竜使いテラル 閑話
これは、本編「竜使いテラル わたしが王子を助けてみせます!」の外伝となっています。本編を読まなくても大きな問題はありませんが、より二人の関係を知りたいかたは本編を少しでも読んでいただくのをおすすめします。
肌寒い。が、冬の肌を刺すような冷たさはもうない。春が近いのだろう、とユドリアムは何気に思った。ここ副王都エラブルは春の匂いを漂わせいているが、彼の一族の郷はまだ雪がしっかりと積もって厳しい寒さの中にあるに違いない。
「どうかなされましたか?」
幼少期からの従者兼護衛のツキバはユドリアムがぼんやりと夜空を見上げていたことを不思議に思ったのだろう。
「竜使いの一族はやはり、屈強な者たちだな、と思ったのだ。あの寒い大空で、テラルたちは嬉々として空を舞う。・・・私は戦で以外、乗りたくはない」
広大な空を悠々と舞う彼らは、寒さなど感じていないかのように竜に跨っている。地上からの高さと襲い来る暴風にユドリアムはいつも内心では恐怖している。
そういうことを愚痴れば、ツキバは静かに笑った。
「テラル殿はそれを知っているのですか?」
「知らないはずだ。言ったことがないからな。・・・他言するなよ、ツキバ」
ユドリアムは少々頬を赤らめてツキバに釘を刺した。
自分よりもずっと年下の子どもでさえも、平気な顔で飛んでいるのだ。総大将である自分が「怖い」などと知れたら格好がつかない。
「でしたら、初めて竜に乗ったときはどうだったのですか?」
ユドリアムは「え?」と声をあげて目を瞬かせた。初めて竜に乗った時。その思い出はすぐに瞼の裏に浮かび、ユドリアムは思わず微笑んだ。
「あれは・・・。怖くもあったが、驚きのほうが大きかった。あんな小さい女の子が悠々と巨大な竜に乗っているのだからな」
* *
ユドリアムとテラルが初めて出会ったのは、今から九年前。ユドリアム十歳、テラルが九歳のときだった。
「あんた、誰?ここで何をしてるの?武器も持たずにうろうろしてたら、食べられちゃうよ?」
ここは深い森で獰猛で巨大な動物がわんさかいる。だから不用意に近づくな、ということらしい。しかし、ユドリアムはその警告よりも、テラルの雑な扱いに戸惑った。次期国王となる身分である第一王子として育てられたユドリアムはこの十年間、歳が上だろうが下だろうが、どんな者からも敬われる立場だったからだ。テラルの軽率な態度にユドリアムはムッとして言い返した。
「何を言う!それはそなたこそ同じであろう!何の力も持たぬ者が・・・!」
当時は自分が最低な子どもであることも、わかっていなかった。
「あんただって力なんて無いでしょ?子どもでしょ?どう見ても同じじゃない。・・・それに、たぶん私のほうがあんたより強いし。食べられないから」
「!?」
侮辱ではない。事実を、現実を、テラルは正直に子どもながらに伝えたまでだ。だが、ユドリアムは怒りで顔を真っ赤にし、わなわなと震えた。
「あんたの名前ってユドリアム?デンカ?誰かが呼んでるよ。・・・あっちから」
テラルは迷うことなくある一点をすっと指差した。ユドリアムは驚きに怒りを忘れてその方向を見る。目を凝らして見知った者がいないか捜すが、誰も見当たらないし、声もしない。騙されたのかと思ったが、ふとそうではないと気づいた。
「本当に聞こえているのか!私の名前を元より知っているのか?」
テラルは信じてもらえなかったことが気に障ったのか、むすっと頬を膨らました。
「聞こえてるよ。「ユドリアムデンカ」なんてながーい名前、私の仲間にはいないよ。めんどくさい」
「違う、私の名はユドリアムだ。殿下は名ではない。敬称だ」
ユドリアムはそんな勘違いをされたことはなかったので、面白おかしくて笑った。
「けーしょー?なにそれ」
