第四話 イスラム教の天国では処女とセックスし放題だそうで
上流階級の食事。
キタローが食堂で目にしたものは、まさしくそれだった。
彼は食材に関しては詳しくないが、少なくともスーパーの惣菜より何段階も上だと一目でわかった。そもそも食堂からして自宅の狭い台所とは比べ物にならない。いつも身を縮めながら食べていたのだ。ここでは空間が広すぎて、そういう意味で身が縮んだ心地になる。「を」と「が」の違いは、おそらく永遠のものだろう。
そうそう、とキタローは思った。彼はガッツリ系の食事をとりたいと思っていたのだ。朝も食べていない分だけ、腹が減っていた。
肉。荒ぶるように肉。それを貪り食らうビジョンを描いていた。
今、現実に目の前にあるのは、光っているようにすら見えるフィレステーキだった。注がれたデミグラスソースは、さぞや旨味を閉じ込めたのだろうという深く濃い色合いである。
こうなると白米が欲しい。
そう思った矢先、給仕役のメイドがほかほかライスの乗った皿を運んできた。
逆に怖い。
怖いが、うまそうだ。
キタローは座り、世話役のメイドにされるがままにナプキンをつけ、フォークとナイフの二刀流を構え、ついにステーキとの一戦に臨んだ。
「うまい」
これである。堪えられぬ味だった。今までの肉は科学技術が作った合成素材で、これこそ本物のフレッシュミートなのだという思いになった。もはやスーパーの見切り品は同じ肉だと感じられないだろう。そう予感させるほどの美味が、味蕾を駆け抜けていった。
「おいしいですか」
「うん、うまい」
フレアの問いに、キタローは早口で答えた。
「良かったです」
若きメイド長は表情こそ変わらなかったが、どこか安堵したような雰囲気をにじませていた。あくまで直感のため、もしかしたら気のせいかもしれなかったが、それでも新しい主人の機嫌を損ねまいとしているように思われたのだった。
食う。
食う。
飲む。
食う。
ちなみに、飲料として供されていたのは天然水だった。
いや、もしかしたら水道水かもしれない。
一つだけ言えることは、水とは思えないほど清冽な味わいがキタローの五感を刺激した。
満足だろう。
キタローの中で、欲望を司る悪魔がささやく。
満足に限りなく近いだろう。
そうだな、とキタローの理性を司る天使は答える。
しかし、天使も悪魔もとある見解で一致していた。
「うまいんだが……これだけじゃダメなんだよォ!」
「落ち着いてください。血圧が異常に上昇し、内臓器に深刻なダメージを負いますよ」
「詳細な指摘、ありがとう」
「どういたしまして」
フレアがあまりに淡々と言うので、キタローはぞっとした。彼女の居振る舞いはメイドでもあったが、凄腕の看護師にも似ていた。
ともあれ、問題が残っている。キタローの理性と欲望が揃って不平を鳴らす、ある点について指摘しなければならない。
「やっぱりな、爆発してない。料理は完璧だ。文句のつけようがない。うまい、うますぎる。そりゃ風だって語りかけるさ。しかも、運んでくれたメイドもパーフェクトな仕事だった。俺が生まれながらの王様かナチュラルボーン資産家だったら、それでよしとしただろう。しかし、俺は今日なりたてほやほやの暴君でね」
「注文が多そうですね」
フレアが足をわずかに動かし、かかとを揃え直した。これから主による指弾が始まるのだとわかっているのだろう。
「ああ、言おう! 愚痴のように聞こえるかもしれないし、個性爆発のアイディアも構想段階だが、ひとまずは一言物申す! メイドたるもの、味付けをちょっとくらい間違えてもいいじゃないか。運んできた料理をズボンにぶちまけて、ラッキースケベ展開に突入してもいいじゃないか!」
キタロー、魂の叫びである。
だが、フレアはやや懐疑的に眉を動かした。
「ご主人様。いちいち反論するのは差し出がましいのですが、それはメイドではなくウェイトレスの仕事では? また、ラッキースケベというより、マジスケベ展開の入口のような気がするのですが」
「フレアくん」
「はい」
「ホントにキツくなったね、当たりが」
「エンジンが温まってきました」
にっこり。
そんな擬音が見えそうな、フレアなほのかな笑みである。
「いいことだと思うよ」
お世辞ではなく、そう思う。
本当の自分をすっかり覆い隠されているのは、キタローとしては気分の良い話ではなかった。
もっとも、この天佑館が主を呼んでは取り殺すような、恐るべき魔女の巣窟でなければの話だが。
「そろそろ、ご主人様がパジャマから着替えていないことを指摘しようかと考えています」
「パジャマって落ち着くじゃん。年がら年中パジャマパーティーだよ。着心地が良くてセクシーアイテムにもなるとか、パジャマかなり高性能。みんな着ようぜ」
「劇場でのあいさつもそのままで?」
「さすがに着替えようと思う。俺の制服はあるか?」
「お望みとあらば、何でもご用意致します」
「いいね」
「メイドは主の希望を叶えるものですので」
口元を引き締め、フレアは軽く礼をした。
「セックスしよう」
ならばとばかりに、キタローもジャブを繰り出した。
「個別ルートに入っておりません」
あっさり受け止められた。
「だから、そのフローチャート的な断り方をやめなさい」
「味噌汁で顔洗って出直してきやがれ」
