第47話.炎の克服
翌日。
ブリジットの自室には、彼女自身と侍女のシエンナ、ブルーの姿があった。
昨夜は、シエンナに布で身体を拭ってもらい、侍女部屋で一緒に眠ったらしい。
六、七歳に見える幼い子どもは、使用人のカーシンが子どもの頃着ていたというお下がりの服を着ている。
着ていた高貴が滲むような衣装については、侍女たちが鋭意洗濯中である。今頃は裏庭に干されていることだろう。
本人はあまり服装に頓着はないのか、今はベッドに腰掛けて足元をぷらぷらさせていた。
結局、ブルーの性別については分からずじまいなのだが、シエンナが何も言ってこないのでブリジットも気にしないことにしている。
ちなみに早朝、使用人に頼んでオーレアリス家に文を届けてもらった。
もちろん、ブルーの家出の件について相談するためだ。家人は心配しているだろうが、ブルーにも考える時間が必要だろうと、しばらくはこちらで責任を持って預かることを記してある。
「それでブルー。昨日、あなたが言っていたことだけど……」
ブリジットが切り出すと、小さな客人は厳かに頷いてみせた。
未だ、ブリジットの契約精霊が呼び掛けに応じたことはない。
その原因が分かると、ブルーは言った。子どもの言うことではあるが、わらにも縋るような思いで話を聞いてみるつもりだった。
足の動きを止めると、ブルーは睨むようにして椅子に座るブリジットを見る。
「おまえの家は、炎魔法がとくいだな」
「ええ」
間違いないので頷く。
ブリジットの生家――メイデル伯爵家は、古くより"炎の一族"として栄え、国王の覚えめでたい一家である。
炎・風・水・土・花・雷・氷・光・闇の九つの系統。
厳密には、その枠に収まらないとされる稀少な魔法もあるそうだが、大まかには系統魔法はこの九つに限定される。
そして中でも、基本とされる四大系統である炎・風・水・土については、炎のメイデルと水のオーレアリスを始めとし、得意とする家系があるのだ。
「ブルーは、わたくしの精霊がどうして出てきてくれないか分かるの?」
「うん。わかる」
ブルーははっきりと断言した。
「精霊が出てこないのは、契約者のおまえが炎をこわがってるからだ」
「!」
ブリジットは静かに息を呑む。
(私が、怖がっているから?)
炎を恐れている自覚はある。
ブリジットにとって炎とは、自らの腕を焼き焦がした恐怖の対象で、父親自身でもあるからだ。
今までずっと火を遠ざけて暮らしてきたのは、それが原因だった。
今でさえ――頭の片隅で思い返すだけで、恐怖のあまり身体に震えが走る。
無意識に右手で左腕を押さえつけるブリジットのことを、眉を下げてブルーが見遣る。
「ボクだって、その理由はちゃんとわかってるけど」
「……?」
その言い回しは、少し不思議だった。
ブリジットの身に降りかかった出来事を、よく知っているかのような言い方だったからだ。
「……だけどそのままじゃ、精霊がカワイソウだ」
ボクはそれが許せないんだ、とブルーは小声で付け加える。
それでブリジットには分かった。
ずっと不思議だったのだ。ブリジットを嫌っている様子のブルーが、この家についてきたことが。
答えは簡単だった。ブルーが気に掛けているのはブリジットではない。
この子は、ブリジットの契約精霊のことを慮っているのだ。
(そういえば昨日ユーリ様の家に行ったのは、彼の精霊に呼ばれたからだった……)
改めてブルーをじっと観察してみる。
人の形を取る精霊自体はそう珍しくはない。
それに、これでも精霊のエキスパートたる精霊博士を目指す身である。
見抜けるはず、と鋭い眼光をしていたら、睨まれていると勘違いしたのかブルーが仰け反る。
「な、なんだよ?」
「……えっと、わたくしが炎への恐怖心を克服すれば、精霊は出てきてくれるってことよね?」
