ep2.未知との遭遇
『異変』発生後約1時間半経過 異世界洋上 救難艦『たいよう』甲板
片桐は空を見上げながら、煙草の煙を燻らせていた。
甲板では、同僚の警官たちも同じように煙草を咥えている。いや、喫煙者はそれだけではなかった。消防士や自衛官なども、少なくない数が甲板に集まっており、皆同じように白煙を吐き上げている。
(ストレスを感じるのも無理はないな……この数時間の間に、色々な事が起こり過ぎた)
晴れ渡る青空とは対照的に、艦内に取り残された者たちの雲行きは見通せない。
今はまだ『たいよう』に積載している備蓄がある。最低限の衣食住は保障されている。
しかし、その状態もいつまで持つか。河野1佐は1ヶ月と言っていたが、右も左もわからない状況で1ヶ月しか猶予がないというのは、リミットとしてあまりに短い。
(……この煙草だって、いずれ吸うことができなくなるだろう。いつまでも現実逃避をしている訳にもいかないな)
そこまで考えて、片桐は煙草を灰皿へと放り投げると、そのまま扉の方へと歩いていく。
気分転換という当初の目的は果たしており、夕食までは特に予定も入っていない。
充てがわれた部屋に戻って、もう少し状況の整理をするか――
そう思い、片桐は艦内に引き返そうとしたが、甲板との通行路にある扉の前まで来た時、その反対側から、不意に扉が開かれた。
「ひゃあっ!」
悲鳴を上げながら片桐の目の前に現れたのは、1人の女性警官だった。
「……驚かせたなら申し訳ない。君は確か――」
「あ、えっと……生活安全部の漆間です」
漆間と名乗った女性警官は、顔を俯かせながら片桐の前で立ち竦んでいた。
「あ、あの……その……」
「……何か自分に用事でも? もし何もなければ、部屋に戻りたいので――」
「あっ、す、すみません! その、えっと……実は、片桐さんに質問したいことがあって」
「自分に?」
「はい。その――どうして、そんなに自衛隊の方を嫌われているのかな、って思って……」
意を決して呟かれた漆間の言葉。
その言葉に、片桐は一切動揺することなく、淡々とした口調で言葉を返した。
「……とりあえず、場所を変えようか。通路で立ち話をするのも迷惑だからね」
片桐はそう言って扉を閉めると、漆間を先導するように歩き出した。
漆間が案内された部屋は、片桐に与えられた個室だった。
警察・消防・DMATなどには、海自からそれぞれ生活するための部屋を割り当てられている。『たいよう』は救難艦として建造されたため、被災者を収容するための個室を始めとして、艦内スペースには一定の余裕があった。
そして、片桐のように各組織の代表に就いている者には、前述したように、個別に1人部屋が用意されている。
「あの……今更なんですけど、急にすみません。お会いしたのも今日が初対面なのに、いきなりこんなことを訊いてしまって……」
「気にしないでいい。それに、何か理由があるからこそ、わざわざ話を聞きに来たんだろう?」
片桐は苦笑しながら答えた。その笑みを見て、漆間は少しだけ驚きを覚える。会議中の振る舞いから、漆間は片桐に対して、何となく恐い印象を抱いていたからだ。
しかし今の片桐からは、そんな雰囲気は感じられない。むしろ模範的な、優しい警察官のイメージに相応しい態度だった。
「まあ、別に隠すような話でもないし……君が気になるというのなら、話しておいた方がいいだろう」
テーブル上に置かれた2つのカップにコーヒーを注ぎながら、片桐は話を切り出した。
「高校時代、自分はよく虐められていてね」
「え……?」
漆間は一瞬自分の耳を疑ったが、決して聞き間違いではなかった。
片桐の口からいきなり発せられた『虐め』という言葉に、思わず驚きを隠せない。それは、今の片桐からは想像もできない、無縁のように思える言葉だったからだ。
