薫る宿
その宿は繁盛していた。
私を含めて客は10人以上いる。
毎日同じ顔ぶれのようだ。
それも仕方のない事だろう。
なぜならこの宿はとてもいい匂いがするからだ。
私の名前は……いや、名前などどうでもいいか。
私は日々旅にして旅を栖とする者だ。
今回逗留している宿も、長い旅の中でたまたま見つけた宿の一つにすぎない。
四方に出入りのできる大きな開口部があり、よく風の通る気持ちのいい造りだ。
室内は居心地の良い大きさで明るく清潔である。
そして、この宿の最大の特徴はただよってくる香りなのだ。
その食欲をそそる匂いは恐らく厨房からくるのであろう。今まで嗅いだ事もないほど良い匂いなのだ。
旅慣れた者ならばその匂いだけでこの宿の価値を見抜き逗留する気になるだろう。
私も実際そのようにしてしまった。
宿側の戦略に見事に嵌められてしまったというわけだ。他の客もみな同じであろう。
客は皆、長逗留のようだ。
顔ぶれに変化もないのですでに顔見知りである。
互いに話しかける事はしないが、目が合えば軽く会釈をする。それだけで気持ちが少し晴れやかになる。
居心地のいい宿と節度ある客たち。
私も長逗留したい欲求が抑えきれなくなっている。
落ち着いた環境のおかげで私の心は随分と穏やかになった。
煩わしいあれやこれやの雑念は消え、今は自分と真っ直ぐに向き合う事ができる。
私はここに逗留したおかげで古い自分を脱ぎ捨て、真っ白な新しい自分になる事ができたのだ。
もうしばらくはこの宿で翅を休めてから、新たな気持ちで旅を続ける事ができるはずだ。
ん?
どうやら新しい客が匂いに釣られてやって来たようだ。
まだ若そうに見える彼もこの宿の魅力に抗えず、長逗留になるのではないだろうか。
出会いは一期一会。
新しく来た若い彼にしろ他の客にしろ、私の旅路の中でせっかく知り合えたのだ、少し話をするくらいなら迷惑にはならないだろう。
宿の天井を見ながらそんな事を思った。
「おぉー! すっげー入ってるよー。お母さん見て見てー」
「嫌あぁぁー! こっちに持て来ないで。汚いからすぐに捨てなさい!」
「あー! 白いゴキブリが入ってる! お父さーん! なにこれー!?」
「んーどれどれ。おぉー珍しいなー。脱皮をしたすぐ後のゴキブリは体が白いんだよ。でも物陰で隠れて脱皮をするからなかなか見る事はできないんだ」
「へー。じゃーこれってカブトとかクワみたいに売れるの?」
「はははは、いやいや売れないよ。白いのは今だけで一日もしたら普通の黒い色になるからね」
「なーんだ。黒に戻っちゃうのか」
「二人ともそんな事いいから、早く捨てなさい! ちゃんとビニール袋に包んで捨ててよっ」
やんちゃそうな小学生の男の子から渡されたゴキブリ○イホ○を、お父さんは袋に入れて口をしっかり縛りゴミ箱に捨てました。
こうして家庭内に平穏が訪れたのでした。
――おしまい――