生きた領域
「綱子ちゃん。ここか!」
沿道には鬼の角が刺さっていた。ただ人には見えないそれはまだ青くきらめいていた。この領域は生きている。
その横にはカイロが一つ落ちていた。彼女はここに絡め取られたんだ。
「綱子ちゃん!」
僕は息を止めて身体を固くした。硬化。間の者が使う力その壁、閉鎖領域を鏡のように殴り壊す。裏技中の裏ワザ。僕だけのとっておき。力任せに術を破ると身体の力を持っていかれる。下手したら死ぬことだってある。でも僕は今まで死んだことは無い。
僕の体はしなやかだ。腫れる事も、壊れる事もない。それゆえ死は遠い。僕にとって遠くにあるものだ。壊れたら壊れたで、その先が無いのなら、僕はそれまでだ。恐くないわけじゃない。その先を考えるのが面倒なだけだ。
だから僕は今できる事をするんだ。前向きに。
「僕はわがままなんだよ! 綱子ちゃん!」
僕は閉鎖領域に足を踏み入れた。
瞬間、世界が逆さまになった。
「何だ?」
僕は本来、探索の仕事の専門家だ。実戦をした事がないド素人だ。争いの地に立ったことはあっても、表立っての事ではない。よって、前向きに緊張する……。
どさり。僕の目の前に突然、どす黒い鬼の要石が落ちた。人抱えあるほどの大きな石だった。雑魚鬼の十倍の大きさの石だった。薬石が辺りに飛び散る。
落としたのは綱子ちゃんの桃色の刀。
そして、結界の中は予想外の鬼だらけだった。
「うわあああああぁぁぁ」
思わず叫んでいた。鬼たちは桃色の刃に当てられて消え、黒い薬石に変わる。
綱子ちゃんは逆さまの世界に立っていた。湖に映る月の上に立って薄桃色の刀を振るっていた。そして悲しそうに僕を見た。本当に悲しそうだった。
「どうしてここに来たの?」
彼女の手の中にあった刀に色には見覚えがあった。彼女のマフラーと同じ色だ。
その刀は鋭く輝き、身体の毛をすべてそぎ落としてしまいそうな凄味があった。鬼の絶対防御を貫通する無形の刀。刀はマフラーに姿を戻した。彼女の首元ではたはたとなびく。
「……君が気になったんだ。放っておけなかった」
綱子ちゃんは下を向いた。
「心配はいらないわ。刀なら数え切れないほど持っている。あなたは去って」
逆さまの世界の空の上、黒い剣が無数に天を覆っていた。全部黒鋼だ。
「これは」
「敵の領域の中に私の領域を張った。黒鋼は契約で手に入れた分剣」
分剣は雨のように落ちてきて無数に目の前の鬼の体に突き刺さった。
綱子ちゃんは無表情で鬼を回し切る。
大きな鬼たちは要石になり、崩れ落ちて行く。僕の指先に震えが走った。
「私が恐い?」
いいやと首を振る。
「カッコいい。戦うマフラーは!! ヒーローの証だ!」
「変態」
「鬼を狩るって、いつもこんな事をしているのか?」
「いつでも。だって私はうまく舞えないからいつもこんな感じよ」
「だからと言って、簡単に武器を人に渡してはいけない。危ないじゃないか」
僕は彼女のマフラーに戻ったピンクに触れた。瞬間、黒いしみがマフラーに浮いた。しまった。
綱子ちゃんは僕の手を握った。僕の指の間から黒い血が流れていく。
彼女のマフラーで切れてそうなったのだ。
僕の手がマフラーに触れてそうなったのだ。辺りの空気が一気に冷えた。
綱子ちゃんから霊気が噴き出す。
「あなたは鬼なの?」
彼女は僕の体にいきなり無形の刀の刃を埋めた。うげ。
「ちょっと待って……かなり痛いんですけど……何するんだよ? うあああ……痛い……痛い痛い痛い痛い。痛すぎる……」
「どうして何も言わなかったの? この刀は霊的なものを傷つける刀よ! この刀で切れる人間は不浄の輩でしかない! よってお前は不浄の輩だわ!」
やっぱり鋭いな。
僕が気になる女の子だけの事はある。
「気がついたのは君が二人目だよ」
「くたばって。狂う前に」
彼女の攻撃が流れるように落ちてくる。僕は身体を硬化した。激しい音はするけれど刀は貫通しない。 鬼専門の刀では僕に致命傷を与える事は出来ないらしい。
「死にたくない。まだ僕は長い物が大好きな女子とお付き合いしていないからね。一句。【女子抜きで 覗きは出来ぬ 更衣室】字余り」
刀が僕を打つ。あまりの痛みにあとずさった。切っ先は獰猛に僕を狙う。狂犬のようだ。主を亡くした狂犬。
おおおお。その時、僕の中の何かが叫んだ。綱子ちゃんは息をひそめた。
「お前……やっぱり、身体に鬼を飼っているのね! 切るわ!」
「待ってくれ。話を聞いてくれ!」
こればかりは複雑な僕なりの事情があるというのにいきなり切りつけるってなんだ。
「鬼じゃないよ。飼っているのは……狼なんだ」
綱子ちゃんは顔を真っ赤にして怒った。拳を振り降ろし、抗議するように顔をあげた。
「お前は何を考えているの。狼なんてこの国ではとっくに絶滅して!」
僕は目の色を金に染めた。金の色は満月狼の印。
