決してバレてはいけない
「姫様っ!」
背後から決死の形相で侍従が迫ってくるのを横目で確認しながら、私は廊下を猛然と駆け抜けた。別の方向から回り込んできたと思しき侍女が、横道から手を伸ばす。それをひらりと避けると、私は強く床を蹴った。
「なりません! 婚姻までは、夫婦となるお二方は互いに姿を見せてはならないのです!」
「そのルールおかしくない? ちょっと覗き見するくらい良くない?」
「なりません!」
侍従と侍女が泡を食ったように叫び、二人並んで追ってくるのを眺め、私は螺旋階段の手すりに指先を乗せ、勢いを付けて階段を降り始めた。
「げっ!」
「姫様、申し訳ございません!」
階段を降りた先で、布団を縦に持った兵士たちの壁を見つける。しかしもう既に私は踏みとどまれず、階段を一気に降りた勢いそのままに、顔から布団に突っ込んだ。
「ぎゃあ!」
「捕獲いたしました!」
「でかした!」
喝采が響く。あっという間に布団を巻かれて持ち上げられ、私の必死の抵抗をものともしない兵士たちは私を抱えて容赦なく連行していった。
「──よろしいですか、姫様。姫様はもうじき人妻になるのです」
「はは、それ超ウケるよね」
「姫様、言葉遣いを改めて下さいませ」
「心から反省しておりますわ」
自室に放り込まれた後、私は侍女と侍従の二人に左右を固められ、完全にふてくされて頬杖をついていた。
「おかしくない? 姉様のときも、兄様のときも、きちんと前もって交流して仲良くなってから結婚なのに、私だけ初対面の人と結婚するのおかしくない? そう思わない?」
「いいえ。あちらのお国の風習でございますゆえ。我が国とは宗教も文化も異なるのですよ」
「ふーん……」
だったらそっちも多少譲歩しろよ……と、決して放言したりはしないけど、そんな釈然としない気持ちになる。
私の結婚相手は、北海の向こうの国から来た、ええと何だっけ……ロイオデという名前の、二つだったか三つだったか年上の青年である。まあいわゆるあれよ、大人の事情の絡んだあれって訳だ。顔は知らないし人となりもろくに分からないが、父曰く「なかなか好青年」らしいので、そこまでの不安はない。父は何で私より先に会ってるんだか。
向こうの風習とかいうやつで、私は未だ一度もロイオデの顔を見ていない。この婚姻の話がまとまったのは六年ほど前だけれど、その間一度も、だ。せめて肖像画くらい見せてもらってもいいのでは? と先方に手紙で訴えたところ、幼少期に描いたという自画像が送付された。正直言って、これが本気なのか煽りなのか、当時の私は判断に酷く苦しんだものである。結局本気だったらしいと分かって、思わず脱力してしまった。
そんなこんなで、婚姻を半年後に迎えた現在、私の住むこの宮城にはロイオデが到着していた。結婚後はこちらで生活することになるので、その準備である。
そして! 私たちは! 同じ建物で生活しているにもかかわらず! 会わない!
不可解極まりない。正気? 海を隔てていて会いに来るのが大変だっていうなら分かるけど、同じ建物で寝泊まりしているのだ。数分歩けば互いの部屋を行き来できる距離である。
しかし、西棟で生活している私と、東棟で生活しているロイオデがうっかり鉢合わせることは、建物の構造的にも、使用人たちの足止め的にも、まずないと言っていい。それがまた腹が立つのだ。
ロイオデが到着してから早一週間。なんとかしてその姿を垣間見てやると私が脱走を始めてからも一週間。思いのほかガードの堅い使用人たちに、百年の恋も冷める悪態をつくのを堪えながら、今日も私は脱走計画を練っている。
***
「えーと、『お会いできる日を楽しみにしておりますわ』……っと」
「まさかロイオデ様も、姫様がこんなに死んだ目で手紙を書いているとはご想像なさらないでしょうね」
「そうだと良いわね」
机に頬杖をつきながら、幼少の頃から叩き込まれた達筆で手紙をしたためる。直接会うのはアウトだけど、手紙はありらしい。どういう基準なんだろう。もう訳わかんないな。
「よしまあ、こんなもんでしょ。うん、素敵な美少女が書きそうな可愛いお手紙だわ」
「ご自分でおっしゃるんですね」
「その程度の取り繕いができるように教育したのはあなたたちでしょう。これ、渡しておいて頂戴」
「承知いたしました」
侍従が恭しく手紙を受け取り、内ポケットに滑り込ませる。そのまま部屋を出て行くのを見送って、私はふぅと一息ついた。
「オーティナ、そこに置いてある文鎮を取ってもらえる?」
「はい。どうぞ、姫様」
「ありがとう」
手渡された文鎮を手の上に乗せたまま、私は引き出しの中段を引いた。そこに保管された数々の手紙の束を眺め、私は僅かに頬を綻ばせた。
「ロイオデ様からのお手紙ですか?」
「……そうね」
表情を戻しながら、私は文鎮を机の上に置いた。琥珀の中に小さな虫が入っているのだ、との説明と共に貰った贈り物だったが、その虫が小さすぎて、未だに見つけられないままでいる。
光を柔らかく通す石の色を眺めながら、私は手紙の束の一番上にあるものを手に取った。こちらの言葉で流暢に紡がれた文字列を目で追い、私はこの文章を書き綴る手の持ち主のことを考えた。変な癖のない綺麗な文字。平和な内容を平易かつ分かりやすい言葉で伝える手紙をそっと親指で撫でて、私はその内の一文を反芻し、目を伏せた。
「うーん……」
侍女が部屋を出て行く気配を感じながら、私は小さく唸った。手紙には、寝る前に中庭を散歩するのが最近の日課になったと書いてある。
「これは……」
……いけるんじゃ、ないか?
