亀裂とオオカミ
放課後も真里菜ちゃんはみんなに囲まれていた。
真里菜ちゃんは照れくさそうに話をしている。
よかった。安心した。放っておいてもいいだろう。守らなくてもいいだろう。
仕事を貰いに紳一郎さんのところに行くと、彼は静かに怒っていた。
「皓人は馬鹿ダナ!」
紳一郎さんは僕の肩を叩いた。
「君と言う男はまた投げやりに生きている。真里菜を守ってくれ。私は君に使命を与えたんダナ」
「だって、僕は」
「あきらめるな。前向きになれと言っただろう。お前はまだ間に合う」
紳一郎さんが僕の肩を掴む腕が痛い。
「お前にはいろんな仕事を頼んできた。呪いを解除する情報だったり、間の者の情報だったりダナ。そんな才能のあるお前が腐っていてはいけないんダナ」
「紳一郎さん、前向きになるのは難しいよ」
紳一郎さんはさらに怒った顔をした。
「お前は満月狼だ。だから、真っ暗狼になってはいけないんダナ。これはその第一歩なんダナ」
そういえば。
「真っ暗狼って何さ」
「狼のなれの果てダナ」
なれの果て。僕は以前、狼にかまれた。満月狼だ。
僕の中には満月狼のかけらが眠っている。
僕は刀の一族でゆえに間の物であるオオカミを封じている状況だ。
このバランスはいつ崩れるかわからない。
気が重い。
「お前に教えてやる。前向きに生きることの大切さを」
「紳一郎さんは間の者が嫌いなのになんでそんなに僕に関わるんだ?」
「真里菜のことを頼みたいからダナ。守ってやってほしい。お願いダナ」
「どうして、紳一郎さんはいつでもどこでも最強じゃないか」
どうしてそんな顔をするんだ。
「私には守ってやれないんダナ。学校にいる間は守ってやれないんダナ。私には仕事がある」
「そんな仕事辞めてしまえばいい」
「そうは行かない。私にしかできないことだ。だから君には君にしかできないことを頼むよ。真里菜を
守ってやってくれダナ」
「真里菜ちゃんは僕のことが嫌いだと思うけど」
「皓人が壊れそうな物が好きだからだろう」
「だって好きだから仕方がないだろう」
「真里菜は壊れたくないんだ。そこを解ってあげてくれ。君だって壊れたくなかったはずだ。よく考え
ろ」
僕はどうだったのだろう。壊れる前は。海美を守って満月狼にかじられる前はどうだったのだろう。
「僕は破滅が好きだ」
「ああ」
「僕はハッピーエンドが好きじゃない」
「ああ」
「僕は前向きじゃない」
「魂を入れ替えろ!」
紳一郎さんは僕のおでこをぺちぺち叩いた。
「ぺちぺち会か!」
「いいだろう、子供には参加させんぞ! 大人だけの特権だぞ」
威張る紳一郎さん。大人気ない。あんたは大人失格だよ。
「痛いよ、紳一郎さん」
「お前を前向きにしてやる」
「なんでだよ」
「お前を息子のように思っているからだ」
「息子にはならないぞ」
「なぜだ?」
「胡散臭い眼鏡紳士に人生を振り回されたくないんだよ」
「真里菜の魅力が足りないか?」
「あの数珠は良いけどね」
「お前は方向性をいつも間違っているんダナ。本体を好きになれ! 物品を好きになるなダナ」
あきれ顔の紳一郎さんはそう呟いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
枯葉舞う良く晴れた日の午後。
席替えがあって真里菜ちゃんは僕の隣の席になった。
真里菜ちゃんはなぜだかみんなに無視されていた。
「やあ」
「……」
真里菜ちゃんは何も答えない。
「この前は早く帰ってごめん」
「……」
「真里菜ちゃん」
「あなたと話すことなんかありませんっ」
「そう言わずに」
真里菜ちゃんは僕を見た。その眼は真っ赤だった。
泣き腫らしたんだ。
「あの後、託宣が来てみんなが引きましたっ」
「どんな託宣?」
「人形が来て全てを破壊するって言っちゃいましたっ」
笑えない。最悪の事態じゃないか。
君が人形になるのか、それとも白い人形が来るのか。どちらなのかわからない。
凍りつく。
「君の夢は何?」
「海外旅行に行くことです。鎖国されているイカルガでは叶わない夢ですが」
真里菜ちゃんは僕の目を覗き込んだ。
「父に何かもらいましたか?」
そういえば長いドーナッツ、チュロスを貰った。
「どうしてそう思うんだい」
「なんとなくわかるんですっ。そして私を守れと言われたでしょう?」
「感知系って本当なんだ」
「完全なる感知系ですっ」
僕は声を潜めた。
