第五話 キタローワンマンショー
劇場は天佑館に併設されており、外に出ることなく直接入ることができた。
今、最も演壇に近い入口に、キタローとフレアの姿がある。キタローは制服に着替えており、靴もスリッパからスニーカーに替わっていた。
扉の向こうではメイドたちが勢揃いして、主の到着を待っているはずである。気密がしっかりしているのだろう。話し声ひとつ漏れてこない。
「緊張するなぁ」
キタローは全身から力を抜こうと、手足をブラブラさせた。
「リラックスなさってください」
「俺はこういう場には慣れてないんだ。唇が乾く。水をもっと飲んでおくんだった」
それはいけません、とフレアが言った。
「演壇で漏らしますよ?」
「そいつは最低最悪の出来事だ」
「いつものご主人様でいればいいんです。何も国際連盟を脱退しようというわけではないんですから」
「堂々退場したくなってきたよ」
だが、昭和日本の外交官である松岡洋右は、強心臓の持ち主だった。そこまではなかなか真似できないようである。
「せっかくの好感度アップチャンスですよ? ここで一発決めれば、今夜にでも初体験をキメれるかもしれません」
「言うねぇ」
キタローは弱い笑みを浮かべた。
「ホントさ、朝に俺の朝勃ち見てドン引きしてたのは何?」
「初めてだったんです」
「なぬ?」
「男の人のそれを見るのは、初めてだったんです。私は耳学問なので」
「ああ、そういうこと」
かわいいところもあるじゃないか。
キタローは胸の奥に温かみを覚えた。
「不覚にもかわいいとか思ったりしましたね。私の計算通りです」
「おのれニセ孔明」
胸の奥の温かみは、「ちきしょー」という文字に変わって消えた。
「さあ、緊張もほぐれたところで、行きましょうか」
フレアの言う通りだった。話したことで知らず入っていた緊張の海を脱し、平常心を取り戻しつつあった。
なるほど、さすがのメイド長の手腕である。
「サンキュな」
「私はご主人様に奉仕するメイドですから」
フレアは手で扉の方向を示した。
「そして、あそこで待っているみんなも」
「そういうことだ、な」
「はい」
キタローはフレアに大きく頷いてみせた。
フレアもこれに小さく頷き返し、劇場への扉が開かれた。
入場する。
万雷の拍手が出迎えてくれた。来日した大統領かロックスターを出迎えるかのような大音声が、耳の中を支配した。
キタローはまた緊張の虫に襲われそうになったが、フレアの顔を思い出して堪えた。一歩一歩を確かに踏みしめて、演壇へと登る。演台にはマイクが設置されていて、声どころか息さえもつぶさに伝えてしまいそうだった。
さあ話してしまえ。ただし、ゆっくりとハキハキと、元気よくだ。
自分に言い聞かせながら、キタローは喉に軽くエールを送った。
「ありがとうありがとう。歓迎ありがとう。拍手ありがとう」
わずかに残っていた拍手が鳴り止む。
「マジで緊張してる。どういう態度でいけばいいのか、シミュレーションする暇もなかったもんな。自分らしいあいさつをしようと思ったけど、考えれば考えるほど自分ってなんだっけって感じになって、すげえわけわからなくなってる。だから、思ったままを言う。みんなもそのつもりで」
笑いが起こるようなところではないので、リアクションはない。
メイドたちはみんな立ったままだった。立ったまま直立して、新しい主を歓迎している。
いや、品定めしているのかもしれない。
座らせようかとも思ったが、ここはあえてそのまま進めることにした。
「まず、俺の名前は大谷喜多郎。アダ名は特にない。みんなキタローって呼んでた。ゲゲゲの鬼太郎とは字が違うからな。俺は大きい谷の喜びが多い郎だ。面白い名前って言われることも多いけど、結構気に入ってる。よく考えてつけてくれた父さんと母さんにはマジ感謝だわ。直接は言えないけど」
オーライ、いい感じに喋れてる。このまま行こうぜ。
キタローは自分に言い聞かせた。
