第89話.四度目の勝負
図書館近くの四阿にて。
ブリジットとユーリはいつものように向かい合って座っていた。
階段下の小川の近くでは、人の形を取ったブルーとぴーちゃんが追いかけっこをしている。
「ぴー、おまえほんとに足遅いな!」
『ぴ!? ぴぴー!』
「なんだ? 怒ったのか? あははは!」
『ぴぎゃー!』
炎の鳥フェニックスと、氷の狼フェンリルという、わりと相容れなさそうな精霊同士だが戯れる姿は楽しそうだ。
そんな凸凹な二匹を視界の端っこに望みつつ、ブリジットはユーリに確認を取っていた。
「では、再来週から始まる筆記試験が四度目の勝負ですわね」
「そうだな」
今までも、ブリジットはユーリと三度競い合ってきた。
二人の間で行われる勝負は、"負けたほうは、勝ったほうの言うことをなんでもひとつ聞く"という条件だけが設けられたシンプルなものだ。
今までの結果、一度目は引き分け。二度目はユーリの勝利。
三度目も引き分けと……今のところユーリ相手に、勝利を収めることはできていない。
才能に溢れた天才だと、周囲から敬遠されがちなユーリ。
しかし彼のことを知った今は、ブリジットには分かっている。
ユーリは確かに天才かもしれないが、それだけで成功しているわけではない。
その名前がいつも試験結果の頂上に輝くのは、彼がそれに見合った努力をし続けているからだ。
いつでも涼しげな顔をしているから誤解する人が居るだけで、本当のユーリは恐ろしいほどの努力家なのだ。
(だからこそ純粋な筆記試験で、ユーリ様に勝てる気がしないんだけど……)
萎れそうになって、はっとするブリジット。
(って――始まる前から弱気になってどうするの、私!)
気持ちの時点で負けていては、勝てるものも勝てないではないか。
やる気を奮起させるため、ユーリにばれないようテーブルの下でぎゅーっと両手の拳を握る。
今回の筆記試験では、科目は三科目に絞られる。
精霊と特に深く関わる魔法基礎学、魔法応用学、精霊学の三科目のみだ。
最近の時間割では、人理学や歴史学の授業は大幅に減り、その分の時間がこれらの科目に当てられている。
それを思うたび、あと半年で自分たちは卒業するのだとブリジットは思い知らされる心地になっていた。
「もうすぐ、卒業ですわねぇ……」
しみじみ呟くと、ユーリが胡散臭そうな顔を持ち上げる。
「あと半年あるだろう」
それはそうなのだが。
(学院を卒業したら、私は……)
家を出て、精霊博士になる。
そう目標を抱いていたが、恐らくブリジットにはそんな猶予は残されていない。
本邸に戻るよう、父であるデアーグは一方的に告げた。
彼の意に沿わぬ答えを返せば、その時点でブリジットは別邸を追いだされるだろう。
つまり卒業を待たずして、家を失うということだ。
考えだすと陰鬱な気分が止まらない。
自室に居るときならマフラーを編むのに集中できるのだが、残念ながらここは別邸ではないし、そもそも目の前にマフラーを贈りたい相手が居るのである。
「父親と何かあったのか?」
すると、急にユーリにそう訊かれた。
驚いて彼の顔を見る。
「どうして……」
「神殿に向かう馬車で、父親の話をしていただろう」
昔の夢を見た、とブリジットが話したから、それを気にしてくれていたらしい。
些細なことが嬉しくて、息が詰まる。
何度か口を開き、閉じてから、小さな声でブリジットは伝えた。
「本邸に戻ってくるように、父に言われました」
ユーリが目を見張る。
本当は、話すべきではないと思っていた。
今までもユーリにはしょっちゅう身の上話をしてしまったが、今回の件は完全にメイデル伯爵家内部の問題なのだ。
巻き込むのは気が引ける。それでもユーリを前にするときだけ、素直に気持ちを吐露できるのも事実だった。
誰にも打ち明けられない弱々しい本音でも、ユーリは静かに耳を傾けてくれるから。
「わたくし……自分がどうしたいのか分かりません。帰りたい家なのか、二度と戻りたくない場所なのか、それすらよく分からない」
「…………」
「お父様に会ったとき、身体が竦みました。あの声を聞くだけで、全身が震えて……怖くて、仕方なかった」
