そのイヌなにか変だ
住宅街の中にある川岸の遊歩道を挟むようにずらりと並ぶイチョウは、木の葉を黄色く色付けている。ふわっと風に吹かれて枝を揺らせば、水面を鮮やかに色づかせる。そんな優雅な遊歩道を日常的に散歩、ジョギングなどに利用する人々の中に今日もスマートフォンに注力しながら、中型犬を連れて歩いている男子高校生がいた。カットしたてのマッシュショートな黒髪を軽く上下させ、左手にはゆっくり歩く薄茶のハチワレ顔の中型犬の上半身をつなぐリード、右手にはフェルト製のユニフォームのストラップをぶら下げている赤いハードケースのスマートフォン。男子は、スマートフォンでチャットアプリを開き、しきりに誰かにメッセージを書いている。そんな姿を見上げながらのそのそと歩く犬。犬は木々の間の草むらに入っていくことはせず、ひっぱられるがままに足を動かす。くるんと軽く丸まった尻尾は、歩調に合わせて左右に振っている。そんな二人の前に同じ制服を身につけた、まとまりの良い黒髪を桃色のシュシュを使って首元で結っている女子が、茶色のトイプードルを抱き上げながら散歩しているところに出会った。こちらに気がついた女子は、スマートフォンから目を離さない男子に軽く手を振って声をかけてきた。
「さっきぶりだね、細野君。ワンちゃん飼っているんだね。」
細野 裕太、それが男子の名前だった。腕の中に包まれている小型犬のように愛らしい声に気がついた裕太は、少し手から落としそうになるもスマートフォンをスリープ状態にする。雑にズボンの後ろポケットに突っ込み、空になった右手で頭を掻く。目線は女子と上手く合わず、宙を漂っている。
「あ、川谷。よ、よう。」
裕太は、油を差し忘れたロボットのようにぎこちない動きで右手を上げる。左手のリードは普段以上に強く握られ、しっとりし始めた。中型犬は、何も指示されていないにも関わらず、待てのポーズで座り込む。
「大きなワンちゃんだね。何歳なの?」
裕太の左側の中型犬に背丈に合わせて、しゃがみ込む川谷。腕の中の茶色い毛玉は、鬼の形相で唸っている。こらっ、と川谷が小さい声で叱ると渋々唸ることをやめた。
「お、おれが生まれた頃からいるから、今年で17歳だと思う。」
「へー、凄いね!長生きだね。」
「最近は走りもしないから、散歩に時間がかかって手間がかかるんだよ。」
気だるそうにため息つきながら、持て余している右手をイヤイヤと左右に振る。
「散歩は歩くものじゃない…?最近はお年寄りのワンちゃんを乗せて歩けるカートタイプもあって、便利だなーって思うよ。」
きょとんと首を傾げる川谷に、ぎょっと目を見開く裕太。つなぐ言葉が喉でつまり、口だけが餌を食べている魚のようにパクパクと開閉している。
「今日は、うちの子が調子良さそうだったからこっちまで足を伸ばしてみたんだ。ハルカはもう13歳だから、今のうちに色んな景色見せてあげたくて。」
しっかり待ちの姿勢をしている中型犬に微笑んだ。そのまま川谷は立ち上がって、愛おしそうにハルカの頭を撫でる。ハルカももっとやってと言わんばかりに小さな手のひらに、ぬいぐるみの頭を押し付ける。ふふっと柔らかい笑みが溢れると、それと対照的で裕太はカチンと固まる。血の気が引いていっている。
「そろそろ寒くなるから、行くね。また明日学校で。じゃあね、細野君。」
「あ、ああ。」
互いに軽く手を振り、川谷はその場を後にした。川谷が見えなくなった事を確認したら、その場にしゃがみ込む裕太。中型犬が心配そうに近くに来た頭に顔にクンクンと鼻を近づける。
「レオン、ほっといてくれ!」
