03
ああ、聞いてしまった。そうか、やはり、そうだったのか。
昔アニメで見た異世界トリップ物はどんなんだったっけ。おぼろげな記憶ではあるのだが。たしかなにかのきっかけで異世界にトリップしてしまって、それが王宮とかで、王子とか執事とか騎士とかそういうイケメン共にちやほやされるのである。ああ、メイドさんもだったか。メイドさんに裸に剥かれて「あっちょっと!一人でお風呂に入れますぅ~!!」「あっあっ~~~~!!」みたいな、そういう押し問答はお約束である。お約束にはお約束たる所以があるのだ。だって萌え…燃えるじゃないか。
それなのに私の異世界トリップは何だ。「たしかなにかのきっかけで異世界にトリップしてしまって」までしかかみ合っていないではないか。なんで一発で血まみれになってんの。なんで死にかけてんの。しかも魔物になってるってなんだ、散々だ。不運すぎる。
――――優。
質問をしてから無言で茫洋とした眼差しを空中に向けていた私を心配しての事か、獣が名前を呼んだ。
「…ねえ、なんで名前知ってるの」
――――血液から情報を得た。会話が成り立っているのもそれが起因している。
そういえばそんなことを言われた気がする。
「あなたのなまえは」
――――無い。好きに呼べ。
名前が無いのか。
私の困惑した表情を見て、獣は目をそらしてしまう。
――――名はある。だが人間に発音できる音ではないのだ。
「なるほど」
しかしこんな立派な獣である。せっかくだから最高にかっこいい名前をつけて差し上げたいところだが、流石にポンとは出てこない。
「仮にシロちゃんとかでいい?」
昔飼っていた白猫の名前である。残念ながら私にネーミングセンスは無い。
――――却下する。
スッパリ断られた。断られると意見を通したくなってしまうじゃないか。可愛いじゃないか、シロちゃん。まあなんというか、こんな立派な獣の姿だとシロちゃんよりシロさんって感じではあるが。この図体のでかさでシロちゃんとか、いっそ笑える。いや、でもそのギャップが萌える。
…という、私の心の内を読んだのか、ぐるるる、と歯茎を見せて唸った。そんな顔をされても気にしない。ふんっと鼻を鳴らされた。獣め、小馬鹿にした態度である。シロで確定だ。
少し、気分は落ち着いてきたように思う。
なんで、なぜ、という問いは結局「事故でした」の一言で片付けられてしまう。不運な事故でした、と。命が助かったのは、幸運だったのだろうか、不運だったのだろうか。幸運だったと思う、しかしこれからの人生を思うと不安になる。目の前が真っ暗になるほど。そして、
ここで私が生きる事に意味はあるのか。そう思った。
帰りたい、と切実に思った。どうやら日中は外で生活できないようだから、仕事は変えなくてはいけないだろう。でもあちらには家族が居て、友達が居て。関わるべき人たちがが、大切にしたいと思う人たちがいる。ここにはなにもない。獣と人間、一人と一匹、太陽の光に怯えながら生きるなんてまっぴら御免被る。
「…帰るにはどうしたらいいの」
意識が繋がっている、と言った。きっと私の考えている事なんてだだ漏れなんだろう。
――――帰れないだろう。
僅かな間を置いて、シロが呟くような小さな声で言った。私が何か言う前に、遮るようにそのまま言葉を被せる。
――――穴という物は、どこに開くかなど全く予測がつかぬ上、元の世界に繋がっているかすら定かではない。行って、帰ってきた者などいないのだから。それにな、元来、人間のような大きな物が行き来できるほど、大きな穴は開かぬものなのだ。小さな物が落ちる程度の穴で、しかもこちらとあちらの狭間で大抵すり潰される。
「でも…」
――――今回の穴は異例中の異例だ、優。永く生きてきたが、これほどの穴は見た事も聞いた事も無かった。
そんな。呟きは小さすぎて、溜め息のように空気を僅かに揺らしただけだった。
ここにいる、目的が欲しい。生きるのに目的なんていらないと思っていた。けど、全て無くして、帰る手段も無くて。どうしよう、どうしよう、と思考が堂々巡りして、結局何の解決方法も思いつかない。いやだ、帰りたい、帰りたい、と駄々っ子のように叫んで、喚いてしまいたいのを、ちっぽけな矜持が邪魔をする。誰のせいでもないのに、誰かのせいにしてすべてを押し付けてしまえたらどんなに楽だろうか。
頭が真っ白になって、やっぱりぼんやりと空を眺めて、そうして視界が歪んでいくのに気がついた。ああ、涙が出ている。瞬きをしたら、溜まった涙がぼろぼろと落ちた。すぐる、と心配そうな声がする。だけど視線を獣に向ける余裕も無く、顔を拭う事もせず、声を殺しながらぼたぼたと涙を流す。
シロはこちらを見ていたようだが、結局それから私の涙が収まるまで、何も喋らなかった。
そうして、あれからどれくらい経ったのか。泣き止んで、日が陰っていくのをただただ眺めていた。
涙には自浄作用がある、などというが、確かのその通りだったようで、いくらか気持ちが軽くなったように思う。先の事は不安だが、今私がこの小さな脳をフル回転させたところで、予測できる事が何も無いのだ。今は考える事をやめて、体力の回復に気を向けた方がいいのだろう。
シロはやっぱりずっと黙ったままで、私の気が落ち着くのを静かに待っているようだった。私から口を開くのをじっと待っている、ような気がする。気の遣い方が人間臭いのだ、この獣は。永く生きてきた、と言っていたから、人間と長い時間過ごした事もあったのかもしれない。