「高校生の頃までは、勉強ばかりしていたからね。勉強ができない不良たちからは、鬱陶しい優等生だと思われていたんだろう。これといって反抗もしなかったことが、余計に状況を悪化させたのかも知れないな」
注ぎ終わったコーヒーに口を付けながら、片桐は話を続けていく。
「無論、その現状を甘んじて受け入れていた訳でもない。あの頃は弱い自分が嫌で、単純に強くなりたかった。だから、高校を卒業後、迷わず自衛隊に入隊した。自衛隊に入れば、心身共に鍛えることができて、弱い自分から生まれ変わることもできると思ったからだ」
漆間は、先程の警官の言葉を思い出していた。
目の前に座っている彼には確かに、自衛隊という組織に所属していた時期があったのだ。
「入隊したのは、最も体力を必要とする陸上自衛隊。教育期間は辛かったけれど、自分を変えたい一心で頑張ることができた。日に日に鍛えられていく体を実感することもできた。同期が愚痴を零していた筋肉痛も、自分にとっては心地良かった」
片桐が淹れたコーヒーを、漆間も一口だけ喉に流し込んだ。
ブラックコーヒーの苦味と香りが、口の中に広がっていく。
「だけど――充実した日々は、そう長くは続かなかった。事件は、部隊配備後、ある訓練中に起きた。自衛隊の装備には官品というものがあってね、要は税金で国から支給されたものだ。そういう事情があって、これを紛失すると大変なことになる。自衛隊は連帯責任だから、自分1人の問題では済まされない」
漆間は、話を続ける片桐の表情に、翳りが差したように思えた。
「官品の中でも、特に小銃は重要だ。その小銃のピストン桿止め用ばねピン――長いから部品でいいか。その部品を紛失してしまってね。結果、大規模な捜索になった。幸い部品は見つかったが、代償として、少なくない隊員から顰蹙を買った。……そのことに関しては、自分のミスなので言い訳のしようもない。だが、最悪なことに――その隊員たちの中には、高校時代に俺を虐めていた奴らの姿もあったんだ」
片桐は、ただ淡々と事実だけを述べていく。
「あいつらも自衛隊に入っていたのは驚いたが、まあ、自衛隊というのはそういう組織でもある。……中隊長も助けてはくれなかった。自分の任期中に部下を不祥事で処分することになれば、自らの監督責任も問われるからな、出世に響くとでも思っていたんだろう」
「そんな……」
「学力がなくても、丈夫な体があれば合格点。上官の命令は絶対で、パワハラという概念は存在しない。上層部は厄介事を嫌って隠蔽体質。歓迎会と称しては新隊員を弄び、親睦会と称しては酒と賭け事に明け暮れる……自衛隊というのは、そんなものだ」
片桐の話を聞いて、漆間は少なくない衝撃を感じていた。
「それで……片桐さんは、自衛隊を」
「ああ。まあ、それ以降の話は、言わなくてもわかるだろう?」
衝撃感が強かったのか、漆間は二の句が継げなくなっていた。
片桐の口から語られた事実は、自分の全く知らなかった未知の世界。自衛隊の陰の部分。
漆間とて、決して興味本位で片桐に質問した訳ではない。彼女には彼女なりの思惑があった。だがしかし――明かされた理由に、漆間はどう反応していいのかがわからない。
気まずい雰囲気に、漆間は再びコーヒーカップに手を伸ばした。その時だった。
「緊急放送。緊急放送。これより、緊急臨時会議を行います。各組織代表の方々は、至急第1多目的会議室までお集まり下さい。繰り返します――」
事態の急変を伝える艦内放送に、片桐は即座に反応した。コーヒーを一気に飲み干すと、漆間に向かって一言だけ声をかける。
「そういう訳だ。また何か気になることがあったら、気軽に声をかけて欲しい」
「は、はいっ」
漆間もコーヒーを一気に飲み干すと、片桐と共に先を急ぐのだった。
『異変』発生後約2時間経過 異世界洋上 救難艦『たいよう』艦内 第1多目的会議室
「では、報告させて頂きます。