「今日、俺はここに来た。呼ばれて来た。たぶん。もしかしたら、餌のついてない釣り針に食いついたのかもしれない。わからない。覚えてない。気づいたらベッドで寝てた。映画に出てくるようなやつ。ふわふわ、いや、さらさらのカーテンがついたベッドな。あれ、めっちゃ気持ちよかった。ありがとう。あ、俺、さっきからありがとうばっかり言ってる。でも、すみませんを連呼するよりいいよな、ありがとうって言葉。感謝だし気持ちいい」
ありがとうばかり言ってる、のところで小さな笑いが起きた。
知らず緊張していたメイドたちも、弛緩してきてくれているようだ。
「あー、一人でしゃべるのってつらいな。さっきまでさ、フレアがいっしょにいてくれたんだよ。メイド長のフレア。みんなの上司、でいいのかな。面白いのな、フレア。みんな誇っていいし、真似していいと思う。楽しく過ごせたわ」
フレアにいくつかの視線が集まる。彼女は劇場入口の暗がりに待機していたため、その細かな表情までは確認できない。
「俺はスティーブ・ジョブズじゃないし、明石家さんまでもないから、上手くあいさつはできない。笑わせることも。少しは笑われるかもな。お、今、笑ったかな。嬉しいね。特に何もしてないけど」
アップルの創業者とお笑いの大家を並べたのが面白かったのか、それとも本当に笑えそうな主だと思ったからか、また笑いの波が軽く起こった。
キタローは満足した。
「そう、自己紹介だ。こういう時は王道に乗っかっていこう。名前はさっき言ったな。キタローだ。年齢は十六歳。高校一年。せっかく天佑館に来たから、飽きて飽きて仕方なくなるまではここで永遠の十六歳でいるつもり。よろしく。得意な教科は国語。苦手な教科は数学。友達はあまり多くないけど、全くいないわけでもない。人生の中で本当の友達って言えるのは一人か二人でいいって、なんか有名なインド人が言ってたらしいから、俺もそれで行こうと思ってる。最高のダチ。親友な」
中国人だったかもしれない、とキタローは思った。
どちらにせよ些末なことだ、とも思った。
「けども、ちょっとだけ、今、考えが変わりそうだ。俺はみんなに知ってもらいたい。尊敬とかそういうのより、愛してもらいたい。そりゃ、ちょっとは気持ちいい方の欲望もあるけど、まずはキタローって男を知ってもらいたいと思ってる。だから、みんなも本当の自分をバンバン押し出してきて欲しい」
いやらしい言い方だったか。大丈夫、邪推だろう。
キタローの心配は絶えない。
「爆発なんだ。個性のトゲが欲しいんだよ。せっかくさあ、こういう謎空間? メイド空間? どういう風に言えばいいのかわからない場所で、どういう風に生まれたかわからないメイドばかりで暮らしてるんだから、せめて自分ってのをはっちゃけさせていこうぜ」
その通りなのだ。
彼女たちはこの時の狭間とでも言うべき異世界で、いつ来るかわからない奉仕すべき主を待ち続け、ひたすらに研鑽に励んできたのだ。
親の顔も知らず。
子の喜びも知らず。
「俺も、あまり目立つ方じゃなかったとは思う。レールに乗った高校生ってやつかな。不良らしくケンカしたり学校フケたりもせず。かといって、学校のみんなが友達ってほどにリアルが充実してるわけでもない。だから、今から変わろうと思う。三百人だ。俺のダチは三百人。リアルの二人とあわせて、三百二人。富士山の上でおにぎりを三回は食べられる」
友達が三人いれば良かったな。
キタローはちょっとだけ悔やんだ。
「仲良くしよう。正直、下ネタとか言うけど、そこは勘弁してくれ。あ、もし主としてふさわしくないと思うところがあったら、オブラートに包んで言ってくれ。ガラスのハートだから、直接言われると傷つくんだ。めんどいかもしれないけど、頼む」
これも本音だった。ゆとり世代と言われようと、打たれ弱いのは確かなのだった。
「とりとめがないあいさつだったけど、これからよろしくお願いします。新しいご主人様とやらに抜擢された、キタローでした」
大きく一歩退がる。
頭を下げる。
拍手が鳴り響いた。
独裁国家の式典のような、壮大な拍手。
もっと口笛とか鳴らしていいのに、とキタローは思った。
だが、自分もそんなことはできないとわかっていた。変わるのは彼女たちだけではない、キタロー自身も変わらねばならなかったのだ。