第6話「人間の身体とは、かくも動きづらいものだったのか」
ガオソンの中心部より海にほど近い山間に、ジースーはいた。空から姿は確認できないが、鳥や獣すら敵だと思って殺しまわっているのだろうか、木々がそこかしこで大きく揺れて、葉の擦れる音を響かせる。そして、キイ、なのかギイイなのか、形容しがたい獣の咆哮が耳をつんざいた後、一瞬の静寂。そしてまた葉擦れの音と、獣の咆哮。短い時間でこれを繰り返している。
少し離れた場所に降りると、木の根元に鮮やかな色のはらわたを覗かせ横たわる猪の姿があった。まだ温かい血が地面を濡らしている。先ほど殺されたばかりなのだろう。かまいたちにでもあったかのように全身が切り刻まれている。刃傷だろうか。喉元を切断されており、もはや絶命しているのがせめてもの救いだ。なるべく苦しまずに逝けたのならば良いけれど。
視線の前方。木に遮られて見えない深い影の奥に、ジースーはいるのだろう。遠くで絶えず、木の葉の音がする。ルーダオのように瘴気を振りまいているわけではなさそうだが、もはやこの山全体がジースーの領域になってしまっているようで、ジースーがどこにいるのか、霊力ではわからなくなってしまっている。葉擦れの音だけが頼りなのだが、右に行ったり左に行ったり、かなり忙しない。身が軽いというシュイロンの言葉は間違いないのだろう。もしこちらがまだジースーの居場所を特定できていない状態で向こうに発見されてしまったら、即接近されて、それと気づかないまま殺されてしまう可能性だってある。
お互いを、どちらが先に見つけるか、それがかなり重要だ。
シュイロンは呼吸の音ですら気を使った。
この山はジースーの庭みたいなものだ。出現するたびにここを舞台に戦っているのだから、どこに何があって、どこに何が「ない」のかも覚えているはずだ。こんな山奥で、あるはずのない人の呼吸音を聞けば、山にいる野生動物なんかには見向きもせず、まっすぐにこちらに飛んでくることだろう。できれば心臓の音だって今は控えてほしいけれど、生きている以上それは仕方がない。なるべく高鳴らないように、静かに移動するしかない。
それだというのに、フーレンにはやはり緊張感がないようだ。頭の中でごちゃごちゃとうるさい。
(なあシュイロン、あのさ。気のせいかもしれないんだけど)
(なんだうるさい黙っていろ。今ジースーに集中している)
(いや、わかるんだ。わかるんだけど……何か、声が聞こえないか)
シュイロンは耳を澄ました。相変わらずガサガサという葉擦れの音は邪魔なほど耳に入ってくるのに、他の音は聞こえてこない。
(声なんて、何も)
短く不機嫌にそう答える。と、いうのにフーレンは諦めない。
(ええ? 山に近づいたころからずっと聞こえてるんだけど)
(……お前の、災厄の声を声として捉えられない狂った耳に?)
(だから、気のせいかもしれないって前置きしただろ、ちゃんと……)
もう一度、フーレンは声に意識を集中した。
やはり、聞こえる。静寂の中でないと聞き逃してしまいそうな小さな声だ。あまりにか細くて、何と言っているのかは全くわからない。けれどそれは決して、楽しそうな声色でないことだけはわかる。だからと言って怒っているわけでもなさそうだ。
では、何を。この声は自分に何を伝えようとしているのだろうか。
一方のシュイロンは、苛立ちを募らせていた。
確かに災厄との戦いの間、器にできることなど何一つない。むしろ邪魔をして来ない分、今のフーレンは扱いやすい。言葉通り「器」。自分の意思を挟むことなく、体を自分に貸している。
全幅の信頼を置いているといえば聞こえはいいが、明らかに戦いに集中していない。こいつは本当に、俺が失敗すれば自分が死ぬということを理解しているのだろうか。怯えてぎゃあぎゃあ騒がれるのもシャクだが、こうものほほんとされると自分一人ピリピリしているのが阿呆らしくなる。
葉擦れの音が止まった。
急に背筋からうなじに向かって、冷たくぴりと痛みが走る。
「くっ!」
シュイロンは急いで金色の槍を出現させると、背後から自分に向かって一直線に飛んできた何かを打ち返した。
つもりだった。
「くそ!」
槍を握っていた右手がしびれる。
槍が折れたわけではない。槍は美しい弧を描いて中空を飛び、音もなく木の幹に突き刺さった。その後、ふわと光を放ち消える。
霊力で負けたわけではない。相手が投げつけてきた黒色の剣は金色の槍を前に跡形もなく消え去っていた。
だが、腕力で負けた。槍が飛んだのはそのせいだ。右手首を傷めてしまったのか、痺れて震えている。奇襲だったとはいえ、力の競り合いでは、完全に負けた。
「人間の身体とは、かくも動きづらいものだったのか……!」
赤くなっている右の手のひらを見ながら、一人ごちる。
二十年以上も器に憑依をせずに一人で戦ってきた。完全に、人の身体の運動能力というものを忘れてしまっている。
本当なら剣を打ち返し、投げてきた方向に向かって一足に飛ぶつもりだったのだ。そのまま相手を捕捉し、一思いに殺してやる、そう思っていた。だが一度間が空いてしまえば、同じ場所にとどまっているとは考えづらい。やつは場所を変えつつも木々の隙間からこちらを見張り、隙ができるのを虎視眈々と狙っているのだろう。戦いの上手い奴はこれだから面倒だ、と歯噛みする。
ジースーは剣を五本持っている。投げつけてきた一本は跡形もなく砕け散ったのだから、残りはあと四本。それをすべて叩き壊してさえしまえば、やつに攻撃する手段はなくなる。そうなれば、とっ捕まえて刺すだけだ。
けれどやつも馬鹿ではない。すべての剣を投げつけてくるとは考えづらい。残りの二本になったときに、接近戦に切り替えてくるだろう。
そうなると、器に憑依したまま倒すというのが格段に難しくなる。力では負けてしまうというのが証明されてしまった。憑依を解いて一人で倒すということを、念頭に置いておかなければ。
いや、それも駄目だ。すぐに思い直す。
奴は根っからの狩人だ。憑依をといたフーレンなど、ジースーにとっては格好のカモだろう。自分より先にそちらを狙ってくるに違いない。守り切れれば良いけれど、もし間に合わなければ、細い首など易々と刈り取られてしまう。
憑依を解くことも無しだ。やはり残り二本までになんとか相手の居場所を掴み、倒してしまわなければ。
シュイロンはもう一度槍を出現させ、腰を落とした。目だけを動かし、いつどこからジースーの攻撃が来てもいいように、備える。先ほどまでは、うるさいほどに葉の音を、自分が移動する痕跡をまざまざと晒していたというのに、狙いを定めたとたん、それを巧妙に隠し始めた。今は何となくの気配を感じるだけで、どの方角にいるかさえ、音からは掴めそうもない。相手は本気で、こちらを狩る気でいる。
一手誤れば、器が死ぬ。
なんだか妙に、汗をかいている。冷たい汗が一筋、背骨の上を首から腰へと落ちていき、ぞくりと身震いした。