「めんどくさ」とテラルは呆れたようにまた呟いた。
「それより、そなたの名前は何という」
テラルはその問いに目をぱちくりさせ、くすっと笑った。何の裏表も無いその笑みにユドリアムは息を呑んだ。
「私?私はテラル」
その後、テラルはユドリアムの手を引いてその声がするほうまで案内した。従者たちとはぐれていたユドリアムはテラルのお陰で再会できたことになる。
「え!あんたたち、私たちの郷に来るつもりなの?無理だよ!」
テラルの仰天声にユドリアムの従者たちは戸惑いの色を浮かべてテラルを見た。テラルは「有り得ない」とでも言いたげな顔だ。
「なぜだ?ここを抜ければ、竜使いの一族の郷にありつけるはずだ」
従者の一人がテラルを威圧たっぷりに見下ろしてそう言った。対してテラルはけろっとしているが。
「え、ムリムリ。だって、あんたたち使い竜がいないじゃない。・・・あんたの言うとおり、この森抜けたらあるけど、絶対ムリ。人間だけじゃダメだって、大人の人たちがみんな言ってるもん。だから私たちはここに住むんだって」
それかここの動物に食べられちゃう、と恐ろしいことをテラルは楽しそうに笑って言った。
「では、どうすれば良い?私たちは竜使いの者たちに会いに来たのだが」
ユドリアムの言葉にテラルは「んー」と唸って考える仕草をした。
「あ!じゃあ、私が連れて行ってあげる」
「それはありがたいが、如何にして行けるのだ?」
テラルはにいっと可愛らしげに笑みを浮かべると、くるっと背を向けて空を見上げた。
「フォアロー!きーてー!」
「ふぉあろ?」
一体誰を呼んでいるのだろう、とユドリアムが顔をあげると、突如風が吹き溢れた。ゴオッという轟音に辺りが支配される。
「・・・つっ!」
ユドリアムはこのとき初めて圧倒的な存在に気圧された。「誰」は正しくない。その存在は獣の王とされるもの。
輝くような赤い鱗に、らんらんと光る金色の瞳がこちらを見下ろしていた。ユドリアムが初めて竜を目にした瞬間だった。
「フォアロ」という名のテラルの使い竜に半ば無理やり乗せられて、ユドリアム一行はあっという間に竜使いの一族の郷に辿り着いた。
族長はマハの一族を経由して案内するつもりだったらしい。テラルがすっとばしてくれたお陰で時間短縮にはなったが、少々混乱が起きてしまった。
ユドリアムはそんな些細なことは気にしなかった。それよりも、この郷に大勢いる竜に目を奪われてしまった。
「・・・美しいな」
「そうでしょ!」
外からの客人は滅多にないというのに、テラルはユドリアムに興味津々で先程から後を追ってくる。
テラルはユドリアムの言葉を聞いて、まるで自分のことのように喜色の色を滲ませる。
「ねえ、今から狩りに行くんだけど、行く?」
「狩り?」
驚いて聞き返すとテラルは「うん!」と元気よく返事をした。
「王子さまだからしたことないでしょ?連れてってあげる!今日の夕餉にできるよ!」
テラルはいつの間に用意してきたのか、短剣と弓矢を手にしていて、もう行きたくてうずうずしているようだ。
「フォアロがいっしょだから安全だよ?」
いや、その「フォアロ」が恐ろしいのだが。と、口が裂けてもいえない。断るのも癪に障る。
「わかった、行こう。よろしく頼む」
「ほんと!?やったー!」
ぱあっと笑みを浮かべて心底から嬉しそうにはしゃぐ女の子。そういえば、歳の近い他人はいなかったな、と妙なことを思った。
ピーッ!とテラルが笛を吹くと、上空から暴風が吹きあふれ、竜の巨体がまた姿を現した。悲鳴を飲み込んで、震えそうになる足を抑える。
「乗るよ!」
「ちょっ!」
テラルは軽々とユドリアムを抱き上げた。要は「お暇様抱っこ」である。年下の、しかも女の子に軽々と抱き上げられてはプライドが傷つく。だが、テラルにはそんな発想は皆無なので、羞恥に顔を真っ赤にしているユドリアムを見て笑った。