先程、第10管区海上保安本部の巡視船『さつま』と通信が繋がりました。報告によると、『さつま』も我々と同じく『異変』の影響でこの世界に来たものと思われます。また、『異変』による負傷者もいるようですが、重傷者の報告は入っておりません」
会議の冒頭、河野の口から発せられた言葉に、臨席していた参加者たちからは、希望の入り混じった驚きの声が上がった。
人間というのは不思議なことに、困難な状況が激変しないとわかっていても、同じ境遇の仲間を見つけるだけで安心感を得るものである。
「――ただし、『さつま』には医療設備が整っていないため、隊員の安全に万全を期すためにも、我々海自は、負傷者を一旦『たいよう』に収容することを決定致しました。現在、『たいよう』は負傷者救護の目的で航行を再開しております。
……この件に関しましては、会議で決定した通りに議決を取ることなく、我々の独断で判断したことを謝罪させて頂きます」
そう言って、河野は軽く頭を下げたが、責める者など誰もいなかった。この状況でその判断は妥当な選択だと、誰もが思っていたからである。
敵対的である片桐でさえ、内心で苦い思いを噛み殺していたものの、表面上には出さずに消極的支持の立場を取っていた。
「人道的な観点から、今回の判断は妥当だと思われます。……それよりも、報告はそれだけですか? 何か他に、大きな問題が発生したのでは?」
片桐の鋭い質問に、河野も臆することなく返答していく。
「……その通りです。ここからが本題なのですが――もう1点、『さつま』から重大な報告が上がっています。水平線上に、陸地を発見したとのことです」
「「「――――!」」」
『さつま』から伝えられた報告内容に、各代表にも緊張が走った。
「詳細は不明ですが、観測の価値は高いと思われます。今は何よりも情報が欲しい。リスクも考えられますが、我々としては、早急に該当の陸地に赴き、情報収集を行いたい」
当初は周辺海域の情報収集を数日後に想定していた河野たち自衛隊幹部であったが、『さつま』より陸地発見の報告を受けて、行動方針を修正していた。
海域と陸地では、得られる情報量があまりに違いすぎる。地理的情報はもちろん、動植物などの生態系、この世界の文明レベル、元の世界へ戻るための手がかり――得ることのできる情報は少なくないだろう。
そしてそのことは、自衛隊以外の各組織も共通の意見として認識しており、片桐も情報収集の有用性に関しては素直に認めていた。
「しかし現状では、我々はヘリを1機も飛ばすことができない状態にあるのでは?」
「あ、でも、海保の巡視船には自衛隊のパイロットの人が乗っているんですよね? 今はその船に合流しようとしている訳ですし、合流後はヘリを飛ばすこともできるんじゃ……」
尚も舌鋒鋭く意見を述べていく片桐に、漆間が重ねて言葉を紡ぐ。
だが、漆間の意見は冨澤によって否定された。
「残念ながら、報告によれば『さつま』の負傷者の中にその隊員も含まれています」
「では、結局のところヘリは飛ばせないという状況で――」
「いえ、そういう訳ではありません。これはこちらの確認ミスで申し訳ないのですが、1名だけ、健康状態に問題のない、飛行可能なパイロットを把握しております。――そうだな、高品?」
「はっ! 第8飛行隊の先崎1曹が、本演習に諸事情により参加しております。彼の愛機はOH-6Dです。また、先程衛生科に確認したところ、先崎1曹は『異変』の際に自己防御を図っており、現在の容態に異常も見られないことから、飛行に支障はないのではないか、とのことです」
「……つまり、ヘリを飛ばすことはできる、という訳ですね」
「その通りです」
冨澤の言葉に、片桐は思考を巡らしていく。
飛行可能なパイロットがいるのであれば、特に飛行を否定する材料は見当たらない。異世界であるだけに不安は残るが、それはどのような行動を取る場合も同じことだ。