***
思い立ったらすぐ行動、がモットーである。かつてそう言ったら父には「危ないからお前の王位継承権は剥奪しておこう」と言われた。最高に失礼じゃない?
夜も更けて、寝室で仁王立ちになった私は、クローゼットの中に隠し持っていた一着の服を手に取り、含み笑いした。……そう、以前上手いことちょろまかした、侍女のお仕着せである。
「完璧ね」
姿見の前で、腰に手を当てて胸を張る。侍女は沢山いるので、全員を把握している人間など存在するはずがない。堂々としていれば怪しまれないはずだ。
廊下に繋がる扉に耳をつけ、気配を探る。足音が遠ざかったのを確認し、私はそっと扉を押し開いた。顔を覗かせ、廊下に誰もいないことを確認すると、私は体を滑らせるようにして廊下へ出た。扉を閉じ、襟元を少し整え、そして私は悠然と歩き出した。
中庭とは、西棟と東棟の間に広がる庭園のことである。渡り廊下の下に位置する、比較的大きな庭園だ。渡り廊下は二階以上に存在するため、一階部分は庭園を突っ切ることになる。だからそこをうろついていても、そこまでやたらと怪しい訳ではない。
「まあね、こっそり陰から覗くだけなんだから、誰にも気づかれないし怒られもしないわよね」
我ながら、どうしてこんな娘に育ってしまったんだろうと思うけれど、まあここまで来たら仕方ないと思うのよね。当然のような顔で廊下を闊歩していると、時々行き交う使用人たちも一切気づかないようで、誰にも見とがめられることなく中庭へ繋がる扉の前まで到達することができた。
まだ春先、夜ともなれば多少は肌寒い。扉を開け放ち、小さく身震いしてから、私は中庭へ足を踏み入れた。
花盛りはもう少し先だろうか。夜露に手を濡らしながら、私は泳ぐように庭園の奥へ進んでいった。明かりは建物から漏れる光のみで、他に頼りになりそうなものもない。月明かりでは私の足下を照らすには少し心許なかった。
柔らかい黒土を踏みしめ、私は周囲の気配を探った。こんなことなら明かりを持ってくればよかったな、と自分の短慮を後悔する。
時折緩く吹き下ろす風に鳥肌を立てながら、私はふと立ち止まり、ため息をついた。
「見つからないわね……」
そう呟いて、肩を落とした直後、背後で声がした。
「誰が?」
「っギャアアアアアアアアア!」
侍女か侍従あたりが聞いたら目を剥いて叱りつけてきそうな、品性の欠片もない絶叫を響かせ、私はその場で身を竦ませ飛び上がった。声の主も驚いたようで、「わっ、」と一歩下がる。
私は弾かれたように振り返り、背後にいた声の主に向き直った。声の主は私を落ち着かせようとするように、穏やかな調子で声をかけてくる。
「大丈夫?」
「申し訳ございません、私しがない侍女でございますのでこの辺りでお暇させて頂きたく」
目を白黒させながら早口でそう述べるが、声の主は「まぁまぁ」とこちらに手の平を見せてくる。
「どうしたの、迷った? とはいえ僕もあまり道には詳しくないんだけれど……」
「え、あ、う……」
使用人だと思われているからだろう。膝に手をついて身を屈めながら、背の高い青年は柔らかい口調で表情を緩める。
「……いえ、迷った訳ではございません」
慌てて首を横に振りながら、私は内心まずいと顔を引き攣らせていた。こっそり姿を確認するだけで良いのに、まさか遭遇してしまうとは。
「そっか、良かった」
青年は手にランタンを持っており、その表情はよく見える。眦を下げて笑ったその顔は、この国の一般的な顔立ちとは違う。何か、こう……。濃いめの顔が多いこちらの国に比べると、繊細な感じの顔である。
「あの、……ロイオデ様、でいらっしゃいますか?」
念の為確認しておく。
「……うん」と青年は頷き、姿勢を戻した。うわ、やっぱり……。
これは何が何でも、私の正体を隠し通さねばならない。
ロイオデは片手を腰に当てて、多少の呆れを含んだ調子で言った。
「僕が言うのも何だけど、どうしてこんな時間にこんな場所に?」
「えー……と」
私は思わず目を逸らしながら、腰に手を当てる。それからそのポーズがあまり礼節に則ったものではないことに気づいて、手を腹の前で組んだ。
「明日のお花を取りに来ました」
まあ庭園だしこんなもんだろ、とその場ででっち上げた言い訳に、ロイオデは眉をひそめた。
「君の上司は、こんな夜更けに女の子を外に出させるような人なの?」
「いえい」
否定しようと思ったら口が回らず、妙に陽気になってしまったが、今はそんなことはどうでもいいのだ。私は答えに窮して顔を引き攣らせる。