ユドリアムからしてみれば、最悪である。
「そなた、・・・ッ!?」
怒りと羞恥で怒鳴ろうとしたが、それはできなかった。次の瞬間、テラルはユドリアムを抱いた状態で助走をつけると、フォアロの背に飛び乗った。そう、飛び乗ってしまったのである。
「後ろに乗って、私に掴まってね!」
悪気もなく、明るい調子で言うテラルを見てユドリアムは苦笑した。羞恥も怒りも霧散していく。
テラルの言うとおり、ユドリアムはテラルに掴まり、命綱をしっかりと自身に巻きつける。
「飛翔!」
ユドリアムは気配がまるで感じられない目の前の少女の後ろ姿を見つめた。半眼で先々を見つめ、岩陰からじっと一点を見つめている。
弓に矢を番え、左手の人差し指を目標に向ける。その手馴れた様子にユドリアムは息を殺して見守った。目標にはユドリアムがこれまでに見たことがないほど大きな牡鹿がいる。牡鹿を見下ろすような形でテラルとユドリアムは陣取っていた。
「ふー・・・」
テラルがひとつ息を長々と吐く。ぎりぎりと弦を張り、その次の瞬間までの緊張が膨らむ。呼吸が止まった途端、ヒュン、という風を切る音が響き、甲高い悲鳴が後を追うように聞こえた。
「よし。仕留めた」
テラルが嬉々として呟くと、岩を駆け下りていく。ユドリアムは慌てて立ち上がるとそろそろとテラルの後を追った。
「見てみてー!どう?すごいでしょ!」
ぴくりとも動かない牡鹿にユドリアムはごくっと唾を飲んだ。初めて見る生きた獣が死ぬ様に頭が痺れて追いつかない。
「あ、ああ」
「ね?ユドもやってみなよ。教えるからさ!」
ユドリアムは目を瞬かせてテラルを見やった。
「ユド?私のことか?」
テラルは無邪気に頷いてから「だって」と呟く。
「長いよ、ユドの名前。いやなら呼び方変えるよ?」
「いや、構わないが。・・・そうか、ユドか」
普段ならば、「何を無礼な」と怒鳴っていただろう。だが、テラルと付き合い、その笑顔を見るうちにそれが親しみからくるものであると初めてわかった。
「ああ。教えてくれ」
ふっと浮かんだユドリアムの笑みにテラルは顔を真っ赤にした。
「う、うん。別に良いよ」
「テラル?」
「う、うう、ううう、ううううるっさい!」
何に怒り、何に苛立っているのかわからないが、テラルは頬を紅潮させて背を向けて歩き出す。
それが「照れ」であることは、幼い二人にはわからない。
「っ!」
矢が一直線に目標に向かって飛んでいく。ユドリアムが狙った獲物に矢はわずかに急所を逸らしたが、雌鹿は足を踏み外して急峻な崖を滑り落ちていく。
「おー!ユドってば、物覚えが良いね」
「いや、テラルは人にものを教えるのが上手い。そのお陰だ」
「へえー」
ユドリアムの賞賛にテラルは照れて無関心ごとのように返事をする。
「わたしの妹も武術を心得ているが、ここまでの腕には至っていない」
「え!ユドにも妹がいるの?」
テラルにユドリアムは苦笑して頷いた。
テラルと妹は全く違う。妹はここまで明朗快活ではないし、私生活では無口だ。兄妹にさえ、話すのは得意ではなさそうに思える。テラルのころころ変わる表情を見ていると、何とも面白い。
「ああ。妹が三人、弟が一人」
「それって、王子様とお姫様ってこと?」
ことん、と首を傾げるテラル。こんなふうに首を傾げて訊ねてくる可愛らしい妹は残念ながらいない。
「そうだ。・・・私もそうだが?」
「・・・ユドって王子様?なんか、そんな感じしない」
喜ぶべきか否か。ユドリアムは複雑な色を浮かべずにはいられない。
「友だちって感じ。王子様ってきらきらしてるんでしょ?」
「・・・は?」