「どれだけすごいの?」
「あなたが考えていることがなんとなくわかりますっ」
「たとえば?」
「今、地球が何回まわったか考えていますっ」
「その答えは?」
「私にも計算できませんっ」
だよね。
僕の心は筒抜けなのだろうか。それともただの雰囲気予測なのだろうか。
「私は万能ではありませんっ」
ほっとする。万能はまずい。完璧なものほど壊れやすいのだ。
僕は真里菜ちゃんの物から糸を引き出す。その糸は赤い色をしていた。
赤い靴の色。
「君、お母さんが死んだことについてどう思っている?」
真里菜ちゃんの目が泳いだ。しかし、それも一瞬だ。
「母は病弱でした。いつか別れが来ることを覚悟していました」
完璧な答えだった。
「それだけ?」
「それだけです」
本当にそれだけなのだろうか。
それだけじゃない気がする。
「【さようなら もっと傍に 居たかった】」
「それはなんですか?」
「川柳だよ」
「母は私に興味が持てない人でした。興味を持たない人でした」
「それ、本当に?」
僕は真里菜ちゃんに手を伸ばした。
「読んであげるよ。君の心を。許可してよ」
「いりませんっ」
真里菜ちゃんは僕の手を払った。
「気の長いお前はどうしたの?」
「私は気なんて長くありません」
真里菜ちゃんは怒って去っていく。
勅使河原君が僕に手を振った。
「佐伯、何か中務を怒らせるようなことをしたのか?」
そんなはずはないと思うんだけど。そうでないとは言い切れない。
「まあ、そんなところ」
「中務、気が長いのにな。みんなにあれだけ言われてもじっと耐えていたのに。人間、なにで怒るかわか
らないってことだな」
「え? やっぱり長いの?」
彼女のつけている数珠も長いし良いことばかりだ。ときめくな。
当時の僕は人として不完全だったように思う。今だから思う話だ。
「中務は長いよ。前の学校でも気が長かったらしい。時々不気味なことを言ってみんなから浮くまでは」
今は。
「余裕がないってことか?」
「何か不安を抱えているのかもね」
勅使河原君は本に目を落とした。
どうでも良さそうな感じだった。
僕は白い人形について調べることにした。どこを調べるかだが。
「そういえば勅使河原君、どうしてそんなに詳しいの? 真里菜ちゃんについて」
「人のうわさは気になるだろ?」
勅使河原くんはそう言って本をめくった。
「正直、人の過去なんてどうでもいいよ。でも、思春期だからいろいろあるだろうね。いろんなことがあるだろうね。僕はそんなこと気にしないけど」
「勅使河原君。どうして気にしないんだ?」
「だって受験には関係ないじゃないか」
ならどうして人のうわさを集めるんだ?
「受験勉強の練習、いろんなものを覚えておく方が勉強になるだろう? 脳という畑を耕しておくんだ」
「そんなもんかね」
僕はため息を吐いた。
「そうだ。勅使河原君。白い人形の噂を知らない?」
「白い人形なら、生田公園の時計塔の上に出るそうだ」
「勅使河原君。お前、便利だな」
「どう便利かな?」
「五百円で時々お前の頭の中をのぞかせてくれないかな」
「五千円」
「高すぎるよ!」
「参考書を買うためだ。僕のノートが見たかったら僕にお金を払え」
「酷い奴だ」
僕は財布を覗いた。5千円はあるにはあったが、これは生活費だ。
「生田公園の時計塔だな」
「その見晴らしの良いてっぺんに白い人形はいるらしいって噂だよ」
勅使河原くんはそう言うと手をひらひらさせた。
「五百円くらいは価値のある情報だと思ったけど」
「そうだよ。価値はあったよ」
勅使河原くんは面白そうな顔になった。
「お前こそ情報屋やっているんだって、佐伯? 新聞記者? 週刊誌?」
「もっと違うところ」
「国の機関か?」
思わず苦笑する。
「勅使河原くん、一万円くれたら教えてやるよ」
「教えてほしくないよ。そんなこと他の奴に聞いて調べるからさ」
今思えば友達らしい友達は勅使河原くんだけだったかもしれない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
僕は生田公園の手前で緊張していた。腰の小刀を手にする。
刀は僕らの命綱だ。僕らの先祖伝来の千牙刀は今、空美が使っている。
僕は何でもない刀をぬいた。
「白い人形か。緊張するな」
時刻は夜。夜でないと白い人形は出ないそうだ。
母親には仕事に行ってくると言い残して、家を後にした。