私の肉体はやっぱり酷い痛みを訴えている。傷を見た限り(…考えたくはないが)、身体が真っ二つになるレベルの重症を負っていたらしい。そしておそらく、それだけでは済んでいないのだろう。私がここに落ちたときの状況など、恐ろしくて聞く気にもなれない。
「のどがかわいた」
泣いて、頭が少しすっきりして、そういえばずっと前から喉が渇いていた事に気がついた。
シロが僅かに身じろいだ。
――――水場はここから少し距離がある。身体を起こすのも辛いのだろう。
獣の身では水を汲んでくるなんて事は出来そうにないし、自分で行く他ない。正直なところ腕を動かすことさえままならぬほど痛んでいるが、涙でぐしゃぐしゃな顔もどうにかしたいし、大量の血を吸ってカピカピのこのポロシャツもどうにかしたい。というか、身体はボロボロなのによく破けなかったものだ。穴に落ちるとすり潰される、とか恐ろしい話を聞いた気がするが、落ち方が良かったのかもしれない。
浅い呼吸を繰り返しながら、どうにかこうにか身を起こす。あぐらに近い形で座り込んで、一息つく。
「治癒能力が上がるとか言ってたけど、治るまでにどれくらいかかるか分かる?」
――――どうだろうな、…3日はかからぬと思うが。私の背に掴まれるほどの力はあるか、優。運んでやる。
それは助かる。握力はあまり戻っていないようだが、うまく身体をのせられれば、しがみつく位は出来るかもしれない。立ち上がるのはまだ不可能だろう。
ヒィヒィいいながら身体をシロの背中に預ける。獣の背中が小刻みに上下しているのに気付いた。こいつ、私が苦しむ姿を見て笑っているのである。
「ぶん殴るわよ……」
くそ、こうも痛む身体では本気で殴れない。自分の方がダメージが大きいだろう。
それが分かっているのか、シロは何も言わずに身を起こした。水場まで運んでくれるのだろう。
シロはゆっくりと歩いてくれた。衝撃が少ないよう、気を遣ってくれているのかもしれない。どれくらい歩いたのか、周囲はすっかり真っ暗になっている。真っ暗だという事は分かるのだが、どうやらひどく夜目がきくようになっているらしい。木々も葉も、遠くまでしっかりと識別できる。この痛みは最初の負傷が原因かと思っていたが、それだけではなく、身体を魔のものに浸食されたことによるところもあるのかもしれない。
開けた場所に出た。さらさらと水が流れる音が耳をくすぐる。水場の前までつれてきてくれたらしい。顔を上げると、思っていたより大きな川が見えた。綺麗な澄んだ水である。こんなに暗いのに、鮮明に見えるというのはなんだか不思議だ。
水のすぐ近くでシロが身体をかがめた。顔のすぐ前に水が近づく。そのまま流れに口を付けて、一口。思っていたよりずっと冷たい。美味しい。一口飲んで、喉がひどく乾いているのを実感して、さらにごくごくと飲み干した。ああ、生きてるって幸せ、思わず溜め息をつく。
そのまま水の中に落としてもらう。全身濡れてもかまわないから、全身にこびりついた血液を落としたかった。痛む手を持ち上げて、顔をごしごしと洗う。肩あたりで切りそろえた髪も一緒に洗って、水が見る見るうちに濁った赤色に染まっていくのを複雑な気持ちで眺める。赤茶に染まったポロシャツは元の白さに戻る事は無かったが、だいぶ薄い色にはなった。感触も元に戻り、肌触りも良くなったと思う。下に履いていた黒いジャージもごしごし擦って洗う。
はあ、とまた溜め息。すっきりした。
深呼吸して、身体の力を抜くと、さらさらと肌を撫でていく水が心地いい。
全身濡れ鼠で、乾かすにはどうしたらいいかとか、そんな事全く考えていなかった。干すのは勘弁願いたい。だってその間全裸になるしかないじゃないか、絶対いやだ。
結局そのまま水から上がるが、力も入らないし、風は冷たいし、身体は冷えるしで、そのままその場にうずくまってしまう。
優、と名前を呼ばれてそちらに顔を向けると、シロがこちらに近づいてくるのが見えた。そのまま私のすぐ横で身をかがめ、一緒に横たわった。暖かい。魔獣とか言っていたけど、やっぱり暖かくて、普通の獣みたいだ。このままここで眠ってしまいたい。
――――優、ここだと日中陽光を浴びる。移動しなければ。
うん、と返事はしたものの、正直もう動きたくなかった。気配で察したのか、シロはぐいぐいと私の身体の下に頭を突っ込んで無理矢理背中に乗せる。痛い痛い、やめてくれ馬鹿者が、と喚き散らしてやりたかったが、動く気力を無くした私を安全な場所まで運んでやろうというのだろう、仕方ない、我慢してやる。
そのままずるずると運ばれて、たどり着いたのは洞窟のような場所だった。そのときには精神的なものか肉体的なものか(どちらもかもしれないけど)、酷く疲れきって、吐き気と眠気で意識が朦朧としてきていた。吐き気をこらえて身を起こして、獣の背中から地面にべしゃっと座り込む。ごつごつした壁面に背中を預けて、息を吐いた。眠ってもいいかな、と心の中でぼんやり呟くと、是とする雰囲気が伝わってきた。暖かい抱き枕が欲しいなあ、とさらに胸中で独白すれば、呆れたような空気を纏わせつつも、近寄って暖をくれる。
どうして助けてくれたんだろう。どうして優しくしてくれるのだろう。眠りに落ちる直前のその問いには返事は無かった。