始まりの庭
少女が歌っていた。今年の春に。立ち入り禁止の旧校舎の屋上で歌っていた。この世界には救いが無いと歌っていった。かの者は天涯孤独だとも歌っていた。
かの者は罪を犯して独りなのだとも歌っていた。寂しく美しい歌だった。
美しくて涙が溢れそうになった。なんて綺麗な歌なのだろう。世界に毒されていない本物の歌だ。これが本物でなくてなにが本物なのだろう。
「お願いです、忘れてください」
マフラーで着物姿の少女は校庭に向かって礼をした。透明感のある美しい歌声が脳髄を揺らす。気がつけばすっかり気になっていた。薄い桃色のマフラー。着物。黒タイツ。足には下駄。美しいけど鋭い視線。何もかも好み。
腰には刀。はかなげな顔。
声をかけようかどうしようか迷っている間に少女は姿を消した。
そうして季節は初夏になった。あの少女はうたかたの幻だったのだろうか。
優れた文明は伝染する。僕らの街は鎖国をしたまま、渡来人の影響を受け、独自の発展を遂げていた。
胡散臭い蒸気パソコンや、蒸気携帯電話が出回っている。町はレイヤーさんであふれ、学校には制服があり、人々は御守り刀を帯刀し、蒸気車も蒸気自転車も走り回っていて、ここ十年で随分変わったものだと蕎麦屋のおじさんが嘆いていた。
僕らとしては、それら文明は気がつけばそこにあった物で、別段、生活が変わったなんて気持ちはなかった。
元をただせば、僕も渡来人の子孫だし。黒髪碧眼なわけだし。
だからイカルガの発展も許容範囲内だ。
「先輩。先輩、心が飛んでいませんかっ。大丈夫ですか? 元気ですか?」
うちの学校のマスコット、真里菜ちゃんは微笑んだ。
「前向きに平気だよ。それに僕は先輩じゃない」
「先輩は二か月年上ですから先輩ですよっ。何言っているんですかっ」
それはそうなんだけど。そうでしかないんだけど。
「先輩はこの前見つけた屋上の少女が気になるんですか? まさか間の者ではないですよねっ」
「僕の一族は刀の一族。間の物を狩る一族だ。見えないものが見え、それゆえに莫大な富を稼ぐことが出来る。間の者が吐き出す命の石、要石は一般では薬として高値で取引される。僕らは領域師だ。好きな場所に自分の領域を張ることが出来る。そこで間の物を倒すのだ。そうやって人知れず神様のお膝元を守っている。異変異常、そんな案件は、物質から情報を読む領域を持つ僕の所に送られてくる。あらゆる情報は情報探査系の僕のところに自動的に送られ、判別を頼まれる」
「そうですね。先輩はそんな仕事をしていますね」
「従妹の海美は屋上の少女を幽霊じゃなかって睨んでいる」
「幽霊ですか? また変わったものが出るんですね」
真里菜ちゃんは探知系だが、幽霊を見たことはないらしい。
僕も幽霊は信じない。幽霊なんていやしない。
あんな美しいものが幽霊なものか。
「僕は神様に仕えてこの土地を守っているだけだからね。幽霊に会ったことはまだない。海美は見たことがあると言っていた。黄泉の亡者を。総じて壊れて汚いそうだ」
醜いそうだ。
意志のない怨念だけを持つ負の塊。亡者。それはもう間の者に限りなく近い存在だそうだ。そして、いずれ間の者になる存在だそうだ。
「ふむふむ。亡者は幽霊とは違いますよねっ。怨念ですもんねっ。納得ですっ」
感心する真里菜ちゃん。
「ひょっとしたら、僕が知らされてない何かかもしれないけれど」
前向きに一抹の不安を述べてみる。
「そうですねえ。先輩はいつも事態から外されて寂しくないんですか?」
寂しい時もあるが、僕はそんなことを言わない。
「僕はこうやって普通に暮らす方が似合っているんだよ。一句。【家路つく 照れる夕焼け 君の為】。君は優しいね、真里菜ちゃん」
「先輩は女の子に優しいですよねっ」
そんなことはない。僕は壊れている。
「先輩は幸せになっていいと思いますよっ」
「だったら君も危ないことに首を突っ込まないでくれよ。それじゃあ」
「ハイ。バイバイですっ」
真里菜ちゃんは角を曲がって遠ざかっていく。
「さて、帰るか」
僕が毎日磨いている自転車で帰ろうとしたときだった。
学校から二百メートルほど離れている廃ビルの屋上に少女が立っていた。
「あの子……」
懐の物見眼鏡で再確認する。着物にマフラーの黒タイツの少女がビルの屋上に立っていた。
少女は泣いていた。その背後から、巨大な指が現れた。