そのトリなにか変だ
濃紺の夜空に浮かび上がっていた青白い月が月入に向けて沈みかけた頃に、月明かりに照らされた住宅街では、他の住宅とあまり変わらない高さの小ぶりなアパートに住んでいる住民が帰宅する時間だった。
1人の女性がカチャカチャと鍵を差し込み回す音をさせ、一見軽そうに見えるアルミの扉を渾身の力を込めて開け、部屋に入る。暗い。女性は、振り返ることなく左斜め後ろの壁に左手を伸ばし、スイッチを押し込む。瞬間、部屋の照明が点灯し、女性の目に最初に映りこんだ物は、デスクの上で紙の山をかきわけるように置かれた小さな鳥かごだ。目を見開き、側面の色が剥げ始めたスニーカーを勢いよく脱ぎ捨て、肩までの黒髪を乱しながら鳥かごを全力で抱きしめた。研修や勉強会の資料の束がバラバラと足元に落ちる。
「ぴいいちゃあああん!!ただいまああ!」
彼女の大声と、華奢な両腕の力でガタンガタンと鳥かごが揺れる。ピィィィッ!?と鳥かごの住民は声を上げる。
「ピーちゃん聞いてよおお!入院中のマダム達がねえ!鳥なんてすぐ居なくなるんだから、良い男見つけなさい!私が紹介してあげるわよ!って言ってきたの!」
彼女は激情に身を任せ、鳥かごを揺さぶる。その度に、かごの中の小鳥は羽をばたつかせ、落とされないように叩きつけられないように止まり木にしっかりつかまり、耐えている。
「ピーちゃんより良い男がいるわけないのにいい!」
ハァハァと息を切らせながら、溜めていた事をひと通り言い終わった彼女は、揺らす手を止め、鳥かごの中を覗き込む。そこには先程まで揺らされているのを耐え忍んでいたとは思えないほど、愛らしくおすまししている小型の鳥、セキセイインコがとまり木にちょこんとつかまっていた。その姿に飼い主である彼女の息が漏れた。
「このチャーミングな黄色いお顔…色はなんだっけ、オパーリンだっけ?この存在全てが可愛い!」
ピーちゃんは、相槌を打つようにピィピィと可愛らしく鳴く。
「ふふふ…そうだよねー、ピーちゃん分かってくれるのね。あ、そろそろご飯にしようか。」
鼻歌交じりに、鳥かごの扉を止めている洗濯クリップを右手で取り外して扉を引き上げ、クリップで閉まらないように止めた。それと同時に、リズミカルな足取りでピーちゃんがぽーんと飛び出し、彼女のクリップを止めた人差し指につかまる。ピーちゃんはそのまま振り落とされることなく、冷蔵庫から取り出し、レンジで温めるくらいの簡単な食事ではあるが、彼女の支度が終わるまで大人しく止まっていた。
時計の針が天井を指している。寝支度を済ませた彼女は、鳥かごの開いている扉を指でトントンと叩く。デスクの隅にある卓上カレンダーをペーパーカッターのように切って遊んでいたピーちゃんだが、その音が聞こえたら一目散に鳥かごへ飛んで入っていった。彼女は、しっかり入ったことを確認し、カタンと扉を閉じ、クリップを止めた。
「本当に賢いね!大好きよ!」
頬が緩む彼女に応えるように、ピィ!とひと鳴きして片足畳んで、背中に顔を埋める。その姿にふふっと声を漏らしながら、鳥かごの上から黄色のドット模様の布をかけてあげる。
「ピーちゃんおやすみ。また明日ね。」
部屋の出入口の照明のスイッチをオフにし、ベッドに潜り込んだ。
窓に映る空が明るみ始めた頃、ベッドの上の彼女は枕をぬらし、額から大粒の汗を流し、呼吸が早くなる。その異変に気がついたのか気がついてないのか分からないが、布に覆われた鳥かごがカタカタと音を鳴らす。コロンと洗濯クリップがデスクに落ち、キィと扉が開く音。布の切れ目から、山吹のくちばし、青紫の鼻、黄色い頭の順に見えてくる。彼女がオパーリンと言っていたボディは、腹部背部と綺麗な空色である。小さな翼を羽ばたかせ、彼女の枕の近くに降り立つ。枕より下に落ちている黒い髪を絡まらぬよう、慎重に小さな足を動かし、一山越えた先にある、汗ばんでいる頬にすり寄る。ピトッと右横腹をくっつけ、ゆっくり目蓋を閉じた。しばらくすると、彼女の呼吸が穏やかになり、徐々に涙も乾いていった。徐々に日も登り始め、スマートフォンのアラーム機能が音を奏で始める。彼女に寄り添う小さな生き物は、カッと目を開き、猛スピードで鳥かごの布をくぐり、カタンカタンと扉を開閉する音を立てた。彼女はスヌーズ機能で数回繰り返したアラームを止め、ボサボサの寝起きの頭で起き上がり、ベッドから降りて、支度のために動き始める。起きて早々に洗濯クリップを踏み飛び上がるそんな1日は始まった。