誰が好きなんですか?
真里菜ちゃんが僕を手厚く看護してくれた。
海美は空美の糸を大事そうに持っている。
綱子ちゃんは僕に甘えている。
戻ってきた僕らを赤雪姫は迎えてくれた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
僕は弱々しい笑顔を向けることしかできなかった。
綱子ちゃんは僕を抱きしめた。
「頼光様」
「綱子ちゃん、綱子ちゃん。落ち着いて」
「はい。綱は落ち着いています」
「良い子にしていてくれ」
「はい」
赤雪姫はその様子をじっと見ている。
「皓人。その子、壊れているわよ」
赤雪姫は目を半眼にした。
「なんでそんな風に、僕をなじるんだ、赤雪姫」
「覚えていないのならそれでよいのですわ。わたくし、馬鹿は嫌いですのよ」
「どういう意味だ」
「いえいえ。あなたが壊れた者に興味が持てなくなったのは、すべて空美の所為ですからね」
「空美の?」
耳を疑う。
「戻して差し上げますわ」
赤雪姫は空色の糸を飲み込んだ。赤雪姫の真っ赤な衣装がもとの色に返る。
空美は膝を抱えて震えていた。
「助けて。助けて。怖いの。怖いよ」
「お姉ちゃん」
海美は空美の手を握る。
「私様はここだよ。ここにいるよ。お姉ちゃん」
空美は震えた。
「助けて。怖いよ。怖いよ。海美! 助けて」
「お姉ちゃん」
僕は思い出し始めていた。
そう。あの時、僕は赤雪姫と限界の対決の後、僕は。限界の懐から空美の糸をかすめるように取り戻したのだった。
空美は完全に崩壊しかけていた。僕は糸を読んで修復しようとして、空美の心を初めて読んだ。
空美の心は支離滅裂で僕は、半分まで修復してそれを途中で放棄した。耐え切れなくなった。
意味不明になった空美の心を支えきれなくなったからだ。
心が耐え切れなかったからだ。
その時、限界が現れて、笑顔で空美を連れ去って行ってしまった。一番支えなければならない時に僕は弱かった。
僕は壊れた者が嫌いになった。壊れた物はどんどん捨てた。僕は……僕は……。
「海美。空美をここに。今度こそ修復する」
勇気と熱意をもってこれにあたる。
海美は神妙な顔で僕の隣に並んだ。
「頼む」
こんな顔の海美を僕は見たことがない。僕は海美の肩を抱いた。任せろ。
心配そうな真里菜ちゃんと綱子ちゃんが僕を見送る。
僕は赤雪姫の領域の中でワンダーランドを開いた。
赤い雪が降る中を僕は空美を抱いて歩いた。
僕は空美の体の空色の糸に触れる。
空美は暗い場所に立っていた。
『助けて。助けて』
「空美」
僕は空美の前に立った。
『助けて。限界が怖い』
僕は空見の手を握った。
「もう大丈夫だ」
『何が大丈夫なんだよ! 大丈夫じゃないよ。あの男は皓人を狙っているんだよ。大丈夫じゃないよ!』
「僕を?」
空美は僕の手を強く握った。
『皓人は限界に狙われているんだよ。皓人のお父さんが死んだのは限界の所為なんだよ』
「僕の父が……」
でもそれは情報操作じゃないのか?
僕の父は病気で亡くなった。
『違うよ。限界がはっきりそう言ったんだよ。皓人のお父さんを消したのは僕だって』
「そんな」
赤ずきんは限界を追っている。対決するために。
母さん。
空美は僕の手を握りしめた。
『私は皓人が好きだよ』
「空美。聞いてくれ」
『なのにあれから一年もたった。私は忘れられて当然だよ。あんなに一緒にいたのに。限界は怖い男だよ。皓人を狙っている。私、絶対守ろうって決めていたの。私を助けちゃだめだよ。大変なことが待っているよ。でも、助けて』
ハチャメチャに飛び交う思考。
「しっかりしろ、空美」
『しっかりできないよ。しゃんとさせて。ダメ。助けないで。助けて』
僕は空美の手を掴んで抱き寄せた。
「しっかりさせてやる」
僕は空美のおでこに触れた。
そこから引き出した糸を口にくわえて一気に引っ張る。
右手を左手、両手を使って丁寧に編み上げていく。
三つ編みだ。
その途中で鈍色の糸を見つけた。
「なんだ。これは」
蛇のような糸。間違いない。平賀限界の糸。
僕はその糸を掴んだ。
両腕がチクチクする。気がつくと僕の両腕を糸が浸食していた。
不意に記憶が裏返る。忘れたはずの父の記憶だった。
「皓人。いいかい、油断してはならないよ。蛇に呑まれてはならないよ。蛇は飲み干すんだ」
僕はそうはしない。そうした所為で父は病気になった。
蛇を焼き切る力が欲しい。
僕のワンダーランドの中、武者小路さんは颯爽と僕の前に現れた。キセルの火をふかす。
「いいですか? 旦那。火を分けて差し上げます」
「ありがとう。武者小路さん」
僕はその炎を貰った。
鈍色の蛇の糸は次々と燃え落ちていく。
一年前ならこんな芸当出来なかった。だからあの時の僕に空美は助けられなかった。
だから今は。