リスクとリターンを天秤にかければ、得られるリターンの方が大きいだろう。
「わかりました。そのようなことであれば、我々もその意見に賛成します。ただし、くれぐれも慎重にお願いします」
「ありがとうございます。もちろん、飛行には万全を期して参ります」
議決の際、最大の不安要素と考えられていた片桐が賛同の意を表明したことによって、河野の顔にも安堵の笑みが浮かんだ。
「他の方々はどうでしょうか」
河野は続いて、消防・DMATにも意見を求めていく。
「我々消防からは、特にありません。自衛隊さんの判断を支持します」
松浦が消防の意見を総括し、続いてDMATの羽鳥が発言する。
「僕たちからは、1つだけいいでしょうか。
あの……僕たちも専門家ではないので詳しくはわからないんですけど、やっぱり地球とは違う環境なので、未知の生物及び現象については留意しておいた方がいいのではないかと思われます。この船にはある程度の医療設備が整っていますけど、それでも機能の限界はありますし……それに、船の中という閉鎖的な環境なので、感染症にかかれば一網打尽です。未知の病気やウイルスの可能性を考えると、少しでもリスクを軽減したい。
なので、その……提案なんですけど、ヘリで情報収集をするにしても、まずは空中から様子を見て、地上に降りて行動するのは避けた方がいいのかな、と」
「なるほど、ごもっともですな。わかりました。今回の飛行では、例え陸地の状況がどのようなものであろうとも、空中からの観測のみに止めておきましょう」
羽鳥の提案に、河野は深く頷いて承諾した。
「では、改めて伺いますが、今後の我々の方針として――
1つ。海保の巡視船『さつま』と合流し、負傷者の救護を行う。
2つ。報告にあった陸地にヘリを派遣し、情報収集を行う。
……以上でよろしいですか?」
河野は会議室全体を見回して、反対意見がないことを確認する。
ここに、各組織代表の全会一致の意見に基づき、異世界における自衛隊の初の出動、『観測ヘリによる周辺海域及びX陸地の観測・探査・情報収集任務』が採択された。
『異変』発生後約3時間経過 異世界洋上 OH-6D機内
「『たいよう』こちらOH-6D。現在海保の巡視船『さつま』上空に接近。報告にあった通り、前方に陸地が視認できる。送れ」
「『たいよう』了解。引き続き警戒しつつ、情報を収集せよ。送れ」
「OH-6D了解。陸地上空に到達後、再度報告する。終わり」
『たいよう』との通信を終えた先崎は、周囲に目を光らせつつ、陸地へと徐々に接近していく。
(多少のことは覚悟していたが――実際に飛ぶとなると、緊張感が想像のそれとは違うな)
自分が今、どれだけ危険な任務を行っており、同時にどれだけ重要な任務を行っているか――先崎はそのことを自覚していた。
天候こそ良好だが、太陽が4つも存在する滅茶苦茶な世界だ。
いつ、何が起こるともわからない状況。操縦桿を握る手にも、嫌な汗が滲む。
(……いや、今は任務中だ。実戦と言ってもいい。余計なことは考えるな)
緊張感を紛らわすかのように、先崎は心の中でそう言い聞かせる。
そんな彼の心中を察したのか、臨席に座る同乗者が声をかけてきた。
「そういえば、OH-6Dに乗るのは初めてですが、意外と悪くない乗り心地ですね。先崎1曹の腕前もあるのでしょうが」
「……火箱2曹、今は任務中だ。あまり関係ない話は――」
「『どんな困難に直面しても、心の余裕だけは失うな』。特戦群で何度も叩き込まれた言葉です。適度な緊張感は集中力を高めますが、過度な緊張感は精神を擦り減らしてしまう」
「…………!」
確かにその通りだと、先崎は思った。
自分自身の気付いていないうちに、いつの間にか、任務の重圧に押し潰されそうになっていなかったか?