誤魔化しつつ話をまとめてみると、ブルーが満足げに「そういうことだ」と言う。
しかしそこで待ったを掛けたのは、それまで控えていたシエンナだった。
「お待ちください。それはブリジットお嬢様の侍女として賛同しかねます」
「シエンナ?」
「炎を克服するということは、至近距離で炎を見たり、取り扱ったりするということですよね。そんな危険な真似はさせられません」
シエンナの言うことは尤もではある。
過去にブリジットは、近くで火を見ただけで怯えて気を失ったこともあった。
専属侍女として、主の身の危険を危惧するのは当然のことで……それ以上に、シエンナがブリジットの精神を気遣ってくれていることがよく分かって。
その上でブリジットは首を横に振る。
「いいえ、シエンナ。わたくしも、いずれ向き合わなければと思っていたの」
「お嬢様……」
精霊博士とは、精霊と人間の架け橋になる存在である。
それぞれの種族から相談事を持ちかけられれば、それに応じて問題を解決することも求められる。
そのとき、四大系統のうちのひとつを嫌い、関わることができない精霊博士なんて、いったいなんの役に立つだろう。
(それにわたくしのせいで、契約精霊がずっと出てこられないなんて……)
ブルーはカワイソウだ、と言った。
ブリジットだってそう思う。それに、ずっとこのままで居るのはいやだ。
それに契約精霊は、ブリジットが炎を嫌っていると知りながらも【エアリアル】の暴走を食い止めるために力を貸してくれた。
そういう優しい精霊だ。だからやっぱり、会って直接お礼だって伝えたい。
「ではブルー。具体的には――」
「おい、お嬢ー!」
バシン! と勢いよく部屋の扉が開けられ。
そこに空気を読まず飛び込んできたのはカーシンだった。
ブリジットに負けじと赤い髪は、ツンツンとそこら中に向かって跳ねている。
今年で十七になるカーシンは、別邸の厨房係兼パティシエだ。
本来であれば、上流階級の屋敷でその二つの役割が兼業になることはあり得ないが、別邸の場合は使用人の人数が限られるため、見習いのカーシンが務めている。
確かカーシンの高祖母がメイデル伯爵家の一員で、平民の男性と駆け落ちしたそうである。
血の繋がりとしては薄いものだが、この元気な平民の少年とブリジットは仲良しで、カーシンのほうもブリジットのことを妹のように扱っている。
つまりその扱いはそれなりに雑である。
「お嬢ではありません。ブリジットお嬢様と呼ぶように」
「おー、了解了解。それでお嬢、焼き芋食う?」
何百回と繰り返されているやり取りだが、結局いつもカーシンが聞き流すので、シエンナはハァと大きな溜め息を吐いている。
「焼き芋?」
カーシンの言葉に、目をぱちくりとするブリジット。
だがブルーはすっくと立ち上がると、熱い闘志を瞳に滾らせていた。
「……それだ」
「え? 何が?」
「おいもを焼くということは、火を使うってことだろ?」
そりゃそうだ。
同時に、ブルーの言葉の意味にブリジットは気がついた。
「庭で火を熾す……ということね」
「え? 庭で芋焼くってことか?……でもお嬢、大丈夫か?」
事情を知るカーシンが心配そうな目を向けてくる。
しかしこれも、精霊と会うためだ。ブリジットは見栄を張って、力強く頷いてみせた。
「平気よ。だから準備してくれる? カーシン」
「……分かった。お嬢がそう言うなら!」
カーシンがとんぼ返りで駆け出していく。
それにスキップしながらブルーが続いた。
「おいも。おいも、おいも~」
(この子、ただ焼き芋食べたいだけなんじゃ……?)
とブリジットは思ったが、指摘したりはしない。
はしゃぐブルーがあまりに可愛らしかったのと、その笑顔が新鮮だったので。
(ユーリ様も、無邪気に笑うとこんな感じなのかしら……)
なんて言葉は、もちろん口には出さなかったのだが。