そのイヌ溺れる
最近は、散歩どころじゃなくなってきていて、家の中を歩くことも難しい。お母さんもお父さんもそのことに気がついていて、この重い体を祐太が座っているソファに運んでくれる。祐太は、迷惑そうな顔で見下ろすんだ。その祐太の手の中にあるスマートフォンは、きっと今の祐太にとって魅力的なものを映すんだろうね。とレオンは諦めていた。もう祐太は、こちらを向いてはくれないと確信していた。
キーンコーンカーンコーン。帰りのホームルーム活動が終わった。部活でレギュラー落ちした祐太は、後輩達と夕方からの練習内容についてチャットアプリを通じて確認を行っていた。クラスメイトは、部活に行く生徒と、帰宅する生徒でグループを作って教室を出ていく。普段なら、川谷と一緒に昇降口まで降りるのだけれども、今日は朝から休みだった。どうしたのかと朝のうちにチャットしたが、まだ返ってこない。嫌われたかなと思春期特有の思考になりながらも、クラスメイトが全員外に出てから、たった一人で昇降口に向かう。後輩からのチャットにすぐに気がつけるように、スマートフォンのチャットアプリを開いたまま右手に持って視界に画面が入るようにしている。毎日毎日、こうやってチャットアプリを開いて、誰かの相談乗って、フォーメーションの確認をして、予定が変更になって、レギュラー落ちになって…嫌なことばかりしか画面に表示されない。
『今日はごめんね!昨夜、ハルカが虹の橋渡ったんだ。今まで涙が止まらなくてチャット見られなかったの。』
チャットの返信が川谷から来たと、スマートフォンのバイブが鳴った。読み上げた瞬間、ひゅっと息が詰まる音がした。川谷の『虹の橋を渡った』という言い回しを知らないわけがない。ハルカは亡くなったんだ。確かレオンより若かった。そう思い始めると、スマートフォンを持っている手が震えてきた。虫の知らせというのだろうか、胸がざわつく。この後、部活があるというのに。
『レオンが家出したかもしれない!』
的中した。先に帰っている中学生の聡太からもチャットがきた。両親は、東京付近まで仕事に行っているからすぐには帰ってこられない。昇降口一歩手前で、体の向きを変え、職員室へ急いだ。
コーチは職員室に寄ってからグランドに向かうと聞いていたため、まだいるのではないかと思ってノックしたが、部活のコーチはもうグランドだったようで、職員室にはいないと担任から聞いた。職員室から飛び出て昇降口で靴を履き替え、グランドへ駆け出そうとした時に花壇の草むしりをやっていた用務員さんに声をかけられてしまう。
「そんなに急いでいるとけがしてしまうぞ。」
「す、すいません。」
無碍にはできない。そわそわとしながらも用務員さんと向き合った。花壇の前から立ち上がった用務員さんは、祐太を見るなり眉間に少ししわが寄ったように感じた。
「ああ、確かサッカー部の細野君だったよね?そんなに切羽詰まった顔でどうしたんだ?」
「あ、あの、部活お休み貰おうと、お、思って。か、か、かぞ…」
「おお、そうかそうか。分かった。私が代わりに伝えておくからもう帰りなさい。」
「!?いいんですか?」
「いいよ。その様子だと大変急いでいるようだ。サッカー部のグランドは遠いから間に合わないと困るだろうし。明日、どんな用事だったか教えてくれるかい?」
「はい!!ありがとうございます!」
理由を聞かないけども、コーチに話しておいてくれるという用務員さんが神様に見えた。深々と頭を下げ、スマートフォンを乱暴にバッグに放り込むと、正面口から全力で駆け出していった。
「校長先生、理由聞かなくてよかったのですか?」
昇降口から慌てるように先ほど祐太が会った担任が出てきた。
「担任である秋山先生から見ても、様子がおかしいと思ったのでしたら、急がなくてはならない用事が突然できたのでしょう。私は、細野君を学校の生徒として信頼していますよ。さてさて、瀬田コーチに伝えてきましょうかね。」
校長先生は、後ろに手を組んだままゆっくりとした足取りで、グランドへと降りて行った。上下ジャージを身に着け、首からはタオルを巻いたその姿はまるで用務員のようであった。
