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【第五回】地の文コンテスト 〜すき焼きが食べたい〜

【すき焼きが食べたい】前夜

作者: ポポネ

 愛おしい男の元に戻る時、女は妖艶な淑女から、素朴な少女へと変わる。


 数年連絡の取っていなかった男から女へ、呼び出しの連絡が有ったのは今日の事だ。ありふれた食事の話だったが、一つ違うのは男が女の内情を知っていたところだ。誰から聞いたのかという愚問は男の前には無用だ。

 女は持ち合わせた武装を全て纏い、戦場へと向かう。


「ねえ」

 どうして呼び出したのか。女は不信感を持って訪ねようとして言葉をさえぎられる。

「どうかした? 今更怖くなった」

「かもね」

 今更ここまで来て恐怖におびえる程小心者ではない。それを見越して言っているのか、それとも相対している男がそこまで愚かだったか。じっとりと濡れた男の瞳を見る。強かに秘めたおぞましい期待を含むそれは、女の腹の中にどろりとした不快感を落とした。何かに怯え、恐怖に震えているのはこの男かもしれない。

「誰にだって、恐怖を感じる瞬間くらい、あるよ。怖いなら、やめたっていい」

 全くもって白々しい男だ。女はそう言って唾を吐きたい気分を、飛び切りの笑顔で隠した。

「でも、やらなくちゃ、ね」

「そうか」

 落胆。ため息を吐きそうな口の動きを隠す気もない。その吐息が掛かった、目の前にある御馳走がただの生ごみに見えていくる。どうせ男の奢りなのだから、女はそれを食べなくたっていい。たとえそれが国家規模の予算であれ、選択の指揮をとるのは紛れもなく女だ。

 だが、女は食べる決断をした。


 華麗に並べられたコースを突っついて食べる。どうにも慣れない白銀のカトラリー。詰まる息と食事を喉に流し込めば、味など分かりはしない。

 何故この男は何も話さないのだ。そんな静かな苛立ちだけが腹の内に溜まっていく。それだけで腹が膨れてしまいそうだ。

 女は沈黙を飲み込んで、話題を振った。

「ねえ、もし過去に戻ってやり直せるとしたら、君はどうしたい?」

「過去に……?」

 唐突な問いに男は目を丸くする。驚いたのは女が問うた内容か、女が問いを投げかけた事か。

 整然と並べられた積み木を無骨に崩していく男は、精悍な顔つきに似つかわずどこか幼稚だ。呆けた顔が一層幼さを醸し出している。右手に輝く素朴ながら洒落た指輪も、この絢爛なレストランも、男が何者かを表しているというのに。

 話を続けるのすら億劫だ。吐き戻しそうな息と、悪態の数々を無理に飲み込む。時折喉につっかえた。

 けれど、男の目がいけない。先程よりも酷い、期待の上確信を抱いた瞳をされれば、続けなければならない気さえする。男の情念が女の背を急かすよう

「そ、過去に。いろいろあるじゃん? あの時ああしといたらなあとか、そういうの」

「そだね。ボクにもいろいろある」

 そうだろうとも。目の前にいる女はまさしくその象徴だろう。

「ウチもさ、もうちょっと遊んでたらよかったなーとか、親孝行してあげればよかったなーとか」

「結構遊んでたけどね」

「それはそうだけど、もー調子狂うな。まあそんなわけで、ちょっと気になっただけ。いろいろ後悔したことはあるけど、それでも今の自分をちゃんと褒めてあげたいし」

「美香らしいな」

「はい、この話おしまい。それじゃあ」

 どうしてこんな話を今、この男の元で話しているのだろうか。ぼんやりと遠く自分を見ている何かが、振ったお前が悪いという。そう、仕方がなかったのだ。


「ボクは、ボクはすき焼きが食べたいな」

 切実な願いが篭った欲。終わった話さえ蒸し返す図々しさは、最早賞賛に値する。呆れるも一興。怒るも一興。女はこの男の愚かさにどこか享楽すら見出せた。

「ん、どうかした? というかなしてすき焼き?」

「いや、過去に戻って何がしたいかって。ボクはすき焼きが食べたい。君と一緒にハフハフ言いながらすき焼きが食べたいなって。脂がのった肉をとろっとろの卵に絡めて食べるの。とってもあまじょっぱくておいしいのを、一緒に食べておいしいねっていうんだ」

