すべて失われた
佐伯皓人。僕は日記を読む手を止めた。
現在、僕は綱子ちゃんが好きだ。大好きだ。でも綱子ちゃんは僕のことが好きじゃない。
どうしてあげればいいのかわからない。
どんなに親しく話をしていても綱子ちゃんは頼光さんの影を追う。僕の向こうの頼光さんを見ている。僕は、それが悲しくてたまらない。
でも僕は海美や真里菜ちゃんも大好きだ。
親戚だけが好きだった僕は今、他の人も好きだ。今はそう変わった。そんな僕がこの日記の先を読むことを躊躇している。この殴り書きのその先を読むことを恐れている。
読んでいいのか。空美。
海美。お前は姉の日記を、お前はもうこれをすべて読んだのか。僕は平賀限界が恐ろしい。
遭いたくない男だ。彼には会いたくない。会ってはならない。
いつの間にか僕の部屋に赤雪姫が現れていた。
「ごきげんよう」
「あんたどこから」
「窓からです。いいですか?」
赤雪姫は荘厳と告げた。
「読みなさい。空美の気持ちを知りなさい。あなたは引きずられている。あの男に。それを断ち切りなさい」
「あの男」
「平賀限界です。押さえていたあなたの闇を解放します」
僕はのけぞった。
「それならまるであんたが僕のことを、助けてくれたみたいじゃないか」
「真実を知って高校生になりなさい。あなたは成長しなければならないのよ」
僕の目の前は闇に包まれた。
そしてあの時の風景が広がった。地獄のような風景が。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
オッス。私、空美っス。
人は変わらない。変わるはずがない。変わったとしてもゆっくりと変わって行く。
ナメクジみたいに変形していく。その時、その場所をゆっくりと変えていく。私は変われたのだろうか?
変われるのだろうか?
「カナデちゃん」
カナデちゃんはいつもピクニックをしていた池のほとりでうずくまっていた。ボロボロだった。
苦しそうだった。
「空ちゃん。おじさんはどうだった? 来てくれる?」
私は平賀限界を好きになれない。
「来てくれない。川瀬君は? 川瀬君はどうなったの?」
そこには柱が一つあった。
「私をかばったの」
カナデちゃんは泣いていた。
「徹君は?」
「徹君も柱にされたもん」
遅かった。カナデちゃんは私に縋り付いた。
「川瀬君が柱になったから、徹君は水神様に突っ込んでいったの」
池の水がたゆたっている。淀んで、藻や水草で汚い。
『私は……お前たちを恨む』
どろどろの水神が口をきいた。
「どうして!」
私は先祖伝来の千牙刀を構える。
カナデちゃんは起き上がって叫んだ。
「あなたが私の妹を柱にしたから! だから水を汚したんだもん」
『あの子は私の傍にいると言ってくれた。傍に置いて何が悪い!』
「生け贄にすることないでしょう!」
私は走る。
水神は暴れ狂った。牙をむく。辺りを見回すと、近くの町の人たちがみんな柱になっていた。天に届きそうな柱に。水神は笑った。
『壮観だろう。みんな私を汚したものたちだ。私を穢したものたちだ。当然の報いだ』
私は身を引き絞った。
「守るべき神を狩るのは気が引けるけど、友達を生け贄にするくらいなら!」
私ははねた。水神の尾を切り捨てる。それだけで水神は形を失っていく。
こんな簡単に倒せてしまうの?
水神は崩れ落ちながらつぶやいた。
『私は消えゆく神。あの子は自分を生け贄にすれば私が長生きできると言ってくれた。私はその申し出を断ったが、あの子は私の話を聞かなかった。昔、私がこの池でおぼれた彼女を助けたことを恩義に思っていたらしい。だが私は頑としてその申し出を受け入れなかった』
「なら、だれが妹を柱にしたんですか?」
カナデちゃんは恐る恐る震える声でそう言った。
私も手が震えた。もしかして。一人しか心に浮かばない。そんなまさか。
『平賀限界』
水神は零れ落ちた。力尽きて動かなくなった。
水音がする。振り返ると池の上に平賀限界が立っていた。
「おめでとう。神殺しさん」
「平賀限界」
「おじさんがなんで、どうして真由里を!」
「あの子が望んだからだよ。水神の生け贄になりたいって」
「その話をなぜ私にしなかったの?」
カナデちゃんは震えていた。
「こうなると、空美さんがでしゃばってくれるって思ったからだよ」
「どうして。空ちゃんを!!」
「以前、僕は中務紳一郎に負けたことがあってね。なんとか奴を出し抜きたくてね」
「よくも。空ちゃんに倒させたわね! 許さないもん!」
走るカナデちゃんはそのままの姿で柱に変わった。
私は絶望を叫んだ。
「カナデちゃん!」
「ばはははははは」
「そんなことであなたは水神様を殺したの?」
「殺したのは君だ。君が殺したんじゃないか。人のせいにするの?」
「私が」
限界はすっと私を指差した。
「神殺しの英雄には罰が与えられる。その心は永遠に失われる」
赤雪姫はため息を吐いた。
『今回の件ばかりはしょうがないでしょうね。さよなら。空美。わたくし覚悟の上であなたに付き合いましたのよ。大人しく私が封じられましょう』
私は頬を抑えて叫んだ。
「あ、ああ。消えないで。私の所為で消えないで。赤雪姫」
もう一人の私の大事なお母さん。
「さあ最高のフィナーレだ」
その時だった。その時、皓人が現れた。
「お前を許すものか! 限界!!」
来てくれた。助けに来てくれた。ありがとう。ありがとう。皓人。
皓人は腕を満月狼に変えた。皓人は情報の糸を辿りながら走る。
「平賀限界。空美から離れろ!」
「離れるものか」
「満月狼。放て!」
満月狼の三日月爪は木々を吹き飛ばし、限界に迫る。しかし、力は限界まで届かなかった。
限界の持つその領域に阻まれる。限界は叫ぶ。
「爆発しろ。僕の領域」
限界の張った領域で皓人の体は吹っ飛ぶ。体で木をへし折りながら五メートル先で止まる。怪我はない。ただ衝撃が体中を貫いているようだった。
「くああああぁぁぁ」
「皓人!」
やめて、やめて!
限界は私の背後で笑った。
「赤雪姫は失われる。そうしたら、お前たちなどひとたまりもない」
私は皓人が好きだ。巻き込めない。
赤雪姫が封じられれば全滅だ。
なら、限界と約束をしてペナルティを食らっている私が封じられた方がいい。
「赤雪姫。代わって、お願い皓人を助けて!」
『いいの?』
「皓人にはあの人を倒せない。お願い!」
『いいでしょう。何も言わずに行くの?』
「日記を、日記を書いて。私の日記を、それで皓人に伝えて。あの人と戦ってはダメと、私皓人が大好きだよ!」
『わかったわ。そうしましょう』
赤雪姫は立ちはだかった。
『後はわたくしが何とかしましょう!』
「ありがとう、さようなら赤雪姫」
私の心は封じられる。そうして、すべては失われた。