06
目を覚ますと、夕暮れ時、と言った風だった。都合はいいのだが、完全に昼夜逆転してしまった。大学生の夏休みみたいだな、と心の中で独り言を呟く。身を起こして、今まで感じていた僅かな痛みもすっかり抜けている事に気がついた。
ぐぐ、っと伸びをして起き上がる。気持ちのいい朝…じゃなかった、夕方である。横を見下ろすと、大きな白い獣と、それの顎に敷かれて苦しげな表情の男。ぼんやり眺めていると、男はう、と唸って目を覚ました。男は一瞬自分の置かれている状況が理解できないようだったが、獣にのしかかられているのを見て嫌そうな————というか、嫌悪の表情、と言えるくらい激しく表情を変えてシロの下から這い出そうとする。少しもがいていたが、力が上手く入らぬのかシロの身体が相当重いのか、身動きが取れないらしく、諦めたように嘆息した。そうして自身を見る私に気付いて、変な顔をする。
『おまえ…、』
声が酷く掠れている。ぐ、と詰まってごほごほ、と血液まじりの咳をすると、視線をそらしてはあ、と溜め息をひとつ零す。
男はどこか茫洋とした眼差しで、天上を埋め尽くす葉を見ていた。端正な顔立ちだと、思う。顎から目の下にかけて飛んだ血しぶきでよくわからないが。
夕暮れ時のオレンジ色の光の中で見ると、薄い茶色だと思っていた目が、まるで金色になったようだった。その目が一つ瞬きして、こちらに向く。
『お前は、何者だ?』
掠れているが、落ち着いた声。言葉がわからない、と首を振ると、眉間にしわを寄せられる。
『もう、別に殺そうなどとは思っていない』
「…なにいってるのか分からないんだけど」
『言葉がわからぬのか』
面倒くさそうな顔をされる。無性に腹が立った。
『この獣をどけてくれ』
「だから、なにいってるのかわからないんだってば」
『チッ』
こいつ、舌打ちしやがった。実に腹立たしい!好きでこんな状況に置かれているわけではないわ!
眉間にぐっとしわを寄せて睨み下ろしても、へっと鼻で笑われただけだった。この男、状況判断能力が欠如しているのではなかろうな!お前は今シロちゃんに押さえつけられて身動きが取れぬのだぞ!!つまりは私が明らかに優位に立っているのだ!!明らかに体格が違うとはいえ今なら一発ぶん殴るくらいわけないわ!!!凶暴な視線で睨みつけていると、どうやらシロが起きたらしい。ほんの少し起き上がってふあああ、とあくびをする。獣だから当たり前なのだが、綺麗に並んだ尖った歯に、少し恐怖を覚える。
「おはよう」
夜なのにおはようというのはなんだか違う気がしたが、目が覚めて最初に言う言葉はやっぱりこれじゃないと変な気持ち。シロちゃんも私の言葉におはよう、と返してくれる。かわいい。
シロはふと下を見下ろして、ああ、こんな奴いたな、と下賎なものを見る目つきをした。男は視線の意味に気付いたのか、眉間にしわを寄せてシロを見上げる。「シロ」と名を呼びたしなめると、獣はぷいっとそっぽを向いてしまった。
『お前達は、…』
男が何か話しかけてきたが、ぶつ、と途中で言葉を止めた。どんな言葉を続けるか探すような間があって、『どういう関係なのだ』、と続ける。私は言葉がわからないんだ、多分シロに向けて喋ったのだろう。しかしシロは華麗に無視する。『おい』とさらに言葉を続けるが、無視。シカトである。
「シロちゃん」とたしなめるように声をかければ、凄く嫌そうな顔でこちらを見てきた。『し…しろちゃん?』男が眉間にしわを寄せたまま、私の言葉を反芻すると、シロがさらにもっと嫌そうな、嫌そうというかもはや人を殺しそうな顔で男を見下ろした。口をつぐむ男に、やっとシロが口を開く。
————いいか、私はお前などどうなろうが心底どうでもいい。助ける気など毛頭なかった!むしろあの場でさっさと死ねば良かったのだ。お前のような、お前達のような聖騎士に情けなど…!