「……いいね、それ」

 男の離す言葉にマッチを擦れば、枯れ果てた食欲がジワリと滲みだしてきた。雪の降る冬に家族と食べたすき焼きを思い出す。確かに美味しかった。口の中で溶けていく肉が、卵の風味を残して消える。それこそ眼前の馳走より断然。

 男を盗み見れば、スッと口元を拭う男がいる。卑しい奴め。対して違いないのに、男を嘲笑うのは女の性か。

「デザートはゆずと抹茶のアイス。口の中ちょっとやけどしたところにしみるんだ。そして、そしてさ」

「うん、うん。わかるよ、それ」

  熱には氷、塩には甘味。それは間違いなく甘美な味わいがするだろう。


「そんなこと、してみたかったなあ」

 どういう反応を返せと言うのだ。女は未練たらしく伸ばされたその手に、一本の蜘蛛の糸を垂らす事は出来ない。そも、したいとも思いはしない。この男はただ無様に来もしないバスを待ち続けるのだ。憐れ。彼の零れゆく努力に大粒の涙を。心底笑って返してやろう。

「……なんかごめんね、あとありがと。そう言ってくれて」

 噛み殺した笑いを、涙交じりと勘違いしてほしい。なんて馬鹿な男と生涯を歩もうなどと思った日があったのだろう。女は知らなかったのだ。箱庭の世界に一人生きていた、一つ手を差し伸べたのがあの男であっただけだ。

 男は予想通り、女としては期待通り、その歪な顔を郷愁とでも勘違いしたのだろう。

「美香!」

 悲劇のヒロイン気取りはどちらだろうか。目じりに溜めた涙に酔った男ほど面倒臭いことは無い。


 すき焼きの話をされてしまっては、折角の食事も台無しだ。結局、決断を覆されたと言う屈辱だけが残る。何か意趣返しでもしてやりたい。この男が悪いのだ。

「あはは、そんじゃあねー。さよなら」

 ひらりと右手を振って、踵をかえす。右手に光るものに、もう一度男は目を大きく見開く。その後、男は何を見たのか敵を睨みつけるようじっと顔を顰めた。その表情が見たかった。女は両手をあげて喜んだ。

 一人で泣けば良いのだ。皆に諫められる程に惨めたらしく、捕まえられなかった青い鳥を嘆けばいい。


 ああ、清々した。引くことのできる後ろ髪はもう切ってしまったのだ。あの男の手には何も残るまい。硝子の靴はもう脱げやしないのだ。男のいるであろう遠い窓を見上げて、うっそりと笑う。男の泣き声が聞こえてきた。

 項にかかる風が妙に生暖かく、春を感じさせる。街路に飢えられた桜は八分咲き。明日には満開になっている事だろう。

 右手に差していた指輪を引き抜き左手に嵌めなおす。ちらりと見た腕時計の日付は変っていた。よくぞここまで時間を共にできたものだ。女は自らを褒めたたえる。

 終電は既に終わっており、途方もない帰路を思いげんなりする。ぼんやりと空を見上げた後、女は不意に携帯を取りだした。そのまま、色付いた爪で電話を掛ける。

 相手はまだ起きているだろうか。女はそう思いながら、それでも起きているという確信を持っていた。それは確信というより、相手に向けた無償の信頼であった。相手は間違いなく、今か今かと忠犬のごとく女を待っている。求められるとは悪くないものだ。女はどこか自慢げに微笑んだ。


 結局、数コール後に電話は掛かった。そのまま、女は迎えを寄こして欲しいと頼み、無愛想に妖艶さの欠片もなく切った。それでいいのだ。相手にはそれぐらの暴挙は許される。

 春とはいえ、まだ夜はそこそこに冷える。このまま外にいれば、足元から冷えが巡ってくるだろう。風邪などひけば目も当てられない。


 だって、明日は結婚式なのだから。

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