「どこに所属している侍女さんなのかな?」
「おおっと……。ええとですね、クノア様付です」
私である。これならもし何か言われても辻褄が合うように小細工できるだろうとの判断だった。
ロイオデが難しい顔をする。これはまずい。自分で自分に悪印象を与えるのは本意ではなかった。私は慌てて首を横に振り、何とか取り繕おうと口を開く。
「いえ、命じられた訳ではなくてですね、えーと、明日の朝、クノア様のお部屋に素敵な花をお届けできるようにと私が自主的に行っていることでして……」
嘘である。私にそんな忠心を持っている侍女はまずいないだろう。別に嫌われてもいないだろうけど。
ロイオデは目を瞬き、「本当に?」と驚いたように呟いた。
「とても慕っているんだね」
顎に手を当ててそう言うので、大嘘をついて申し訳なくなる。
「君の名前は?」
「オーティナです」
自分付きの侍女の名を淀みなく答え、私は一礼する。顔を上げてから、そのまままじまじとロイオデを見つめた。
浅黒い肌の私とは異なり、透けそうに白い頬に、僅かに血の色が滲む様が妙に繊細で、思わず目を奪われてしまった。彼は私より余程小綺麗な顔をしていた。腹が立つ。
じっと見上げてくる私の視線を受けて、ロイオデは居心地悪そうに首の後ろに手を当てた。
「……クノア様って、どんな人?」
「うっ!」
自分のことを訊かれる、という苦しい状況に、私は思わずたじろぐ。どうせ場を繋ぐための質問だろうけれど、なかなか狙い澄ましたように痛いところを突かれたものである。
「えーっとですね、とても優しくていい人だと思います」
そう答えながら、これはもう本格的にバレたらまずいな、と私は顔を引きつらせる。墓場まで持って行かなきゃ……。
「そうなんだ。……僕たち、仲良くなれると思う?」
「んんー……。それは当人同士の問題ではないかと思いますので、一概には……」
早く話題が変わらないかな、というか早く解放してくれないかな、と思いながら、私は幾度となく建物の方をちらっちらっと見やり、帰りたいアピールを露骨にした。それに気づいたのか、ロイオデは「ああ、」と呟く。
「明かりは忘れてしまったのかな?」
「……おっしゃるとおりです」
耳を赤くしながら頷くと、ロイオデは一切意に介した様子もなく「送るよ」と微笑んだ。
……これ、私が私だから良いけど、私じゃなかったらなかなかモヤッとする展開である。どうやら私の伴侶になる男は、当然のように人をたらし込むのがお得意らしい。
「もっと君の話が聞きたいな。そうだな……君の主君の話をね」
西棟に繋がる扉の前で、ロイオデは身を屈め、低い声でそう囁いた。
「また明日、来られる?」
いや流石に毎日は脱走できないわ、と思いながら、「それは少し……」と眉をひそめる。そっか、と頷いて、彼は私にランタンを手渡した。
「次に来るときは、これを持っておいで」
私は咄嗟に受け取ってしまい、我に返ってから突き返そうとするが、もうロイオデは手を引っ込めており、それは叶わない。
「僕は毎日この時間帯にいるから、気が向いたら来るといい」
絶対もう行かない、と思いながら、私は小さく頷く。彼は満足げに頷き返し、姿勢を戻した。
「じゃあね」
そう言って踵を返す背中を見送りながら、私は妙な敗北感にぎりりと歯ぎしりしていた。
***
「ねえオーティナ、クノア様って僕のこと好きだと思う?」
私は思わず噴き出し、それから顔の下半分を覆っていた布を外して口元を拭くと、布の向きを変えて巻き直した。
「べっ別に、全然!」
耳が赤くなるのを感じながらそう言いかけ、私はあからさまにしょんぼりと肩を落としているロイオデを見つけた。私は慌てて拳を握り、恥を忍んで言い放つ。
「クノア様のお気持ちを完全に理解することはできませんが、ええと、その、ええと……。頂いたお手紙は全て大切に保管なさってますし、その……。とてつもなく嫌いということは、ないのではないかと……」
尻すぼみになりながらそう告げてから、そっとロイオデの顔色を窺った。まだ足りないと言いたげな顔をしている。
「それって、特に好きではないってことなのかな」
自分で訊け! と内心怒鳴りつけながら、私はぐむむと唸る。……仕方ない。
腹を決めて息を吸い、口を開いた。
「……好きだと思いますよ」
「もう一声」
「好きですね、はい」
は、反射で謎の要求に応えてしまった! やっちまったと思いながら、恐る恐る顔を上げると、いたく満足げに微笑んでいるロイオデを発見した。何なの?
