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「作った領域支配者が予期せぬ方向に成長してしまったのがその森だそうですっ。何かを眠らせようとして失敗したそうで……何もかも忘れたい人たちがその森に取りこまれて死ぬまで彷徨い続けるそうです。私たち一般人の間でも怪談として伝えられている恐い話ですよ。その森は予期せぬ時に予期せぬところにやってくるのだそうですっ」
「前向きに気持ち悪い話だな」
「『こうなったら街ごと避難させた方がいいだろうか? 皓人、意見をお聞かせてくれ。お願いダナ』と言うのがうちの父の依頼ですっ」
う……ん。
「何も起きていないのなら、ここは静観する所だと思うよ。忘れ者の森が来たって話なんか聞いたことないし、僕のワンダーランドも何も知らないし」
「ですが。私の大げさな勘が告げていますよ。今回のこの件、気をつけろと!」
「そんな馬鹿な……あはは。冗談はやめてほしいなあ。僕は平和が大好きなんだぞ」
イイイイイイイイイイイィィィィィィイイイイイイイィィィィィィィィインン。
突如、異常な音がして個室の窓ガラスが全部割れた。この耳障りな超音波振動には覚えがある。この学校には従妹の海美が練習のために領域を張っている。それが割れるということは領域侵略だ。学校が汚染
され始めている。ガラスの向こう側から、大きな、大きな黒い怪物が、ゆっくりと染みだそうとしていた……。インクのしみが立体的に迫ってくる。
それがいつもと違った。そいつが、中途半端な存在である所の僕の影に食らいつこうとしたからだ。影を狙う敵、すなわち。
「なんだ、今のは! 影鬼の影か!?」
真里菜ちゃんは走った。走って僕を守るようにその場に立つ。
「下がってください。先輩の従妹さんを呼んでください……緊急事態ですっ」
僕は彼女を抱きしめて飛んだ。体をおしどける。僕らの体が先程まであった場所……床に穴が開き、煙が吹きあがっている。僕らは体をひねった。黒いインクのしみの攻撃で辺りはそうなったのだ。胆が冷えた。
うちの学校に張られている従妹の領域が壊れるなんて滅多にないことなのに。従妹は防御の技では負けたことがないのに。
「従妹は中央第一の学校の人間だ。この生田の学校の校内には今、存在しないと僕のワンダーランドは分析する」
僕は自分から糸を引きだしてぶつんと引き抜いた。抜いた糸に僕の情報を乗せる。糸は光りながら学校の外に飛んで行った。自分の体の時間を抜いた後遺症、地獄の筋肉痛で僕の鍛えていない身体がギシギシと軋む。痛い。でも背も腹も変えられない。
「今日はどこにいる。従妹……早く……前向きにここに来てくれ」
黒いインクの大きな爪が飴細工のように僕らに降り注ぐ。雨のように。
「きゃあああああ」
「真里菜ちゃん!」
危ない。僕は真里菜ちゃんを抱きしめた。僕の背中にインクの雨が落ちてくる。
いってえええええ。思わず息を止める。死ぬ、死ぬ、死ぬ、前向きに死んじゃう。
「先輩、平気ですか? 嫌です。死なないでください……」
体を小さくまるめた真里菜ちゃんが泣きじゃくっている。
ああ、そうだ。カッコイイ辞世の句を詠まなくては。
「一句。【ダイエット しながら食べる アイスかな】」
「先輩……! なんて悲しい歌なんですか。夏休みの女子の気持ちがひしひしと伝わってきて哀しくなります。そしてなぜ今なんですか!!」
「今、思いついたんだ」
「……思いついたままを喋らないでください……こんな時、どうしましょう……?」
絶体絶命だった。前向きに絶望した。
そこに従妹の海美が現れた。廊下から走ってやってくる。
「大丈夫か。皓人」
中央第一の制服を着こみ、相変わらず男役の様な美女だ。
「海美、頼む」
海美は走った。拳を固める。手を包む領域で海色に染まる拳。
「はあああっ」
海美はインクの鬼をなぐる。インクの鬼の一匹は石になって消えた。
「相変わらず鮮やかですね」
感心する真里菜ちゃん。
「海美、この教室の中で黒板は結構高い! 必ず守れ!」
「わかった。それじゃあ、千牙刀を使うか」
海はニケーのスポーツバックから小さな刀を取り出した。僕らの先祖代々に伝わる千牙刀。
一気に間合いを詰めて振りかぶる。海美はインクの鬼を殴りつけた。
インクの鬼は吹っ飛んで動かなくなる。
その時、海美の蒸気携帯が鳴った。海美は動かなくなったインクの鬼を踏みしめて電話に出る。
「大変だ。上の階にも鬼が出たらしい。相当危険だ。それじゃ。ちょっと行ってくる!」
ウサギのように走って行く海美。
「海美。ありがとう」
上の階に走って行く従妹を見送る。
一般人の命は大事だ。行って来い、海美。頑張れ。
その時、従妹に倒されていたインクの鬼が分裂し泡立った。天井まで伸びて大きくなり僕らに迫ってくる。筋骨隆々の腕が生えて僕らを狙う。
天上まで伸びた牙が僕らに落ちてくる。まだ生きていたのか。
「もう駄目です!」
真里菜ちゃんは目を閉じて震えている。今呼び戻せば間に合うか。しかし、海美の足手まといになるわけには。
僕は真里菜ちゃんをかばって……リノリウムの床に座り込む。
絶体絶命だ。
その時、窓ガラスが弾け跳び、蝶々のような帯が舞った。桃色のマフラーがなびく。黒い刀を握った着物に黒いタイツの彼女が窓枠を踏みしめていた。僕の前にヒーローが立っていた。
「しっかりなさい」