――『実戦だと思って、全身全霊で訓練に臨め。訓練だと思って、緊張することなく実戦に臨め。』
先崎は、自身の上官である分屯地司令の言葉を思い出していた。
落ち着いて1度、深呼吸をしてみる。不思議と緊張感が和らいで、先程まで抱いていた邪念は、嘘のようにどこかへ消え去っていた。
「すまない、礼を言う」
「いえ、お気になさらず」
笑顔を浮かべながら火箱が答える。
屈託のないその笑みからは、彼女が上機嫌であることを窺わせた。
「せっかくの初任務です。先崎1曹も、少し肩の力を抜かれてみては?」
「でっ……!?」
「ふふ、冗談ですよ」
一度落ち着いた心臓の鼓動が、再び大きく跳ね上がる。
高品の飄々とした態度にも滅多に動じることのない先崎であったが、どこか同じように通じる部分もある火箱に対しては、面白いように手玉に取られていた。
「……まあ、確かにせっかく二人きりになれたんだ。訊いておきたいこともあったしな」
「スリーサイズなら教えませんよ?」
「んなもん誰も訊いてねえ!」
先崎の反応に、火箱は相変わらず無邪気な笑顔を見せる。
まるで、何か望んでいたものを手に入れることができた、幼い子どものようであった。
「……韜晦するなよ。自分からあんなものを見せびらかしておいて、今更誤魔化すつもりか?」
「あはは、仕方ありませんね。
――先崎1曹は、パイロキネシスという言葉をご存知ですか?」
「パイロキネシス……?」
復唱した言葉は、先崎の聞き慣れない言葉であった。
「簡単に説明しますと、超能力の一種、発火能力のことです」
「超能力――ときたか」
「そう珍しいものでもありませんよ? 事実は小説よりも奇なり――とはよく言ったものですが、世界を見渡せば、特異な能力を持つ多くの人々が実際に存在します。
85年の生涯で一瞬も寝ることのなかった者、コンピューターよりも素早い計算を行う者、裸眼で1,5km以上先の物体を認識できる者……発火能力者に限っても、ブラジルのサンパウロ州やアメリカのカリフォルニア州、ベトナムのホーチミン市などで事例が確認されています」
彼女の口から語られた事実は、どれも先崎にとって信じ難いものばかりであった。
だがしかし、実際にその能力の一端を火箱に見せつけられている以上、事実として受け入れるしかないだろう。
それに何より――自分たちは今まさに現在進行形で、空想の産物と思われていた異世界で行動しているのである。超能力どころか、今なら大抵のことを受け入れることができるに違いない。
「それにしても、火を自由自在に操る能力か……便利そうではあるな」
「そう便利なものでもありませんが……」
苦笑する火箱。だが、浮かべる笑みが先程より弱々しく、表情にも一瞬翳りが差したことに、操縦席に座っている先崎は気付いていない。
「まあいい。詳しい話は、後でゆっくり聞かせてもらうとしよう。直に目的地上空だ。周辺の警戒監視は任せたぞ」
「了解しました」
眼下に広がる未知の大陸を眺めながら、先崎は『たいよう』との通信を再開する。
「『たいよう』こちらOH-6D。現在、X陸地上空に到達。本機の周辺には森林が広がっており、大きな川も確認できる。また、河口付近の海沿いには家屋が密集しており、港町のような地域も見られ――」
龍暦444年クリスタの月第4の日 ディザステロ大陸東端 港町オステア
活気のある魚市場と巨大な倉庫群がシンボルであるこの町は、大陸東部における交通の要衝であると共に、船舶航路の要衝でもある。港には毎日のように積み荷を載せた船が訪れ、商人や旅人で市場は溢れかえっていた。
町の酒場では毎晩男たちが酒を酌み交わし、それぞれの稼ぎや将来の夢について熱く語っている。活気は酒場だけに留まらない。町全体が、更なる発展へ向けて動き出している最中である。
始めは小さな灯台しかなかったこの町だったが、豊富な漁場と地理的優位を活かした交易によって財をなし、徐々に発展を重ねていった経過、大陸でも有数の港町という立場を得るまでに至ったのだ。
最近では、町外れにある森を開発し、新たな港を建設する計画も持ち上がっていた。
物事の全ては順調に運び、オステアの町は更に大きくなることができる――
住民たちは皆、期待に胸を膨らませていた。
――しかし、それも全て過去の話。
始まりは、1ヶ月程前に遡る。
