プロローグ
リョウは少年であった。
決して何物にも染められていない、未だ純心な少年であった。
潔白で柔らかく、非常に傷つきやすいが指で擦ればたちまち治ってしまうような、粘土のような少年であった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
だからこそか、リョウは先程自分をこの屋敷へ連れ込んだ青年を、ただ純粋に心配していた。
己よりひとまわりもふたまわりも大きな青年の、その、痛々しい右手の傷を気にかけていた。
窓を割ったときか、この部屋の床に手を着いたときか、若しくはそれよりもっと前か――鋭利な刃物で切りつけられたような、直径7㎝もの手の甲の傷である。
絶えることなく流れ出る血液は、踞る青年が乗るベッドのシーツをじわじわと赤く染め上げていた。
リョウが声を掛けいくら揺すろうとも、青年はピクリとも反応を示さない。
どこかに手当てに使えるものはないか。
リョウは少年であるが、咄嗟の判断で応急手当が出来る程度には成長を遂げていた。
割れた窓から入る月明かりを頼りに、薄暗い室内をぐるりと見回す。
人里離れた山奥だからこそ、都会の夜とは比べ物にならないほど明るかった。
長く使っていないのか全体的に埃を被った、しかし子供の目からでも上質であることがわかる、広い部屋。
リョウの自室より2倍もありそうな部屋を、アンティークの家具が着飾っていた。この屋敷を使っていた主人の趣向と裕福さが簡単に見てとれる。
せめて布があればとクローゼットに手を伸ばしたところで、その異様さに気付いた。
「釘が打ってある…」
縁を金で装飾された数々の家具それぞれに、バッテンを作る形で木の板が打ち付けられていた。
クローゼットに始まり、本棚、アクセサリーの詰められた木箱に至るまで。鏡にさえ、板は打ち付けられていた。釘が装飾をことごとく潰している。
先程も言ったように部屋は長らく使われていないようなので、前の持ち主がこうした事は確かである。
例えば、これらは全てなにか特別な思い入れがある家具で、思い出事封印するよう釘を打ったとか、そんなドラマが潜んでいるのかもしれない。
それならば何故…何もないただの壁一面にさえ、この『バッテン』は存在するのか。
この部屋は、もっと言えばこの屋敷全体は、何かを否定している。
リョウは恐怖した。
それは初めて訪れた古屋敷に対してでも、その古屋敷に自分を連れ込んだ見知らぬ人拐いにでもない。
部屋から溢れ出る極上の狂乱。人が作り上げたであろう狂気の城。『バッテン』を意識した瞬間に感じた何者かの憎悪。
青年のための布を探す気さえすっかり失せて、この不気味に押し潰されないよう膝を抱えて、リョウは青年の横で動けなくなってしまった。