何が起こってもあとは自己責任だ。
どうしたものか。
その時、僕の背後に人が立った。黒い人影だ。明らかに僕の思う者とは違う。
白い人形とは違う、そんな闇のような存在だった。
「やあ、私の名はムジナ。私は真っ暗狼。お前を迎えに来たよ。満月狼」
昼間ベンチのところにいた男が笑っていた。
「ムジナ?」
「そう、私はムジナ。狼に化けているうちに狼になったムジナだよ」
ムジナ。間の物か。
「僕に倒せるかな?」
「まあ、無理だろうな」
真っ暗狼は吠えた。耳が口まで裂け、狼の姿になる。
僕は、当時の僕は身の程を知らなかった。小刀を構える。
「ムジナ。始末させてもらう!」
僕は回転してムジナに殴りかかった。
ムジナは僕の右腕を受け止めた。僕は左腕を伸ばす。左腕に衝撃が走った。
ホールドされた。力が入らない。
ムジナは赤子の手をひねるように僕の腕をひねった。僕の瞳が金色に染まる。
「満月狼か。ちょうどいい、私と来い」
「嫌だ!」
僕は体を硬化した。ムジナの牙は貫通しなかった。
ムジナは攻撃を防がれたというのに無感動だった。
「狼は狼を食べて強くなる話を知っているか」
ムジナは口を裂いた。
「お前は弱い。お前は駆け出しだ。お前に狼を食わせてやるよ。お前を強くしてやる。お前は私を望むよ
うになる」
要らぬお世話だ。
「なぜそんなことを考える!」
ムジナは冷たい目をしていた。
「私には愛した人がいる。その愛した人を復活させるために君の存在が必要なのだよ」
僕の存在?
「頼む。来てくれ。今すぐ行こう」
「お前は間の者だろう?」
間の者は総じて壊れている。興味なんてない。
「私の女のために、お前来てくれないかぁあああああああぁああああぁぁぁぁ」
真っ暗狼は真っ暗な目で僕を見た。怖気が走った。強い。こいつは強い。
「行かないと言ったら?」
「力ずくでもつれていく。さあおいで」
その時、白い影が舞った。デニムの上下を着て豪奢な靴を履いた白い影だった。
「はっはっはっ。私はクルミ割り人形! 青少年を連れ行くなどけしからんなあ」
クルミ割り人形は女だった。腰にはサーベルを差し、恭しく一礼した。
「僕の情報によるとクルミ割り人形はアナスタシア地方の……」
僕は僕のワンダーランドの中の記憶の糸を辿る。
「よく知っているなあ。満月少年。アナスタシア地方の英雄だ。満月狼。君を退治するのは後回しだな
あ、あはは。一緒に踊ろう、真っ暗狼」
ここの時計塔には白い人形がいるはずだが。勅使河原君の情報が間違いだとでも言うのか。
「ああ、白い人形ねえ。いるにはいるよ」
「どこに」
「ああ、何、単純なことだよ。あはは」
「どう単純なんだ?」
「白い人形はこの私。このクルミ割り人形なんだよ」
リフレインは間の者にならないんじゃなかったのか?
「私は呪われている。私の名はアナスタシア。それでいい」
そう言ったアナスタシアの顔が陶磁器の人形のように見えた。
月明かりに照らされた横顔は不気味だった。
サーベルを振るい真っ暗狼に攻撃を仕掛ける。
素早い。
真っ暗狼は体を硬化させた。
サーベルははじかれる。
「クルミ割り。またも邪魔をするか」
「狼は食わせない」
「そこの満月狼には味方になってもらうだけだ」
「猶の事、許さぬ。右も左もわからぬ狼を手懐けることは許さない」
真っ暗狼は吠えた。
「うるるるるるるるるるるるるるるるるるるうっるるるるるるうるるるるるうる」
「なんだ?」
僕は耳を抑えてうずくまる。
「方向感覚を狂わせる攻撃だ」
アナスタシアは正面にサーベルを振るった。瞬間、狼が掻き消えた。闇にまぎれていく。
マットな目玉と赤い口だけが空中に残る。
「うるうるる。また会おう、少年」
真っ暗狼は口を閉じ眼を閉じると姿を消した。
「ムジナ。人間に擬態する間の物か!」
僕は膝を突く。デニムを着込んだアナスタシアは口ゆがめた。
「私がいたからよかったようなものの、君は無謀だな。あはは」
楽観主義者のアナスタシアは笑った。
「無謀だよ。どうせ僕は」
僕は考えなしだ。
アナスタシアはサーベルをしまった。
「満月くん。君の領域は、なあに?」
「ワンダーランド。サイコメトリーの亜種だ。満月狼の力を使って戦っている」
「それ本部に言わない方がいいなあ。始末されるよ。あはは」
「あんたはクルミ割り人形なのか、白い人形なのか。どっちだ」