ブリジットはさらにきつく両手を膝の上で握り込む。
父によって刻まれた左手の火傷痕は、ぴーちゃんが消してくれた。
それでもあの雨の日に味わった痛みや恐ろしさは、この身を苛み続けるのだろうか。
これから先もずっと。
「それなのに――うふふ。おかしいですわよね? わたくし、ほんの少しだけ嬉しかったんです」
知らず俯けていた顔に、ブリジットは笑みを浮かべる。
たぶん頼りなく歪んだそれは、笑みと呼べる代物ではなかったけれど。
「五歳の頃は、父にそう言ってほしかった。戻ってこいって迎えに来てほしかった。母にも抱きしめてほしかった。全部、悪い夢だったらいいのにって……」
火傷の後遺症に苦しみながら、小さな別邸に押し込まれて。
そこが自分の家なのだと、与えられた罰なのだと知りながらも、心の奥底では期待していた。両親のことを待ち続けていた。
しかしいつまでも迎えは来なかった。
父は遠い親類から、優秀な少年を後継として引き取ったと聞いた。ブリジットはとうの昔に用済みだったのだ。
「馬鹿馬鹿しい話だと分かっているんです。父は、ぴーちゃんの契約者としてわたくしを見ているだけですものね」
ユーリが席を立った。
ブリジットは弾かれたように顔を上げる。
突き放された子どものような顔で、ブリジットは見てしまったのかもしれない。
ユーリはゆっくりと目を細めると、テーブルの横を回って近づいてきた。
ブリジットのすぐ隣に座り直すと、大きな手がブリジットの左手を包み込んでくれる。
「馬鹿馬鹿しいものか」
大切な壊れ物を扱うように、慎重に握ってくれる。
強く握ったままの拳を優しく解すように、ユーリがぽんぽんと手の甲を軽く叩く。
「……今も、震えているから」
どこか言い訳めいた口調で、ぽつりとユーリが言う。
その言葉に、両手から力が抜けた。
爪の切っ先が皮膚を裂いたのか、手のひらが熱い。でもユーリの冷たい手の温度を感じていると、その小さな痛みさえ忘れていられた。
拳の形を解けば、ユーリの指がするりと指の合間に這入り込んでくる。
(ふぎゃっ)
声が漏れそうになるのをどうにか堪える。
最近のユーリは、なんだか妙に手に触れてくる気がするのだ。しかもなぜかブリジットの左手ばかりに。
傷がないのを確かめるように、何度も何度も、確かめるように触れる。
(深い意味はないのかもしれないけど!)
そのたび呆気なく蚤の心臓が止まりそうになっているのだと、彼はちっとも分かっていないのだと思う。
「ユーリ様!」
「なんだ?」
名前を呼ぶのに、素知らぬ顔で返されては文句もうまく言えない。
ぐぬぬ、と内心唸りつつもブリジットは黙った。ユーリも口を閉じる。
ブルーとぴーちゃんが遊ぶ声だけが、風に乗ってきこえてくる。
そうしていると、強い実感がブリジットの胸を訪れた。
(この手の、感触……)
やはり覚えている。
十一年前、デアーグによって暖炉に手を入れられたあのとき。
投げだした右手を掴んでいた感触と同じだと、そう気がついたのはずいぶんと前のことだ。
今まではなんとなく聞きそびれてしまっていた。
だけど、この優しい手のことを自分は知っているのだと――伝えたい一心で、ブリジットは口を開き直した。
「ねぇ、ユーリ様」
黄色がかった瞳が、ブリジットを見つめる。
緊張に唾を呑みながら、震える声で問おうとした。
「あなたは、十一年前のあのとき……」
「どわーっ!」
ばっしゃん、と大きな水音と、幼い叫び声が聞こえた。
そこに『ぴっ!?』とぴーちゃんの悲鳴が重なっている。
どうやらブルーが川に落ちてしまったらしい。
弾かれたように手を離したユーリが、四阿を出て階段を下りていった。
その後ろ姿を、呆然としてブリジットは見送る。そうするしかできなかった。
「何をやっているんだ、お前は……」
「あ、ますたー! どうしたの? いっしょに水浴びする?」
小川のほうから、ユーリとブルーの話し声がする。
それをぼんやりと聞きつつ、ブリジットは思う。
以前から薄々、そんな気はしていたけれど。
(ユーリ様は、もしかして……)
彼は、十一年前の話をしたくないのかもしれない――と。