だが、次に続いた言葉にユドリアムは戸惑った。最初の言葉は良い。良いどころか、嬉しくもある。問題はその後。「きらきらしてる」ってどういうことだ。発光でもしていると?生憎そんな芸当はできない。
「きらきら?」
「うん。きらきら!言ってたよ、お偉いさんはきらきらしてるんだって!」
テラルの言葉にどこか言わんとしていることがわかったよな気がしてユドリアムは引き攣った笑みを浮かべた。宝飾類の着飾りやその生活のことを言っているのだろう、と。
「私とあれらを同じにするでない。その、お偉いさんとやらは貴族のことだろう。あれほどムダ遣いはしまい」
「・・・ユドって言葉が難しくて言ってることがわかんないよ」
きゅっと小さな眉を寄せるテラルにユドリアムはどうしたものかと内心悩む。言葉遣いも選んでいる言葉も無意識のうちに口にしているものだがら、直そうにも簡単には直せない。
「そうか。すまぬな。・・・だが、私はきらきらではない」
「そうなの?」
「そうだ」
どこか納得していないようなテラルにユドリアムはくすりと笑う。
きらきらというのであれば、テラルのほうがきらきらしている。王子として生まれ、王城で育ったユドリアムが見てきたものは、複雑に交錯する人の思惑と醜さだ。達観、諦観してしまう自分が生まれてしまうのも、仕方がないことだと思う。妹や弟でさえ、どこか冷めた眼差しをすることがある。
こんなに純粋に素直に無垢に笑って真っ直ぐにこちらを見つめる瞳をユドリアムは知らなかった。自然とつられて笑みがこぼれる。
「また教えてくれ。テラル」
「うん、いいよ!」
仕留めた獲物をフォアロの鞍に括りつけ、帰郷した。
一応、ユドリアムは事の次第を付き人に伝えていたが全てを本気で受け取っていたわけではなかったらしく、狩りというのも、猛獣のいる森まで行くものだと思っていなかったらしい。
「テラル!」
状況的にも、立場的にも、叱責を受けてしまうのは自分ではなく、隣にいるテラル。テラルはなぜ叱られるのかが理解できないのだろう。不安げに瞳を揺らし、しかし、自分の意思は曲げまいと大人に対峙している。
「殿下を連れて狩りに行くなど、一体どういうつもりだ!」
テラルの父親が顔を真っ赤にして怒鳴る。普段は怒鳴ったりする人ではないらしい。
「殿下じゃなくて、ユドだよ!
それに、悪いことなんてしてないもん。ユドったら、矢を射るの、すっごい上手なんだから!」
答えになっていない答えだなあ、とユドリアムは思う。これが年相応の反応なのか、ともどこか他人事のように思いつつ。
「王子さまって、お城にずっといさせられるんでしょ?ここにせっかく来たんだから、お外に行って今のうちにやんなきゃダメ!」
待て待て。少々、間違ってはないが問題発言がある。
(あ、私も問題だな)
間違ってはいないが、と思った時点で同罪だ。
「少し良いか」
ユドリアムがテラルの前に庇うように立つと、従者を始め、テラルの父親は驚きの色を浮かべた。
「確かに危険な地に私とテラルのみで足を踏み入れるのは安易であった。私も言葉が足りないようであったし、テラルばかりを責めるのは止めてはくれぬか?」
普段の自分であれば、ここで口を挟むことはなかった。だが、テラルばかりが責められるのは良心が痛む。そして、これまで見捨ててきた者たちにも申し訳なさで、やりきれない思いになる。
ユドリアムは真剣な顔で頭を下げた。多分、自分の意思で頭を下げたのはこれが初めてだ。
「心配をかけて、すまぬ」
「で、殿下!?」
「い、いえ、こちらこそ申し訳なく・・・」
大人たちの慌てようにユドリアムはどうしたものかと悩む。この空気を作ってしまったのは自分だが、それにしても王子が謝罪することはそれほど大変なことであろうか。
「父様、殿下、夕餉の準備ができました」