もう来ないようにしよう、と心に決めてから、早一週間。私が夜ごと部屋を抜け出して中庭に赴くようになってからも一週間。自分でも自分のチョロさに泣きそうだ。
初回はそこまで気が回らなかったが、顔をバッチリ見られていては正体を隠すとかそういう問題ではなくなるので、一応顔の下半分を布で覆い、顔は隠すようにしている。
「すごい、花盛りだね」
「……そうですね」
春も盛りになり、満開になった花々を眺めながら、機嫌よさげにロイオデが話しかけてくる。後ろ暗いところがある私は、さして元気に応じられず、憮然とした態度で返事をしてしまう。もうこういうキャラで押し切ろうと思う。
「手を繋いでもいい?」
「は? 駄目です」
耳を疑った。思わず本気でぴしゃりとはねのけてから、私は眉をひそめる。この男は……誰彼構わず手を繋ごうとする、そんな……。
「……ああ。そういうことになっているんだったか」
訳が分からない独り言を漏らして、ロイオデは手を引いた。
「ごめんね、変なことを言って」
「これ以上『変なこと』をおっしゃったら、クノア様に進言して破談にいたしますよ」
「侍女の君にそんなことができるの?」
「うむむ……」
考えてみれば、ただの侍女の発言にしては度が過ぎていた。前言撤回してから、私はため息をつく。
月が傾いた。もうそろそろ戻らないといけない。
西棟への扉の前で、「また明日ね」とロイオデが微笑んだ。私はむっすりと口を引き結んだまま、頷きもせずに俯く。
「オーティナ、返事は?」
「……はい」
渋々答えると、彼は眦を下げ、褒めるように私の頭に軽く触れた。
……私が私だからいいけど、私じゃなかったらこれ、大問題よね。これ思うの何回目だろう。直接会えるようになったら言っておいた方が良さそうだ。こんな風に、迂闊にそこらの侍女に過ぎたる愛想を振りまかれては堪ったものではない。私の基準としてはこれはアウト判定である。
いや、まっ、まあね、結婚した後の話ですけどね!
妙に熱を持つ両頬に手の甲を押し当てながら、私は自室への廊下を小走りで駆け抜けた。
***
「はは、可愛いなぁ」
送られてきた手紙に目を通しながら、ロイオデは喉の奥でくつくつと笑った。祖国から連れてきた侍従は怪訝な顔をしているが、長年の付き合いとだけあって、この程度では大して怪しまないらしい。
話し言葉の片鱗すら見せない書き言葉は、一切の隙もなく、豊かな表現で書き綴られている。流れるような綺麗な文字も流石のものだ。
平然と、さも何も知らないように『中庭はたった今が花盛りですので、是非一度はご覧になって下さいませ』などと言っている辺りが、実に可愛らしい。別にそんなことに触れなくたって良いのに、わざわざ昨夜のやりとりを彷彿とさせるような話題選びを。
「ロイオデ様、ひょっとしてクノア様に会いに行ったりなどされておりませんよね?」
「ん? まさか」
侍従のこの嗅覚は恐ろしいものだと思うが、平然と否定することができた。何故なら会っているのは別の人だからである。
「……まぁ、彼女の侍女には会いに行っているけどね」
聞こえないようにそう呟いて、ロイオデは引き出しの中段に手紙をしまった。
「自分でおびき出しといて何だけど、流石にそういう設定で来るとは予想もしなかったよね」
少し苦笑しながら、引き出しを戻す。前に送った文鎮への礼として送られてきたのは、同じく小ぶりの文鎮だった。
艶やかな黒曜石の表面を親指で撫でながら、ロイオデは声を出さずに含み笑いする。
バレてるやんけ