感情の昂りに、毛がぶわりと逆立つ。その背に触れると、シロは微かに身体を震わせ、黙り込む。
『ならば、何故助けた』
男は逆に、静かな面持ちでシロと目を合わせる。シロが苦々しげな顔で、男を睥睨する。
————私は助けていない。優が、助けた。助けられる手段があるのであれば、助けたいなどと。
『スグル?』
突然名を呼ばれて、びくりと視線を向けると、シロと同じくらい苦々しげな表情の男と目が合った。
『こいつが。……とんだ甘ちゃんだな』
男が、目を閉じて「はーあ」と口に出して大きな溜め息をついた。少し目を閉じたまま何かを考えるようにじっとしていたが、また視線を私に戻して口を開く。
『だが、命を救ってくれた事には、礼を言う』
真摯な眼差しだった。何となくだけど、礼を言われたような気がした。うむ、と頷くと、男は泣き笑いみたいな変な顔になった。
『さて、魔獣。そろそろ自由にしてくれないか。もうお前達を殺す気はない』
男がシロに何か言う。その目に敵意が無いと判断したのか、シロがゆっくりと身を起こした。ふう、と言って男もゆっくりと起き上がる。眉間に皺を寄せているところを見ると、やはりまだどこか痛むのかもしれない。だけど身体の痛みだけじゃなくて、心の中を映したような苦しそうな顔で、黙り込んだまま暮れ行く空に視線を向けていた。
空が完全に暮れてから、男はこちらに視線を戻す。ゆっくりと瞬きをして、シロの目と、私の目を見た。
『生きながらえたのは、私だけか』
私に向かって話しかける。この男は抜けているところがあるのか、言葉が通じぬ私に対しても普通に話しかける。英語ではないのは確かだ。巻き舌っぽい話し方でもないからイタリア語でもないと思う(偏見も混じっているけど)。ドイツ語っぽくもない。フランス語でもないと思う。というか、風貌が普通の人間過ぎて失念しかけていたが、こいつは第一異世界人である。当然喋る言葉も異世界語なんだろう、きっと。むすっとして見ていると、代わりにシロちゃんが返事をする。
————お前だけだ。
会話は、シロちゃんの返事から想像する事しか出来ない。
『そうか』と呟いて、男は視線を空に戻す。そのまま、問いを続ける。
『私に、魔物の血を流したと言ったが。その子供は魔物か』
————そうだ。半分。
『聞いた事が無い、人間の身で魔物の血を流されて生きながらえているなど』
————こちらの人間ではない。
『言っている意味が分からないのだが』
男の問いに対して、シロは端的な返答しかしない。焦れたのか、男が振り向いてシロに目を合わせる。シロはちらりとこちらに視線を向けて、一瞬迷ったような間をつくる。
————この世界の者ではないということだ。
『は?』
男は私の方を凝視する。
『人間の形をしているように見えるが』
なんだ、そんなに見つめるな。ジャージにポロシャツ姿とは言えうら若き乙女なのだぞ。
————構造上の差はそうないと思うが。
『……穴か』
————そうだ。
『人間が落ちるほどの穴など聞いた事が無いぞ』
————私もだ。
『………』
凝視である。や、やめろ。恥ずかしい。
『なるほど、彼女の血液を通したから私は死ななかったというわけか?』
————不本意ながら。
シロの返事はやはり端的で、どのような会話が繰り広げられているのか分からないが、どうやら自分が話題に上っているらしい。やめてくれ!注目されるのは嫌いなのだ!高校時代の文化祭でやった全員参加強制のクラスの演劇では「ただの樹」を演じきったほどである!影が薄すぎてセットかと見紛うたという最高評価だ!目立ちたくないが為に目立たぬ為の方法を研究し尽くしたのだぞ!!
男は私の表情を見てちょっと引いたらしい。待ってくれ、鏡を見せろ。私は今どんな表情をしていたのだ!
ふいっとシロの方に視線を移し、またシロに何か問いかけている。
『私の身体の状況が知りたい。どの程度魔に染まった』
————知らん。そのうち解る。日中出歩かなければ死にはしないだろう。
『…魔物とはもっと獰猛な生き物だと思っていたのだが、どうやらお前は変わり者らしいな』
————何の理由も無く襲いかかられて黙って殺される者がいるのであればお目にかかりたいものだな。
『………』
————我々は確かに人間を襲う。だが、先に襲いかかったのは果たしてどちらなのであろうな。姿形を恐れ、それだけで排されるべき存在としたのは。
なんとなく、シロの言葉の意味を理解する。魔のものというのは、得てして排されるべき存在につけられる。悪魔、魔女、魔物。異形のもの、理解の及ばぬ存在、災いをもたらすもの。その、なんと一方的である事か。その言葉の頭には、「人にとって」という言葉がつくのである。静かに語る白い獣を見て、背中を撫でる。ふかふかで、優しい獣。虎に似たその姿は、やっぱり綺麗でかっこいいと思った。
男は複雑そうな表情をして、黙り込んだ。彼は聖騎士だという。人の先頭に立ち、魔物を排除してきた存在。シロが感じている怒りも、助けたくないと言っていたのも、納得できるものだった。そして、この男が抱いているのであろう感情も、理解できるものだった。
「これから、あなたはどうするの」
耳慣れない言葉に、男は不思議そうにこちらを見る。
————お前はこれからどうする。
シロが代わりに聞いた。
『私は……』
逡巡したように見えたのは一瞬だった。
『あの男を殺さねばならぬ』
殺気が漏れる。ビビる私に気付いたのか、気まずそうな顔で目をそらした。
どうするっていったの、と言う問いに、面倒そうにシロが通訳してくれた。
まあ、なんていうか、そんなことだろうと思ったが。あんな衝撃的な裏切り、完全に蚊帳の外だった私でも脳裏に焼き付いてはなれない。夢に見そうである。
————お前が、我々のことを誰かに密告しないとは限らない。暫く見張らせてもらう。
む。こいつ今なんと言った。
『そんなことはしない』
————いいか、人間。私はお前達を信用しない。今までも、そしてこれからもだ。私だけならばいい、しかし優にまで危害が及ぶのを私は赦さぬ。それにあの人間の言葉なぞ、おまえ以上に信用できぬ。
あの人間、とは裏切り者の男のことだろうか。別れ際に何やら言っていたが、それが関係しているのかもしれない。
男は顔をしかめてこちらを見る。ちょっと待て、私だって反対だ。何もそんなに神経質にならなくても、この男ぱっと見は忠義を通しそうなタイプに見える。反論しようとしたが、じろりと鋭い目で獣に見下ろされ黙り込む。
『足手まといだ。御免被る!』
男も何か反論しているようである。もっとだ!もっと言え!
————私を足手まといだと言ったか。この矮小な人間ごときが!
怒らせてどうする!もっとなだめすかすような、そして納得させる言葉で説得しろ!応援する私に気付いたシロがきっとこちらを睨め付ける。
結局どんなに説得してもこの頑固な獣はうんと言わず、この男の復讐に暫く同行する運びとなってしまった。目的が欲しいとは思っていたが、こんな目的は全く望んでいない。