間を見計らったかのように現れた小さな女の子がそう言ってお辞儀をした。二番目の妹を思い出すような子だった。
「では頂こう。テラルも共にどうだ?」
「え、いいの?」
「構わない。テラルの話をもっと聞きたいしな」
テラルは最初、ユドリアムが謝ったことに申し訳なさそうに縮こまっていたが、やがて時間が経つと饒舌になった。
「テラルも武術を学んでいるのか」
「うん。みんな必要ないっていうし、母様なんて、私のこと嫌いみたいだし。でも、わたし、好きだもん。強くなって、もっと速くフォアロに乗りたい」
テラルは母のことを口にしたとき、一瞬暗い顔になったが、振り切るように明るい声で言って笑った。
「強くなることは良いことだと思うぞ」
ユドリアムがそう言うと、テラルはぱっと顔をあげてユドリアムを見つめた。
「ほんと?」
「ああ。自分で自分の身を守れるのは良いことだ。それに、私の妹も嗜んでいる。好きなことを一生懸命にやる。それは、だれしもができることではない。テラルは凄いと思うぞ。これからも、強くなればよい」
テラルは茫然とユドリアムを見つめていたが、やがて、俯いて黙りこくった。悪いことを言ってしまったのかとユドリアムは不安になる。
「テラル・・・?」
「な、なんでもないっ!」
その言葉とは裏腹にテラルの声は湿っていて。本当に大丈夫なのかと顔を覗き込んで驚いた。
ぽろぽろと小さな涙を流し、泣いていたのだ。
「テ、テラル!?」
「泣いてないもん。泣いてなんか、ない」
強がってそういうテラルにユドリアムは目を細めて見つめる。ぽんぽんと頭を撫でるとパシッと払われてしまったが。
「確かに、女が武術を心得ることを素直に理解する者ばかりではないだろう。武術は怪我をよくするし、そなたの母上も大切な娘に痛い目に遭って欲しくないと思っているやも知れぬ」
「うん・・・」
ごしごしと涙を拭い、微かに笑うテラルを見てユドリアムはほっと安堵の息を吐く。
ユドリアムはその後、七日間を竜使いの一族の郷で過ごした。
「え、明日の朝帰っちゃうの!?」
前夜、テラルはそう言って顔を強張らせた。その様子にユドリアムは苦笑する。これで四回目だ。
「えー!いやだあ、ユドここに住もうよ」
「嬉しいが、そういうわけにもいかぬ。私にも帰らねばらぬ場所があるからな」
ユドリアムがテラルを宥めてそう言うと、テラルは悲しみの色を色濃く滲ませて俯く。
本音を言えば、ユドリアムをそれを考えなかったわけではない。しかし、テラルとは違う考えで、だ。もちろん、王子としての身分を捨てるつもりはないし、王城に帰らないわけではない。それどころか、それを利用してテラルを連れて行こうかと考えた。
王子の権力でテラルを連れて行くことは容易だ。
テラルは友として接してくれる。歳の近い者同士で、歯に衣着せぬ物言いだってしてくれる。それが、ユドリアムにとっては新鮮で、嬉しかった。
だが、テラルにとって王城は狭すぎる世界だ。竜に乗って空を飛ぶことはできなくなるだろう。それどころか、竜と接する機会も格段に減るだろう。王城に連れて行くことで利を得るのは自分自身だけだ。それ以上に身分の差による人々の思惑がテラルを追い込む。
だから、我慢するしかない。だけど、ひとつだけ我がままを。
「ツキバ」
「なんでしょうか」
ユドリアムは従者に声をかけた。
「五分だけで良い。テラルと私だけで外に行かせてくれ。頼む」
ツキバはしばらく黙っていたが、やがて渋々頷く。そして、何かあればすぐに声をかけるように、との注意を受ける。
「ありがとう。・・・テラル、おいで」
ユドリアムが声をかけても、テラルは俯いたままだ。顔を上げないままユドリアムの後ろにちょこちょこついてくる。
外に出、空を見上げる。そこには王城で見るよりも美しい夜空が広がっていた。
