繰り返していたのだが、その末に確信を持てたことはただ一つで、彼が涙する理由であった。


彼が裏切りを許さない性分なのは、これまでの彼の行いを見て言うまでもない。彼は裏切りという仕打ちに対し明確に憎しみを抱いており、それは人一人すら殺してしまうほどに強力なものであった。

思うに、たとえば、彼がたかが新聞の一情報を見てひどく取り乱したりするのは、裏切りに対する機序なのだ。彼は、可哀想な人々を想って泣いたのではなく、勇者である自分を裏切って危機に溺れようとする人々を憎んで泣いていたのである。

この理屈は他にも応用出来て、たとえば、彼の母が失われたときに泣いたのは、彼のやすらぎを保障していた女が突然姿を消したからである。武闘家や賢者に泣いたのは、彼らが忠実な仲間からただの肉に成り下がったからである。これら一連は、彼において裏切りであり、だから悲嘆に暮れたし、泣いたのである。




こうして、勇者についてすっきり納得できたとき、勇者と私は旅の終盤にあった。つまるところ、魔王が住む城に辿り着いた。


ただし、彼は私を愛していた。その気持ちは、私を潰したあの日から今日にかけて、ぶくぶくと太り続けていて、いつしか彼は、私を生まれたばかりの子犬よりも丁寧に取り扱うようになっていた。

そのためか、彼は私に踵を返して故郷に帰るように命令した。それから、芋と玉葱を良く煮込んだ甘いシチューが好きなので、それと、付け合わせに硬めのパンを用意しておくように指示した。


ここまで私を引きずっておいて、今更帰れという彼は実に身勝手であったが、只今の私において、そんなことはもはやどうでもよかった。私は彼の家の鍵を預かった。大事にしていたペンダントは、賢者から取り返した後、ポケットに突っこんだはずがどこかに落としてしまったそうで、それは渡されなかった。というか、彼自身、一応はペンダントの所在を探ろうとしたものの、少し身をまさぐったら、もう面倒臭くなったのか、簡単に発見を諦めてしまっていた。


自分の僅かな持ち物に加えて、一通りの荷物を渡され、腕の中がいっぱいになった私は、彼が隠し持っていたスクロールによって、故郷まで一瞬で飛ばされた。

私は彼の家の中にポツンと立っていた。荷物が腕から木材床の上に向かってぼとぼと落ちていった。

この日の私は、そのまま、無造作に散らばる荷物と一緒に、冷めた床で、自分の持ち物だけを抱きしめて眠った。




数日して、王国中から魔物の目撃情報が一切消え去った。これは、勇者が魔王に勝利した証に違いなかった。国は歓喜に包まれた。誰もかれもが大騒ぎをして、喉が枯れるまで勇者を讃えた。酒場に居座るいじわるな悪漢すら、勇者のことを褒めちぎった。これは、彼のかつての評判が働いたことも起因した。


少しして、私の素性が国中に知れ渡った。私は、素晴らしい勇者の素晴らしい仲間として祭り上げられるようになった。そのうちに、王から手紙を頂戴した。私は宮殿に招かれて、どうやっても有り余るほどの褒美を与えられた。私は一瞬にして富んだ。

東西南北から、勇者について知りたがる大勢が、私を訪ねた。皆が、勇者の武勇や、私の活躍なんかを聞きたくて、あれやこれやと質問をぶつけた。私は余計なことを言わず、彼らにとって気持ちの良いことだけを話すことに努めた。おかげで勇者と私の名声はますます高まった。


彼の家で黙々と家事を熟す様子と、大きくなっていく腹を見た人々が、あれやこれやと噂した末に、私は勇者の妻と見なされるようになった。

すると、寂しそうに一人で家を守る女を哀れんだ、心優しい人々が、力になりたいと躍起し出した。手紙を出したり、馬を走らせたりして、まだ随分と遠くにいる勇者の近況を集めてくれて、教えてくれた。

彼らによると、勇者は五体が無事で健康そのものらしく、屈強な姿を辿る街々に見せびらかしながら、ゆっくりと此方に帰って来ているらしい。

彼らは、私を安心させるべく、勇者の動向を教えることを、わざわざ日課にしてくれた。彼らは私が安心することを期待して、いつまでも良くしてくれた。おかげで私は、一人でも穏やかさと健やかの中で過ごすことができた。




お腹が西瓜よりも大きくなって、少し動くことすら億劫になったくらいの時分、彼らの皆と、加えて、見ない顔の数人ほどが、興奮した様子で家に飛び込んできた。わけを聞くと、只今の勇者は隣街にいて、もう幾日もしないうちに此処に帰ってくるのだと、彼らは泣いたり喜んだりして教えてくれた。

それを聞いて、私も、彼らのように嬉しくなって、泣いてしまった。少しの間感極まって、それから私は、改めて彼らを家に入れてやり、いつもよりもずっと快くもてなしてやった。

いつもより人数が多いために、客間にある椅子では数が足りなかったので、私は居間や寝室や書斎の椅子を引っ張ってきた。自分以外の存在で重くなった身体を動かすことは、魔物と戦いまくるよりも息が切れることであったが、このときの私は、これをちっとも苦に思わなかった。


茶と菓子を楽しんで、皆で十分に喜びを共有し合ったところで、彼らの一人が、楽しそうな声で言った。

「いやぁ、貴女という方は本当に素晴らしい!勇者にとって、貴女は苦楽を共にした仲間だし、従順に帰りを待つ健気で可愛い妻だ!そして、きっと貴女のように可愛いに違いない子供までいる!

この世で最も尊敬される存在でありながら、同じように最高の存在の貴女を手にしている彼は、間違いなくこの世で一番の幸せ者でしょうねぇ!」


続けてもう一人が言った。

「いや、彼女はきっと彼以上の幸せ者だ!理由を話そう!

…一直線に此処に向かわず、街々で凱旋をしていて、貴女をじらして、はぐらかすように振る舞っている彼のことですがね?私の知るところによるとですがね?

…彼、貴女が作って待っているからと言って、何処でどのように歓迎されようとも、いかなる甘言を囁かれようとも、シチューとパンだけは決して口にしないのですって!

…たとえそれらが土地の名物であったとしても、食べないのだと言います!

聞くに、これは彼が貴女と別れる前に交わした、大事な大事な約束なんですってね!」


更にもう一人が言った。

「なんて素晴らしい話だろう!待つ貴女、向かう彼!そして裏切られること決してない約束!二人はつくづく信頼で結ばれているものだ!貴女たちには、きっと、きっと素敵な未来しかありません!」


私は微笑んで言った。

「きっと、きっとそうであると嬉しいですね。」


私は立ち上がって、客間に飾っていた、思い出深い人の剣を手に取り、それで自分の腹を真っ二つに割いてやった。きっと貴女のように可愛いに違いない、二つに割かれた胎児が、私や彼らの目の前に姿を現したところで、私は死んだ。


彼と離れてから結論付けたことだが、私は彼のことを良く愛そうと決めていた。何故なら、私だけは勇者のことをよく知っていたから。

そして、私はきっと、彼がどうなるか、分かっていたから。

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