オステアでは、ここ数日、異常な豊漁が続いていた。以前にも豊漁の時期はあったが、それにしても過去に類を見ない規模の漁獲量であった。
また、大型の海洋生物であるリウァイアが海岸に打ち上げられる事件も発生した。通常は海岸どころか、港湾付近の浅い海では見られることのないリウァイアが姿を現したことに、町の住民の間では大騒ぎになった。
しかし、それらの出来事の多くは珍しがられたものの――これといって住民たちに影響を与える訳でもなく、住民たちは普段通りの生活を営んでいた。
そしてその数日後――オステアの町を、巨大な地揺れが襲った。
家屋や倉庫は倒壊し、多くの者が下敷きになった。地揺れの影響によって各地の道路は寸断され、瓦礫が散乱し、港はその機能を喪失した。
更にその後、混乱状態に陥った住民たちに追い打ちをかけるかのごとく――巨大な波が、町全体を飲み込んでいった。
人も、家も、船も、そのほとんどが波に呑まれ、海の藻屑となっていった。
波が引き、一夜が明けた後に残っていたのは――廃墟と化したオステアの町と、生き残った僅かな人々のみ。
――そして、現在。
瓦礫に埋もれた道なき道を、大きなカゴを背負った1人の少女が歩いていた。
少女の名はファロゥ。あの地獄のような1日を生き延びた住民の1人である。
ファロゥはひたすらに荒れた道を歩き続け、やがて町外れへと辿り着いた。ここから先はベスティアの森。そしてその森こそが、彼女が目指していた目的地であった。
「……よし! 今日も頑張るか!」
彼女は小柄な体躯を活かして、草木の合間を縫うようにして進んでいった。途中、食べられそうな野草やキノコを見つけては、片っ端からカゴの中へと放り投げていく。
そう――彼女がこの森にやって来たのは、食料となりそうなものを手に入れるためである。町としての機能を失い、商人や旅人も滅多に訪れることのなくなったオステアでは、慢性的な物資の不足が問題となっていた。
元々水産物以外の物資の入手を交易に頼っていたオステアでは、地揺れの影響による物流の遮断と、船を失ったことによる漁獲量の大幅な減少によって、食料の確保が困難な状況に陥っていた。
ファロゥのような幼い子どもたちには優先的に物資が回されたため、餓えや渇きに苦しむことは少なかったが、大人たち――特に怪我人や老人などまでは物資が行き渡っておらず、過酷な生活を送っている者が多い。
そのことに対して、ファロゥは大きな責任を感じていた。そこで、自分も何か役に立ちたいという思いから、彼女は毎日、こうして町外れの森までやってきては、生活に必要となりそうな物を集めているのだ。
「あっ、沢で水汲みもしておかないと……」
不思議なことに、あの日以来、町の井戸からは濁った水が湧くようになった。それはとても飲めるような代物ではないため、真水の確保も彼女の日課となっている。
「あたしが水属性の魔法を使うことができたら、水だけでも、皆にいっぱいあげることができるのにな……」
魔法――この世界に住む人々は、魔力をエネルギーに魔法を扱うことが可能である。最も、魔力を制御するためには適性が必要で、誰にでも扱うことのできるものではない。そしてまた、生まれながらにして扱うことのできる魔法は決定している。
地・水・火・風――4大属性の魔法のうち、ファロゥの適性は風属性である。船乗りなどからは重宝されるが、残念ながら、現状ではあまり役に立つことがない属性だった。
「よいしょ……っと。ふぅ、疲れた」
木筒に水を汲み終わったファロゥは、木陰で少し休憩を取ることにした。
「――あれ? 何の音だろう……?」
彼女はしばし切り株に腰を下ろして休んでいたが、何やら奇妙な音が鳴り響いていることに気が付いた。気になった彼女は、音の聞こえてくる方向へと視線を向けてみる。
そこにいたのは――見たこともない姿の飛行生物であった。
(な、何あれ……生き物……だよね? 虫にしては大きいし、鳥? ――いや、もしかして)
「ドラゴン……!?」
その言葉を呟いた途端、恐怖が実感を伴って一気に襲いかかってきた。
この世界において、ドラゴンは災厄の象徴として君臨している。
上空を舞う謎の生物は、彼女が知っているドラゴンの姿形とは異なっていたが、見たこともない生物であることも確かだ。いや、新種のドラゴンである可能性もある。そうだ、もしもあの謎の生物が、ドラゴンだったとしたら――!