アナスタシアは真剣な顔になった。
「あなたと同じだよ。私はクルミ割り人形のリフレインだったんだけど、その前に白い人形に呪われた。
それで、中途半端な存在になってしまった」
中途半端な存在。
「赤い靴のリフレインには悪いことをしたね。私を殺す衝動を抑えきれなくなったらしい。鬼の形相で向かってきたよ」
「友達だったのか?」
「古い友達だよ」
「友達でも殺すのか?」
「呪いが発動したんだよ。だから、私はある男に狙われている」
その男のことを僕はよく知っている。
「紳一郎さんか?」
「そうだね」
一番してみたかった質問がある。
「あんたは正気か?」
「狂ってはいたかもね。でも赤い靴は私を普通に扱ってくれたな」
赤い靴。真里菜ちゃんのお母さん。
「だから赤い靴が私を攻撃した時も来るべきものが来たのだと思っていたよ。だからあいつに呪いが移っ
ていることも知らなかった。私の呪いは運よく覚めたんだと思っていた。赤い靴が私から移った呪いに苦
しんだことも知らなかった。私はただ、私にかかった呪いが治ったことに喜んで、それだけだった。呪い
が移動するものだなんて思いもしなかった」
「それを紳一郎さんには?」
「言っていないよ。あの男に倒されたとしても、それは私の罪で、罰で、ただそれだけの。あはは。恨ま
れても仕方ない」
「馬鹿だよ! あんたは!」
心底頭に来る。
「友達を殺したんだ。それだけの罪が私にはある。あはは」
馬鹿だ!
僕はアナスタシアの肩を掴んでいた。
「それじゃだめだ! そうだ、白い人形だ」
僕は地面から糸を引き抜き、時間の縦糸、それを読んだ。サイコメトリーだ。
「本物の白い人形を倒せばいい。そうすればきっと呪いが解けて……」
「駄目だ、その前にあの男は私を殺すだろう。もう何もかもおしまいなんだよ。だから私はあの男をここ
で待っていたんだ。あはは。白い人形が現れるという噂を流してね」
自ら噂を流した。白い人形はここにいると。
クルミ割り人形は壊れている。
「壊れている? こんなもんだよ。あはは」
僕はどうでもいいと思った。壊れていると興味が持てない。僕は一切合切の興味を失いそうになって……。
だが、僕は気がついてしまった。
アナスタシアの手は震えていた。僕はアナスタシアの荷物に手を伸ばした。
「あんたの荷物を見せてくれ」
「やめて」
「やめない」
時の糸を引きずり出す。やっぱりそうか。
僕はその荷物の中から切符を二枚取り出した。
アナスタシア地方の観光の切符だった。色の違う切符が二枚。
この国は鎖国をしている。
アナスタシアは正規のルートではない場所からここに来たのだ。
何のために。自らを攻撃した友人と再会するために来たのだ。
呪いが覚めた彼女はそのことを一番に親友に伝えたかったのだろう。
アナスタシアは悲しい顔をした。
「赤い靴とは再会の約束をした。私はここまで泳いできた。それを濡らさないようにするのに細心の注意
を払って。赤い靴はエウロパ横断の汽車に乗りたいと言っていた。私は乗せてやりたかった」
クルミ割り人形は泣いた。
「私は……私は赤い靴に会いたかった……」
僕は湿った唇を持ち上げた。
「アナスタシア。赤い靴の娘が、白い人形の呪いで苦しんでいる。白い人形はどこに?」
そんな馬鹿な、とクルミ割り人形はわなないた。
「白い人形はどこにいるのかわからない」
「紳一郎さんがあなたを見つけるまで時間があるはずだ。お願いだ。本物の白い人形の場所を教えてほし
い。白い人形を倒せば全部解決するかもしれない」
「クルミ割り人形の英雄の話を知っているか、満月少年」
「クルミ割り人形はネズミと戦ったんだ。ペストをばらまく世界中のネズミの形をした間の者と、僕の図
書館の本にそうある」
前世でクルミ割り人形という名の英雄はネズミと戦って果てた。
「白い人形はネズミが作った。だからもしかしたら、私を絶望させるために……」
絶望させるために?
「ネズミたちは娘を狙ったのか?」
「あなたの希望はなんだ」
「私の希望は親友の娘と夫を救うことだよ……紳一郎が私を倒せば娘の呪いも解けるかもしれない。それ
だけが私の最後の夢で希望だよ」
それで紳一郎さんの心を救おうと、そして彼に撃たれようと、待てよ。
だとしたら真里菜ちゃんが危ない。白い人形は真里菜ちゃんを。
「あなたはここに隠れていろ!」
僕は慌てて公園から街へ引き返した。