おぼろの炎
「佐伯君。妄執を殺せば緒方紗枝。本人も死にます。あなたは大人しく倒されなさい。皓人」
辺りを赤い雪が降る。赤雪姫の領域だ。
「赤雪、どこで見ている」
嫌な脂汗がにじむ。ずっと見られていたのか。観察されていたのか。
「姫をつけなさい。しれ者が!」
歪んだ天井から赤い雪が降る。赤い雪が僕の胸に触れた。
瞬間、衝撃は胸部で破裂した。
僕はダメージを食らってうずくまった。全身が筋肉痛だ。
息を止めなかったから、狼の力で固まらなかったから、体中がこんなにも軋む。立てない。
「赤雪姫。海美はどうでもいいのか? お前の妹だぞ」
「空美の妹でしょう。守るだけしか能のない者などいりません。わたくし強い者が好きなのですよ。そうですね。たとえば綱出の様な私の役に立つ、素晴らしい人材が必要なの。綱子はいりません。あなたがいなくなればうまく勧誘できそうよ。それにね。わたくし赤い靴だって欲しいわ」
「紳一郎さんが黙っちゃいない」
「あの男が留守の時を狙うに決まっているじゃない。おほほ」
「赤雪姫えええぇぇぇぇ」
脳髄が沸騰する。
「おほほ。あなたたちはここで終わりね」
「終わるものか!」
「あら。往生際が悪いのね。往生際が良くても悪くてもここで終わるのにね」
「どういうことだ?」
「この校舎を消滅させます。さようなら。佐伯君。生き残れればいいわね」
「赤雪姫ぇぇ!」
僕は走った。山之内紗枝の両肩に手を置く。
「紗枝さん。今すぐ、海美を返せ。君も滅びることになる。早く、ここから出よう」
『嫌よ。返さない。だって由里はせっかく帰って来てくれたのに』
僕は壊れた者が嫌いだ。壊れた者には興味が持てない人間だ。だけど。だからこそ。
「どうしてそんなに聞き分けがないんだ。紗枝さん。僕の話を聞いてくれ」
僕は海美のためなら走れる。君のために走ろう。
「頼む。僕の話を聞いてくれ」
『うるさい。うるさい。うるさい』
駄目だ。焦ったせいで作戦が無茶苦茶だ。本来なら元の人格である緒方紗枝さんを呼んできて僕のワンダーランドで説得すればそれで事足りる単純な事件だったはずなのに。
旧校舎に狐の妖怪はいなかった。
遭ったのは妹を想う姉の妄執。それだけだった。
しかし、山之上紗枝本人を説得できないとしたら、僕はどうしたらいいんだ。いざとなったら海美に説得を頼むつもりだった。でも海美はどこに行ったのかわからない。
その時、僕の懐から絵筆が零れ落ちた。浮世絵の肉筆画を書くための筆。
「親父」
僕は筆を手に取りおもむろに床に書いた。
「【会えずとも 今は心に 君がいる】【一人でも 強く心に 生きていく】思いだせ。君の未来の言葉だ」
頼む。響いてくれ。お願いだ。
『それは何?』
僕は両手をかざした。ワンダーランドを近くに感じる。
失念していた。
そうだ。ここが赤雪姫の領域の中なら、僕の領域を自由に使える。
僕はワンダーランドを開いた。武者小路さんの冷たい手が資料をばらまく。
僕はたくさんの資料の中からそれを選び出す。
狼の目で。
「これは緒方紗枝さんの卒業文集の川柳だ。亡き妹を思って読んだんだ。君のサインもある」
『亡き妹? 嘘よ。妹は帰ってくるのよ。帰ってくるに決まっているじゃない。何を馬鹿なことを言っているのよ。馬鹿じゃないの?』
妄執は動揺している。完全に。
聞いてくれ。
もう一息だ。もう一息で仮面が崩れる。
「あなたの妹は!」
その時、突然、目の前の空間が割れた。
そこから海美が落ちてくる。僕ら先祖伝来の間を狩る刀、千牙刀を握っている。
妄執の作り出した領域を割ったんだ。
海美は顔を上げた。海美は泣いていた。
「お姉ちゃん。会いたかった」
紗枝はよろめいた。その肩を海美は掴む。
「お姉ちゃん。私は帰ってきたのよ」
海美は妄執、山之上紗枝を無理やり抱きしめた。頭を撫でる。強く撫でる。
「会いたかった。会いたかったよ、お姉ちゃん。ありがとう、ありがとう。大好きだよ」
海美は演劇部だ。僕よりも成りすましがうまい。本当の姉妹のように見える。二人は。