(……こんなことしている場合じゃない、早く皆に知らせないと!)
我に返ったファロゥは、踵を返して町へと戻ろうとしたが、すぐにその表情は絶望へと変わった。
(ダメ――速すぎる! このままじゃ間に合わない!)
上空を舞うドラゴンは、異様なスピードで旋回していた。
このままでは、自分が町へと戻る前に、ドラゴンが町を襲撃するかも知れない。
ファロゥの脳裏に、1ヶ月前の悪夢が蘇る。
瓦礫の山。猛烈な濁流。倒壊した家屋。真っ二つに割れた船。
逃げ惑う人々。逃げ遅れた人々。逃げられない人々。
自分の命を救うため、身を挺して犠牲になった両親。
いつも自分を助けてくれた人々を、助けることができなかった、無力な自分。
(――それだけは、絶対にダメ!)
彼女は大きく深呼吸をすると、何かを決心したように宙空を見据えた。
(今度は、あたしが――あたしが、皆を助けなきゃ!)
「はっ……ふぅ」
ファロウは呼吸を整えて、体内に秘められた魔力を増幅させていく。やがて、彼女の周囲に小さな竜巻ができたかと思うと、それらは前へと突き出した自身の両手に吸い込まれるように集まっていき――融合増幅させた風の力によって、彼女の周囲にあった切り株や大岩が浮かび上がっていく。
丁度その時、上空を飛翔していたドラゴンの動きが突然止まった。翼は羽ばたかせているが、その場に滞空して辺りの様子を窺っているようだ。
不意に訪れた絶好の機会を前に、ファロウは徐々に攻撃の狙いを定めていく。
そして――
「いっ……けええぇぇえええええぇぇ!!!」
強烈な勢いで加速していく切り株や大岩――そのうちのいくつかがドラゴンに命中し、ドラゴンの翼を打ち砕いた。
「た、倒した!? ……やった!」
ドラゴンは体力が尽きたのか、ふらふらとした飛行で地上へと墜ちていく。
その光景をしっかりと確認して――ファロウも緊張の糸が途切れたのか、へなへなとその場に座り込んだ。
魔力を消費し過ぎたのか、思うように体を動かすことはできなかったが、彼女の表情は達成感で満ち溢れている。
「ちょ、ちょっと休憩……」
そう言うやいなや、彼女はその場に倒れ込んだ。
草むらの上に横になると、晴れ渡る青空が視界に飛び込んでくる。
天気は快晴。空には今日も、4つの太陽が昇っている。
ポカポカ陽気と程良い疲労感で、目を閉じれば、今にもぐっすりと眠ってしまいそうだ――
「――――――」
声にならない悲鳴。
彼女が最初に感じたのは、本能的な恐怖。未知の戦慄。
次に、今の悲鳴が自分の喉から絞り出された声であることを理解した。
そして、ようやく全身が警告を訴えてきた頃には、時すでに遅く。
いつの間に現れたのか――彼女の視界には、悪夢が意思を持って動いていた。
「あ……ああ……」
巨大な体躯に雄大な翼。赤褐色に輝く頑丈そうな鱗。
鋭い牙を覗かせている口元からは、時折火が吹き上がっている。
他の生物とは比べ物にならない威圧感。災厄の象徴たる、異様な威容。
――四神龍が1柱、火龍アエレア。
絶対的な存在が、そこにいた。
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