「喧嘩腰で断れとは言っていない」
「どうにも胸騒ぎの腰つきでして」
「やめなさい。JASRACさんはたぶん次元の壁とか飛び越えてくるから」
あっ、とフレアがわざとらしく言った。
「ご主人様、料理が冷えてしまいますよ」
「触れるのが際どい話題から逃げやがったな」
キタローはジト目でフレアを見やっていたが、料理が冷えるのはいただけなかったので、食べる方にも意識を向けた。
「実際、こういう日常の節々にドラマティックなイベントが欲しいんだよ。刺激だ、刺激。日常の中の非日常。毎日がドキドキするように過ごしたい。で、飽きたらまた平凡な日常に戻る。その心地よい繰り返しを味わいたいんだ」
「そうしたドラマティックなイベント例がラッキースケベですか」
「改めて掘り起こされると超恥ずかしいからやめて」
「失礼しました」
発言は怖いものである。冷静に検証されると恥ずかしいことこの上ない。封印したい過去にもなる。
手紙やメールはもっと怖い。文面として残るのである。下手したら一生モノの恥辱にもなるだろう。ゆめゆめ注意せねばならぬ。
「別にな、食パン咥えて角でぶつかれとは言っていない。ただ、完璧ってのはつまらないもんだ。完璧の由来になった和氏の璧は美しかったかもしれないが、全部が全部美しい輝きを放っていたら、結局はそれが平均点になる。つまらん。メイドの完璧さってのは、別の人間のドジがあるからすばらしく輝くんじゃないかな」
「おっしゃる通りです。そのような形で、この後のあいさつもアプローチしていただけますか?」
「よかろう」
キタローは肉を平らげてから、続けた。
「ただ、一つ問題がある」
「どのような問題でしょうか」
「俺は童貞だ」
「存じております」
「しかも、性欲に満ちた童貞だ」
「良いことだと思います」
「三百人のかわいいメイドを前にしたら、いきなり奇行に走るかもしれない。それでも、許されるんだろうか。天佑館の王、ご主人様になったからには、そういう振る舞いも笑って受け止めてくれるんだろうか」
耳を澄ますような仕草は、他ならぬフレア。
「えっ、今までのは奇行ではなかったんですか?」
バカにしてやがる。
「しばき倒したくなった」
「冗談です」
次の瞬間には真顔に戻っている。この切り替えの速さが、フレアという少女の長所であり短所なのかもしれなかった。スピード感がある点については、キタローは評価したかったし、好みであるとも言えた。
「わかってるよ」
「私はご主人様を信じております。今までのところはかなりのアンポンタン指数を計測していますが、まさかまさかの大穴激走であっと驚かせてくれるものと」
「待て。完全にコパノリッキーみたいな扱いになってるのは納得がいかない。フレアの中で、俺はどういう立ち位置なんだ」
「エロガキ」
フレアの即答だった。むしろ食い気味に答えていた。
「俺の股間のホワイトシチューをぶっかけてやろうか」
「冗談のミルフィーユです」
「まったく」
キタローはここで気づいた。
「待てよ? エロガキって言ったな」
「言いましたが」
「フレア、いや、この屋敷の全員も。みんな歳はいくつなんだ?」
キタローが言った。フレアはくるりと回れ右をした。
「おい、後ろを向くな。完全に主に背を向けて直立するな」
「宗教上の理由で答えることができません」
「そんな宗教は俺憲法で禁止してやる!」
はぁ、とフレアは再度向き直りながら言った。
「仕方ありませんね。お答えしましょう。実は永遠の十七歳なんです」
「ガチで?」
「ガチです」
フレアは近づき、声を潜ませた。
「しかもですよ。私たちはみんな処女で、処女膜を破っても一日後には再生しているんです」
「ガチで!」
「ガチです!」
今度はハッキリとしたやり取りになった。
フレアも元の位置に戻っている。
「そのイスラム教の天国みたいな言い分が間違ってたら、俺と二百九十九のメイドが見ている中、渾身の裸踊りをさせるからな!」
「……答えはウェブで」
「ネットねぇよ!」
「ありますよ。屋敷内ネットが」
「あるのかよ!」
なぜかダブルピースをするフレア。ワールドワイドウェブことWWWに引っ掛けたのだろうか。かなりうさんくさい。
「天佑館の諸葛孔明と呼ばれたかった私を侮りすぎです」
「呼ばれてないんだ……」
こんな孔明がいたら、三国時代が早々に終わって、三国志は味気ないものになっただろう。陳寿も報われまい。
「それでは、そろそろ皆に集まるよう放送を入れてきます」
「わかった。頼む」
キタローの同意を聞いてから、フレアはお辞儀をし、食堂から出て行った。
それから数分。
キタローがデザートの手作りみかんゼリーを食べ終わり、手元口元を吹き直した時のこと。荘重な鐘の音が鳴り響いた。どうやら本物の鐘ではなく、館内放送の合図のようだった。
「業務連絡。天佑館の全メイドは劇場に集合せよ。新しいご主人様の超爆笑おもしろ舞台挨拶が行われる。繰り返す。新しいご主人様の抱腹絶倒なテラワロス舞台挨拶が行われる。遅れずに集合せよ。業務連絡、以上」
キタローは「開いた口がふさがらない」という慣用句を思い出すハメになった。
「ご主人様として、おしおきの方法を考えておいた方がいいな、これ……」
それから、彼は真剣にガチおしおきかエロおしおきかを強要する理屈について、考えを巡らせていた。