溢れ出す鈍色の蛇をすべて焼き尽くす。全ての糸を編み込んで僕は空美のおでこを叩いた。懐かしさに 胸がいっぱいになった。
「お帰り」
「ただいま」
赤雪姫が指を鳴らす。僕の中で空美との記憶が泡のように溢れた。
ワンダーランドの図書館に思い出の本が貯まって行く。
その横で静かに俳句の本を読んでいるのは。
「頼光さん!」
「君が一分は生きられるって言ったんだよ。忘れたのかい? 今回はちょっと無理をしたよ」
僕は大声で泣いた。見っとも無く泣いた。みんなが協力してくれたおかげだ。
みんなのおかげだ。
みんなのおかげで空美を助けられた。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
懐かしさで胸がいっぱいになる。
「空美」
「皓人」
「空美」
僕はワンダーランドを閉じた。向こうから海美が近づいてくる。
「お姉ちゃん」
「会いたかったよ。海美、真里菜ちゃん。ありがとう。あら、あなたは……だあれ?」
綱子ちゃんは居心地の悪そうな顔をした。
「綱子。梔子綱子です」
綱子ちゃんは僕の隣で叫ぶ。
「皓人。頼光様。頼光様は!」
「元気だよ」
心配ない。心配ないんだ。彼はまだ生きられる。
「皓人。ありがとう。私、私……」
綱子ちゃんはわなないた。
「なんだい、綱」
「私、空美に焼きます!! 焼いてしまいます!」
「なんですと」
「なんで。なんで。綱子ちゃん!」
思わず動揺する僕と空美。
「なんとなくです。ノリと勢いです!」
「そんなもんで焼くのか? 綱子ちゃん!」
「皓人と私はもういいなずけでも何でもないんだよ。ただの従姉なんだよ」
綱子ちゃんの肩を握りしめて叫ぶ、空美。
「あなたは元いいなずけです。家のことなんて放っておけばいいんです! あなたはもっと自由にやらなくてはダメです。我慢なんかしているから限界に付け入られるんです! あなたはもっと自由になりなさい。行きますよ! 自由の拳」
綱子ちゃんは空美を殴った。
「何するっスか! お返しをしてやるっス」
「あなたは自由になりなさい! あなたは間違っている! あなたはもっと自分に素直にならなきゃいけないのに! 間違っています!」
綱子ちゃんは一筋涙を流した。
「なんでわからないのですか! 私たちは、もっとよくなるために出会ったんです! それが何でわからないんですか! 空美!」
「綱子ちゃん。ありがとう」
空美は綱子ちゃんを抱きしめる。
真里菜ちゃんはにこにこ笑っている。
海美は少しはにかんだ。
「お帰り。お姉ちゃん」
「ただいま」
空美は僕を強く抱きしめた。
「助けてくれてありがとう! 皓人」
懐かしい笑い声が帰ってきた。
空美は僕と腕を組む。
「頭皮は揉まないでね。皓人」
「なら、川柳を読んでもいいか?」
「皓人の川柳は俳句じゃないの?」
「ないんだよ」
「あいかわらずうどんが好きなの?」
「好きだよ」
空美は大粒の涙を流す。君の涙は流れ星だ。
綱子ちゃんが僕を見上げた。
「本当によかった」
綱子ちゃんは幸せそうにほほ笑む。
僕は綱子ちゃんを見つめた。好きだ。
みんな好きだ。大好きだ。誰一人かけても取り戻せなかった。
空美は綱子ちゃんを抱きしめた。
「好きっス! 綱子ちゃん」
「何をするんですか。横志摩空美!」
「大好きっス。綱子ちゃん可愛い」
僕は途方に暮れた。僕の右手はどこにやれば?
「【なんだかな おいて行かれた 気分する】」
真里菜ちゃんが僕の隣に並ぶ。
「みんなで手に入れた勝利ですよねっ」
「お姉ちゃんはボケだから導いてやってくれ。皓人。もちろん私様も導け」
僕は空美と向かい合って膝をおった。
「なんだろう眩暈がする」
「皓人。ただいまだよ」
空美が僕を支える。ありがとう。空美。こんなに嬉しいことはない。
綱子ちゃんも僕の隣に立った。
「でもやっぱり綱子はみんなに愛される皓人に焼きもちを焼きます」
「それでいいよ。僕はいつもの綱子ちゃんが良い」
真里菜ちゃんがほほ笑む。
「先輩。私も焼きもちを焼いてもいいですか?」
海美が叫ぶ。
「幼馴染を忘れるなよ」
空美が両手を広げた。
「みんなで皓人を取り合うのはどうっスか? 争奪戦っス」
「ちょっと待ってくれ」
僕は砂を吐きそうになった。みんなが僕を見ている。
「誰が好きなんですか?」
嬉しそうな綱子ちゃん。
「誰を好きなんだ?」
面白がる海美。
「誰が好きなんですか?」
真剣な真里菜ちゃん。
「誰が好きなんスか!」
ぼけ満載の空美。
「時間をくれ。みんな好きだから」
みんなはにこにこ笑って僕を囲んで両手を組んで笑う。
水神様に柱にされた人々はみんな元に戻った。
僕は幸せな気持ちと同時に随分疲れた気持ちでその場に崩れ落ちる。
地獄に筋肉痛を体中に受け、それでも僕は確かに幸せだった。