顔が近かった中型犬レオンにとっては、怒鳴り声に等しく、ビクッと固まってしまう。裕太は、右手で頭をかきむしりながら急に立ち上がり、乱暴にリードを引っ張りながら、帰宅方向へ足を早める。今日の散歩は15分も立たず終わりとなった。
今夜の夕飯は鍋料理だ。裕太は肉を多めに入れてと母に言い残し、リビングでくつろぐ。母が夕飯の準備をしている間は、レオンが足元に来ると危ないため、プラスチック製のペットサークルの中で静かに座っている。1つだけあるフェンスから、伸ばした前足に顔を乗せてリビングの様子をうかがう。ソファに崩れ込むようにリラックスしている裕太は、今もスマートフォンを片手で操作している。同じソファに座っている裕太の弟は、動物が数多く紹介されるテレビ番組を見ていた。
「おお、シェパードかっこいい!」
弟の声に、小さな画面を覗いていた裕太も顔を上げる。テレビに映し出されているのは、警察犬になるために訓練している犬が大会で様々な種目をこなしていく場面だ。若いシェパードがハードルを飛び越え、三角コーンを器用に避けて通っていく。
「あのくらい走れたら、サッカーも楽しいのにな…」
掻き消えそうなか細い声が裕太の口から漏れる。テレビに夢中になっている弟には聞こえていない。裕太の視線が泳ぎ、テレビ台下のサッカーボールの形をしたトロフィーを捉える。静かに目蓋を閉じ、一呼吸おいてからもう一度スマートフォンに視線を落とした。その仕草をレオンは見逃さなかった。レオンの瞳からは強い意志を感じる。
「裕太!聡太!ご飯よ、テレビ消して手洗いして、仕事しているお父さんも呼んできてちょうだい!」
母の大きな声と共に重量のある鍋がテーブルに置く音がリビング内に響いた。兄弟二人はやる気のない返事をしてから、指示されたことをこなしていく。パタパタとスリッパの音をさせながら、母がレオンのフェンスを開けてくれる。
「レオンお待たせ。テーブルのそばにクッション置いてあるからこっちまでおいで。」
心優しい母に感謝を伝えるため、ひと鳴きして立ち上がる。ずっと座っていたためか、身体がこわばる。それでもゆっくりゆっくりと一歩ずつ確実に、クッションに向かう。手洗いを済ませて帰ってくる子供たちに見られぬようにと急ぎながら。
夕飯が終わり、食器の片付けも終わり、風呂の順番待ちをしている裕太は1人ソファに倒れ込む。この家のルールで、食後に家族全員でじゃんけんして負けた人が洗い物片付けを行うことになっている。毎日の生活の中で1番盛り上がる家族イベントだ。今日は裕太が負けた。全てが終わるまでクッションで静かに座っていたレオンは、裕太の死角になるソファの背もたれの後ろまで移動する。裕太を刺激しないように気をつけながらも裕太を気にかける、それがレオンの日常だった。じっと静かに息を潜め、裕太の頭があるアーム側へ行こうと動き始めたら、裕太の近くでゴトンと床に何かが落ちる音がした。レオンは更に距離を縮めて、落とした物体を確かめる。スマートフォンだ。裕太を見上げれば、ソファで寝息を立てていた。そんな裕太に布団をかけようとレオンがテーブルの棚に畳んである肌掛けを口で引っ張り出す。ソファに前足をかけ、引っ張り出した肌掛けをゆっくりかけてあげる。そのまま前足を床に戻しても良かったが、裕太の寝顔に顔を向けた。大粒の涙が彼の顔から流れている。レオンの前足は一度降ろされ、裕太の顔に自分の長いマズルをくっつけ、レオンも目を閉じる。次第に裕太の顔の大雨は小雨に変わり、風呂の順番が来る頃には雨上がりの顔となっていた。目を冷ますまでずっとソファの下でレオンが寄り添っていたと聞いたのは、裕太が風呂を上がり、レオンがサークルで眠ってしまった後であった。