「綺麗だな」
「・・・・・・」
完全に落ち込んで黙り込んでしまったテラルをどうしようかと悩みつつも、それを嬉しいと思うのだから自分も体外である。
「私はな、テラル。あれは命の光ではないかと思っている」
夜空に瞬く光をユドリアムは目を細めて見つめる。テラルがつられて顔を上げるのを目の端に捉えながら続ける。
「何の穢れもなく、それでいて尊く、この世界の誰のものでもない唯一のものだ」
「・・・・・・」
テラルは何も言わない。ユドリアムは気にせず口をまた開く。
「世界には多くの思想があり、国があり、種族があり、宗教がある。全ての人々が理解しあい、争いをなくすことは難しい。でも、この夜空には皆が同じことを感じるだろう、美しい、と。
これほど様々な人がいる中で、ひとつのことを感じあえるのは、素晴らしいことではないではないか」
テラルとこうして出会えたのも、何かの縁。この身分差では、普通はこうして話すことさえ奇跡だ。本当にこの身分とやらがバカバカしいと思う。
「きらきらだね」
ぽつり、とテラルが呟く。ユドリアムはこくりと頷き、目線をテラルに戻す。視線に気づいたテラルもこちらに目を向けた。
「この美しい夜空は皆が見ることができる。身分も、生まれも、職も関係ない。誰にも制限されることもない。平等に目にすることができる。これほど素晴らしいものはない、と私は思う」
微笑んで、熱くなった目の奥を無視する。ああ、こんなことを願っても良いものか。口にしてしまえば、後戻りできないような、息苦しさを感じる。そう思うのに、ユドリアムは止められなかった。
「残念だが、私は二度とここには来られぬだろう。この場所は好きだが、私は王城から出ることさえも、滅多にないからな。・・・だから、そなたが会いにきてくれ。迎えに来てくれ。そうすれば、また会えよう。テラルは強くなるのだろう?私も遠くから応援する。偵察組になり、私の所まで来てくれ。歓迎する」
驚いた様子でテラルはそれを聞き、それでも、「絶対ね!」と力強く言った。それが最後。
まさか、九年後に思わぬ形で再会することになるなど誰が想像できようか。しかも、単身でどこにいるかも助かるかもわからない自分のために。
* *
朝日が照っている。昨日は微かに雨が降ったらしいから、竜を放すための放牧場の草々は滴を湛えて幻想的に反射している。
その放牧場には数頭の竜がぽつり、ぽつり、と悠然と存在している。
その姿に獣の王か、と思うと同時に、なるほど、違いない、と納得できる。そしてその中に一際大きく、神々しくある竜が一頭いる。
その竜の名はフォアロ。そのフォアロの足元には小さな人影がある。フォアロはレアーテルという種で竜の中で最も頂上に君臨する「竜の覇者」。その覇者を従える小さな娘の名はテラル。
彼女がいなければ、今の自分はいなかった。自分の世界の小ささも知らず、自由を知らず、人の温かみも知らなかった。
「テラル!」
ユドリアムが大きな声を上げて呼びかけると、テラルはこちらを向き、ユドリアムの姿を捉えるとぱっと笑顔になった。タッタと軽い足取りでこちらへ駆けてくる。
「ユド、おはよう!」
こんなに遠いのに、自分の声を耳にして笑顔を見せてくれる者はテラル以外にはいない。ましてや、「殿下」や「王子」という身分差を感じられない呼び方をしてくれる者など、これからも絶対に現れないだろう。
どうにかして自分のものにしたい、と思う。それは今でも変わらない。しかし、その反面、そんなことをすれば、テラルはテラルでなくなるだろう、と思うのだ。
だから、せめて。せめて、彼女が傍にいて、呼べば笑顔を向けてくれる、そんな日々が続くように、とユドリアムは願った。
とある日の初春にて。