「僕は意外とドジっ子なんだよ。大事な場面で転んじゃうようなドジっ子なんだよ」
「どういう意味?」
「こけてはいけない場面でこけたんだよね……」
敵の前で不様に転んだ。
「滑って転んで満月狼に噛まれたと言ったら、信じてくれるか?」
狼に噛まれたら狼になる。世の道理だ。
「そんな馬鹿な奴がいるものですか!」
綱子ちゃんはいぶかしげに僕を見ながら、腕を組んで頬をふくらます。
「ともかく、親戚が英雄の一族で……僕は身の内に狼を飼っている。刀の一族から外れたいけど、刀の一族にいいように利用されている。飼い殺しだよ。妹たちにはそんな事、知られたくないし。前向きに困っているんだ」
綱子ちゃんはうちの一族とは無関係な人だからうっかり口を滑らせてしまえる。
僕も修行が足りないな。悩み相談なんて。
「誰にも言うなよ」
「利用って何なの? 見逃されているの?」
「見放されているんだ。でも妹たちをこの道に進ませるわけにはいかなかった」
「大事なのね。妹さんが。それで技を磨いたの? 馬鹿じゃないの?」
僕は戸惑いを覚えた。クールな綱子ちゃんは心配そうに僕を覗き込む。恥ずかしい。見透かされた気分だ。
「昔は一生懸命修行した。誰かを守りたくって……王子様になりたい時期があったんだ。僕は前向きに恥ずかしい奴なんだよ」
恥ずかしい男なんだよ。
「好きな子がいたの?」
「うん」
「おままごとだったの? 本当に好きだったの?」
あれは愛だったと思いたい。思いたい僕がいる。
「僕は……何も出来ない僕が嫌だったんだ。憎かったんだよ。だから何かを出来る人になりたかったんだ」
可哀想な人を救える人になりたかった。
綱子ちゃんは僕に向かって飛んできた三匹の雑魚鬼を切り捨てた。
黒鋼の分剣に貫かれて生きていた雑魚たちを片付けていく。
振りかえりざまに五匹を石に変え、残りの鬼に回し蹴りを決める。
「皓人。お前、今幸せ?」
「うん?」
「幸せはあったの?」
「幸せだよ。何もない事が幸せなら、そうだったんじゃないかな」
綱子ちゃんは刀を僕に振りかぶった。冷徹な目で僕を見ている。
こんなに話してもわからないのか、綱子ちゃん。
背後から黒い鬼が僕に迫っていた。
綱子ちゃんはその鬼を倒して石に変える。
「狼がここにいたなんて知らなかった。道理で鬼が狙う。狼なんて、最後には正気を無くし、人に襲いかかる魔物になり下がる存在。幸せだったのならここで始末しておくべきよね? 生きていれば生きているだけ可哀想だもの」
綱子ちゃんは目を閉じた。僕の前に立ち、刀を振りかぶる。その綱子ちゃんを鬼たちが襲う。
綱子ちゃんはヘドロを撒き散らす鬼の群れに突っ込んでいく。
「やめろ! 無理するな!」
綱子ちゃんはたった一人で、その鬼もねじ伏せた。回転し、刀を振り下ろす。中くらいのヘドロ鬼は要石に姿を変え落ちる。たくさんいるヘドロ鬼たちは次々石になって飛び散ってい行く。
綱子ちゃんもよろりと膝をつく。
「綱子ちゃん! 僕は狼に変身できる。それで戦いを手伝う」
「来ないで」
僕は彼女に肩を貸す。
「僕の場合、よくわからないバランスで正気が保たれているらしい。刀の一族だから壊れずに済んだんだって英雄は言うよ。一族にとって僕は厄介なんだろうね。始末したいけど、出来ないんだと思う。便利だから。でもいつだって、命を狙われている。僕は一族の厄介者だ。つまはじき者だ。だから、普通にこだわる。普通に見えるように生きる。昔からだ。変態じゃダメなんだよ。普通でないと生きていけない。死んでしまう。殺されてしまうんだ」
綱子ちゃんは僕に無形の刀の柄を押し当てた。僕を傷つけないように背をなぞる。
「お前は何の英雄の一族なの?」
僕はにやりと笑った。お答えしよう。
「毒に弱く、黒髪で、銀を扱い、人類最速! 雪のように白すぎるほどに白くわがままなお姫様だよ。うちの英雄は」
綱子ちゃんはすべての鬼を石に変えた。
なるほど、赤雪姫の一族ねと呟く。
「私の刀は無形。鬼切り師の一族。赤雪姫は今の世に?」
「いるにはいるけど……壊れているというか、沈んでいるというか。僕の親戚の中に居る」
綱子ちゃんは両腕を広げ、腕を一回転させた。刀はマフラーに戻る。
マフラーが儚く揺れて僕の心臓がきゅんきゅんした。長いものっていいな。
やっぱりとてつもなくカッコいい。
「ならば私も赤雪姫の一族の前で、真名を名乗る……」
「おいおい。再来じゃないと真名など持っているはずが……」
綱子ちゃんは黒鋼を正眼に構えた。腰を引き、刀を構える。
「我が名は鬼退治の専門家、渡辺の綱子。源頼光四天王の一人!」
僕は思わず首をかしげた。なにそれ。
「誰? マイナーな英雄?」
「カッコよく名乗ったのにひどいわ! 大嫌いよ」
いつもクールでドライな綱子ちゃんは顔を真っ赤にして僕をぽかぽか叩いて怒りくるったのだった。