血の繋がらない家族
羽田空港発、大阪(伊丹)空港行き823便は右手に富士山を望む位置を順調に飛行していた。左手には太平洋の青さが眩しいほどに広がっている。進行方向の左側に座席を取っていた久本医師は海の向こうに広がる、これからの希望に満ちた未来に希望を膨らませていた。
「カズ兄ちゃん、元気にしてるかな?」久本医師はぼっそりと呟いた。
「すみません!お客様の中に医療関係者の方は居られませんか?」突然のキャビンアテンダントの発言で機内は騒然とした。
「私は救命救急の医師です!」キャビンアテンダントの言葉を受け、久本医師は名乗り出た。
「こちらです。お願いします」キャビンアテンダントの案内により久本医師が座る座席から後ろに18席、真ん中の右側通路沿いに患者は座っていた。通路沿いと言うのは有り難い。乗客を座席に座らせたまま診る事が出来るからだ。
「大丈夫ですか?少し前を開けますね」久本医師は男性の胸のボタンを外して聴診器を充てがった。
「(隙間音?喘息?)すみません!もしかして喘息の持病をお持ちですか?」額から脂汗を滲ませて、苦しそうにしている男性は何とか首を縦に振った。
「(それなら吸引器とステロイド剤があるはず)ちょっとお手持ちのカバン見せてもらいますね?」久本医師は男性の前座席の背もたれに備え付けられたポケットに入っている男性のポーチと思われる中身を見た。
「(あった!ステロイド剤をこの容器に入れて…っと)ちょっと失礼しますね」久本医師は吸引器の先を男性の口に充てがい容器のボタンを押した。すると男性は先ほどまでの苦しみが嘘のように落ち着きを取り戻し、やがて自分で吸引器を持てるまでに回復した。
「あ…ありがとうございました」キャビンアテンダントが礼を言うと、機内から僅かな歓声が上がった。
「医師として当然の事をしたまでです。私は苦しんでいる人を救う為に医師になったので…」久本医師は一例すると座席に戻った。
「今ごろ今年になってやっと建てたって言うお兄ちゃんのお墓かな?」久本医師は男性を救う前よりも遠い視線を窓の外に向けた。
ここ大阪の高井田と言う下町にある妙法院と言う寺院に併設する墓地。一人の中年男がもう40分もの間、手を合わせて祈り続けていた。季節は初秋と言う事もあり、男の手足を藪蚊が数十箇所も食っていた。にも関わらず男はお構いなしに祈り続けていた。
「カズ兄ちゃん!ただいま!」男は声のする方をゆっくりと向いた。
「おぉ、おかえり真希」男のかけている眼鏡の奥が優しく光った。
「もう13回忌か?早いね、カズ兄ちゃん」久本 真希は男を押し退けるようにして墓前に立ち、手を合わせた。
「ただいま、俊介兄ちゃん。この九月から大阪やで」真希は穏やかな表情ながらも閉じた瞳から微かに光るものを滲み出させていた。
「真希?これ肉ジャガやけど食べて行こか?」男はやっと痒みに気付いたように手足を掻きながら言った。
「ンフフッ、カズ兄ちゃん相変わらずやな?」真希は八年振りの再会にも関わらず懐かしさよりも親近感の方が先んじた。
今から約二十年前、真希は初めて目の前の男・山崎 和浩と出会った。今と同様に亡き母・晴美の遺影の前で40分もの間、正座した状態で手を合わせ、帰宅した真希と実の兄・俊介に "おかえり!" と言った山崎と対面した。山崎は足を痺れさせながらも二人の子供たちに頭を下げた。それは真希の知っている、都合の良い嘘ばかりを言う大人とは違い、バカ正直そのものだった。
山崎は初めて会った二人にオムライスを拵え、それ以来三人は家族のような絆で繋がれ交流を深めてきた。
山あり谷ありの人生の中、八年前の大学進学を期に、真希は東京へと旅立った。そして六年の医大生活と二年の研修医生活を経て、兼ねてからの希望であった大阪の総合医療センターへ救命救急医として勤務する事となった。
「真希がホンマにお医者さんになるとはなぁ。俊やお母ちゃんに見せてやりたかったなぁ」山崎はお供え物に持ってきた俊介と真希の好物の肉ジャガを頬張りながら遠い目をした。
「カズ兄ちゃんらしくもない。ちゃんと見てくれてるよ」真希は空を見上げた。
「フッ、そうやなぁ。オレのオカンもオトンも皆んな見てくれてるよなぁ」可愛らしい少女だったのが、すっかり美しい大人の女性になった真希を、山崎は眩しそうに見つめた。
「なぁカズ兄ちゃん、その後健太君って言う子は、どないなったん?」山崎が五年前に知り合い、我が子同然に育ててきた三宅 健太について真希は聞いた。
「それがなぁ驚きや!あの翔平がお母ちゃんの茜さんと結婚する事になってなぁ。健太はお父ちゃんが二人も出来たって喜んどるわ。来月に式を挙げるらしいから、真希も出席したってくれるか?」山崎は真希におにぎりを手渡しながら言った。
「えっ!翔平兄ちゃんが?そうなんやー。らしいって言うたららしいけど、カズ兄ちゃんはどないなん?」真希は懐かしそうに肉ジャガを頬張った。
「オレ?そんなんすっかり忘れてもうたなぁ。さぁそろそろ帰ろか? "スマイル食堂" に」山崎は立ち上がった。
「うん!私らの家に…」真希は久しぶりの山崎の腕に縋り付くように抱きついた。
太陽が西に傾きオレンジの光を放ち始めたころ "血の繋がらない家族" を再び "一つの家族" に結ばせた事を祝うように、二人の影が一つに溶け込んで伸びていた。