どこにいるんだ!レオン!と声を張り上げながらと走る。とりあえずは、家に帰ろう。帰り道にいるかもしれない。電車もバスも使わずに徒歩で通える学校でよかった。ハルカが亡くなったとチャットをもらってすぐに、レオンが家出だなんて。嫌なことが続く。大通りの面している高校のため、歩道を走ると平坦で走りやすい。このまま行くと病院の駐車場に入れるので、そこから病院の裏門から出て家に帰っている。しかし、今日はそれはやめようと思う。レオンは頭が良いから、あの子なら歩道を歩くはずだ。今まで一緒にいたんだから、そのくらい分かる。では、遊歩道までの道はここの直線だから走りながら探そう。郵便局の横を通過して、バスの停留所が見えてきて、その先は病院だ。その間もレオン!と叫びながら走る。分かっていたはずなのに、見ないふりをした。最低だ!試合に出られなくなったのが確定したくらいで、レオンに八つ当たりしている。何度もチャットを通じてどうにかならないかって相談していた時も、隣を歩いていたレオンに冷たく当たったんだ。後悔ばかり募っていく。
「レオン!帰って来いよ!レオン!」
半べそかきながら、病院の駐車場の敷地側の歩道を通過する。目の前には帰宅組のクラスメイト達が歩いている。すまん、通してくれ!とかき分けるように進む。どうしたどうしたと声が聞こえるが、今は答えている時間がない。この寒い中どこに行ってしまったんだ。そこのドラッグストアを越えたら、遊歩道だ。あと少し。自慢の脚力でさらに加速した。向こうからくる自転車とぶつからないよう機敏に動く。銀杏の木が見えてきた。遊歩道の入り口だ。
「にゃあああああ!」
遊歩道に曲がって、家までの帰路でレオンを探そうと思っていたら、毛艶の良い三毛猫に叫ばれた。ああ、今は相手に出来ないからと曲がろうとすると、血が出るんじゃないかと思うほどの力で足を噛んでくる。足で振り払おうとして、下を見ると三毛猫は祐太の目を見ながら、橋の方へと引っ張っているように見えた。
「わかった!一緒に行く!行くから!」
とりあえず三毛猫の目を見て答えてみる。こちらの言っていることが分かるのか、すぐに噛むのをやめて、橋へ走りだす。ぐるっと振り返って祐太が来ていないとまたにゃああああ!と声を上げるのだ。呼ばれている。直感的にそう思い、三毛猫を追いかけた。橋を越え、パーキングエリアを越え、小汚いコンクリート製のビルの隣を曲がる。公園の入り口で三毛猫がこっちを見て一鳴きした。こちらもうんうんと懸命に頷く。三毛猫が池の中から咥えようとしている黒っぽい猫の傍でまた鳴いた。祐太の目には、咥えているものが、動物の前足に見えた。そんなことありませんように!と祈りながらも近づくと…家族が池の中に落ちていた。
前足で水をかくも前に進まない。レオンはここ最近ご飯も水も口に含むことが難しくなっていた。お母さんが強制給餌でもしない限り、本当に食べられなかった。弱っていく体で、どうしても行きたかったところがあったんだ。聡太が鍵をかけるの忘れて出かけたおかげで、ふらふらと家を出た。いつもの散歩道を今日は一人で歩く。遊歩道も一人だ。かつて祐太と走って遊んだ公園を目指して歩いた。祐太と遊ぶんだ、最後くらい一緒に。目を閉じると、小学生の祐太がサッカーボール片手に遊歩道を走っている。レオン!早く!と振り返りながら笑ってくれる。
「今行くよ、祐太。」
後足を引きずりながら、かくんと腰が落ちることもある。立ち上がるにも両足が開いていく。それでも、遊歩道の終わり、橋を目指した。橋の上で手を振って待っている祐太をこれ以上待たせたくない。その一心だった。橋にたどり着けば、いつのまにか公園の前に居る。大好きな笑顔でこっちを見ている。タイル一枚一枚を踏み、確実に進んでいく。時折手すりに体をぶつけてしまうが、こんなの痛くない。最近来たときは、パーキングエリアがあったはずだが、橋の途中から公園が見えた。これならたどり着ける。
「祐太、今日は何して遊ぼうか。」
公園の前で待っている祐太は、まだ成長途中の両手でお父さんが買いなおしてくれたサッカーボールを持ってニコニコしている。ああ、ボール遊びだね。嬉しいな。やっとの思いで公園の入り口に到着したら、祐太の姿は見えなかった。きょろきょろと探したが分からない。池の傍にボールが見えた。
「祐太、そこにいるのかい?」
汚れたゴムボールの近くまで行って体の力が入らなくなった。ああ、遊んであげられなくてごめんね…とレオンは、冷たい土の上に転がった。その後は、ゴンくんが来て、ピーくんが来て、ピーくんが呼んできた人ではなかったんだろうな、おじさんが近づいてきて、池に蹴り落とされた。抵抗することもできず、このまま溺れるんだと思ったよ。祐太、会いに来てくれたんだね…?




