07
その日――――昼になるのだが。こちらに来てから初めて夢を見た。
私は、一匹の獣になっていた。
毛並みは黒く、視線の高さからすると大きさは多分大型犬のそれと同じくらい。森の中で一匹、仲間も家族も無く、しかしそれが当たり前であると認識していた。涼やかな風が木々の葉を揺らし、頬を撫でていく。月の無い深い闇の中、なんだか何も無いこの穏やかさが幸せだと思っていた。
ふと喉の渇きを覚え、水音がする方へと身を翻す。4つの脚で地面を踏みしめ、たどり着いた場所は大きな川。どことなく見覚えがあるような気がしたが、どこで見たのか思い出せない。川の流れにそのまま口を付けて、ごくごくと水を飲んでいると、近くの草影ががさりと物音を立てた。はっとそちらを見ると、小さな女の子。こちらをびっくりした目で見つめている。長い黒髪の隙間から覗いた、大きな蒼い目がぱちくりとひとつ瞬きをした。
小さいとは言え、人間だ。人間は危ない。本能が警鐘を鳴らす。ぐるるる、と喉が鳴った。
少女はきょとんとした顔で私の方を見ていたが、瞬きをいくつかしたあと、
花のように、笑った。
ふっと目が覚める。何か夢を見たような気がした。寝起きのぼんやりとした頭で記憶を追いかけるが、断片的にしか思い出せなかった。
今日は、シロが先に起きていた。男は少し離れた木の下、幹にもたれて目を瞑っている。あれから男も川で血と汗を洗い流して、だいぶ身綺麗になっていた。全身を覆う形だった鎧は全て脱ぎ捨てたし、かなり身体は軽くなったんじゃないだろうか。服はど真ん中にざっくり切れ目が入っていたし、髪はぼさぼさだけど。
顔を見た感じ、おそらく二十代後半から三十代前半くらいだと思う。西洋人を思わせる彫りの深い、多分綺麗な部類に入る顔立ち。血が洗い落とされた髪はキラキラした金髪。細めだが大きな体躯。横に立ったことなど無いから身長は解らないが、多分190cmくらいはあると思う。高校の体育の先生が同じくらいだった。いやはやモテそうな男である。外見だけ見れば。
シロ、と声をかけると、ちらっと一瞬こちらを見たが、すぐに視線を男に戻した。見張っているのかもしれない。酷く神経質な印象を受けた。
男についていく、とシロは言ったが、どうやらすぐ近くの、森に隣接した村までのことだったらしい。そこまで見張って、その後はこの森を出ると言った。次のねぐらとなる場所を探すのだ、と。私はというと、どうしたい、という思いも目的も何も涌き上がってこなかったので、「シロちゃんについていく」という答えを出した。この身ではどうせ人間社会になじむことなどできず、共に過ごそうとすればいずれ全てが露見して追われてしまうのだろう。私に残された道はそうないのだと思う。だけど、ひとりぼっちになるのだけは嫌だった。
死ねば良かった、などとは言わない。思わない。シロが繋いでくれた命だ。だけど、時々心が折れそうになるのを抑えられないときがある。
ぼんやりと、傷跡を残した自分の左手の掌を見る。
男も、そう思う時があるのだろうか。
ふと視線を上げると、男がこちらを見ていた。どうやら目を覚ましたらしい。それとももしかしたら、ずっと前から目を覚ましていたのか。
『部下を、』
今はもう掠れていない、とても静かな声。
『部下を、弔いたいのだが』
私を見て口にする。言葉が通じぬというのに、普通に話しかけてくる。
私も、そしてシロも何も言わないのを見て、肯定と受け取ったのか。男は立ち上がる。やっぱり背が凄く高い。
『案内してほしい』
今度はシロを見て言う。シロはそれに返事をせず、こちらを見て確認するように言った。
――――お前は、あの場所に戻りたくないのだろう。
想像するに、彼は…あの刺された場所に、一度戻りたいのだろう。彼らを埋葬したいのだろうか。本音を言えば、恐ろしい。だが男の沈痛な面持ちを見ていると、嫌だとは言えなかった。
「連れて行ってあげて」
意図せずしぼりだすような声が漏れ出た。シロは無言で私を背中に乗せて歩き出す。男は静かな表情に戻って後ろに続いた。
そのまま半刻ほど経ったと思う。嫌な臭いが鼻をついた。あの時嗅いだ、きっと血のにおい。男がはっとしたように私たちを追い越し、臭いのする方へと駆け出す。脚がもつれそうな、どこか危なっかしい走り方だった。シロはそれを追わず、立ち止まってしまう。私は少しだけ迷って、でもやはり彼を追った。徐々にきつくなるにおいに、吐きそうになる。シロが優、と呼び止めるのが聞こえたが、私は歩みを止めなかった。
彼は、地面を掘っていた。転がっていた剣で、ざくざくと、ただ無心に。無心になることを自分に強いているように。私はただ、男の手を貸すことを拒むような背中に、視線を向けていることしか出来なかった。
男と同じ、騎士の鎧に身を包んだ、死体。それを背負い、引きずる男の姿は、罪人が十字架を背負う光景を思い起こさせた。兵士を埋葬し終えると、その上に手に持っていた剣を立てる。全く休むこと無くそこまで終え、やっと、男は膝をついた。
『すまない』
一言呟いて、ちいさく息を吐く。頭を垂れる男の表情は、髪に隠れてよく見えなかった。
知らないうちに私の横に座っていたシロに身を預け、明けゆく空を眺める。男はさっきから全く動かぬままだった。表情からは何も読み取れない。ただじっと、墓標のように立てた剣を見ていた。
空がだいぶ白んで来たところで、ずっと座り込んでいた男が立ち上がる。ふらふらと歩いて、地面から何かを拾い上げた――――おそらく彼が刺されて倒れていた辺り。真っ黒な鞘の剣だった。他の兵士が持っていた剣より細く、少し平たい。ちょうど刀をまっすぐにしたような形に見えた。睨みつけるようにそれを見ているシロに目をやって、男は眉間に皺を寄せた。
『帯剣くらいは許してくれないか。これが無いと困る』
返事をしないシロに焦れたように声を荒げる。
『お前達に剣を向けないと誓う。私がお前かそいつに剣を向けることがあれば、私を食い殺せ』
――――いいだろう。
獣は獰猛に牙を剥き、了承した。
村までは人間の足で歩き通して一日ほどだという。今から歩いて、夜中にはつくだろうとシロは言う。私がシロの背中に乗ることは既に決定事項のようだ。人間の足で、と言ったが多分小柄な私の短い足ではなく上背のある男の長い足で、ということなのだろう。体力を消耗しているような男の方が心配だったが、彼は特に反論もなく頷いた。
男は最後に兵達の墓を一瞥して、シロに『よろしく頼む』とそう言った。
シロは少しの間男を見つめていたが結局何も言わず、私を背に乗せて先導して歩き出した。