その周りをはらはらと紗枝さんの書いた卒業文集の川柳が落ちる。
【会えずとも 今は心に 君がいる】【一人でも 強く心に 生きていく】
強い言葉が光り輝く。辺りを乱反射し、山之上紗枝の妄執を照らし出す。
『嘘よ。嘘……。だってあの子は帰ってくるって』
僕は容赦なく立つ。
「嘘だって言いましたね。紗枝さん。あなたは本心から妹さんを待っていはいない。疑っている証拠です」
『あああああああああぁぁぁぁ』
山之内紗枝は号泣した。
泣き続けた。髪の毛を振り乱し、わめき泣き散らす。
『本当は知っていたの。いなくなったって知っていたの。でも認められなかった。私はずっと、由里、あなたを待っていたの。だってあなたは!』
僕の蒸気携帯が緒方さんに繋がる。
「そこにいるのは昔の私ね。もしもし、紗枝です。そう。喧嘩していたのよ。由里と。誕生日に謝ってすべてよくなるはずだった。まさか帰ってこないだなんて思わなかった。思わなかったのよ。心残りだった。もう話せないことが。もう会えないことが。後悔したの、私」
電話の声は大人びて落ち着いていた。
「帰ってきてほしかったから、私は狐の絵を描いた。描いても、描いても妹は帰ってこない。私はその心をどこかに置き去りにしてしまった。そう。ここだったのね」
緒方さんは息を吸った。
「もう帰ってきていいのよ。あなたは私に返ってきていいの。いいのよ」
木造校舎に火がともる。
『うわああああああぁぁぁあぁぁっぁぁぁっぁぁ』
校舎が妄執の炎で燃える。その眼の端に長いフンドシをした狐の妖怪が横切っていく。
その瞬間、妖怪と目があった。僕は見た。妖怪はいしししと笑った。領域を感じる。
ステルスの領域を張った間の者だ。こいつは。この狐の形をしたものは。
「透明の領域。間の物か!」
「この女は連れて行く。おれの相棒だ。お前らを倒す。この火で」
海美が叫ぶ。
「皓人、そいつはおぼろ火の間の者だ!」
「そうだ、私の象徴は事件事故! 私は事故を起こして注目を浴びたい……そこに潜む深く美しい悲しみが見たい……いしししし。力は蓄えた。私はここを抜け出して暴れるぞ。さようなら、英雄の一族」
これが間の物。このフンドシ狐が。妹さんはこいつを見てこいつに遭難させられた。
そして心が弱ったお姉さんにとりつき、妄執を作り、いろんな事故や事件を引き起こした。
全部こいつの所為だったのか。こいつが楽しんで事件を起こしていたんだ。
結果、死期が近い女子にしか見えない幽霊ということになった。
こいつ自体は弱い間の者だ。でも、こいつは卑劣だ。許すものか。許しはしない。前向きに。
「いくらフンドシが長くても許さんぞ!!」
「皓人、そんなこと当然だ!」
僕の背後で海美が叫んでいる。
僕は息を止めて黒鋼を構えた。
「行くぞ」
おぼろ火は体を倍に膨らませた。
「効かぬ、効かぬ」
敵は間の物にしてはレベルが弱いが、妄執の力を吸い取っている。
僕とおぼろ火の実力は拮抗している。黒鋼では狐を倒せない。
その時、海美が走った。
「皓人。千牙刀を使え」
「千牙刀を」
「お前に託す。私たちの刀だ」
僕は千牙刀を握った。どんな刀よりも軽い。やれる。スピード重視の僕ら先祖伝来の白雪姫の刀だ。
「おぼろ火。お前ひとりで悲しめよ!」
足を回転させ、踏み込む。
「あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁ」
僕はその炎でできた狐を切り捨てた。薬石が転がる。
妄執にとりつく間の物だったんだ。
こんなに育っていたのか。この校舎に抱かれて。
「終わった」
僕は膝を突く。
海美が走る。僕の手を引く。強く。
「皓人、早く逃げないと! 校舎が落ちる」
僕らは必死で出口を目指して走り出した。異空間に手をかけて、ドアをこじ開ける。
その向こうに外の空間が現れる。緑が美しい。僕は海美の手を握ってその扉に飛び込んだ。
その瞬間、背中の空間が燃え上がった。




