失楽と再生
僕はこの眠りの森で記憶を失い疲れ果てて眠ってしまった所を、渡辺の綱出ちゃんと名乗る少女と出会った。
彼女に殺されそうになりながらも意気投合して、食堂で暢気にうどんを食べている。
彼女のこねた江戸名物一本うどんはとても美味しかった。食堂はとても薄暗い。こんなところで渡辺の綱出ちゃんは一人でご飯を食べ続けてきたんだろうか。栄養を取って必死に考えていると記憶が戻ってきた気がする。
こっちに落ちる前に見た腕の黒い人間みたいな鬼は何なんだ。茨木童子とは違った……しかしあれによく似ている気もする。ならばあの鬼は何なんだ。何者なんだ。本当に倒せるのか。
「ここは眠りの森。忘れ者の森よ。知らないでしょう?」
綱出ちゃんはうどんを食べながら、箸をふった。行儀が悪い。
その説明を僕はどこかで聞いたはずなのにはっきりと思い出せないのだ。
遠くで女の子が歌っている。綺麗な声で。一人は寂しいよと歌っている。
誰の声だろう。小さな女の子がどこか遠くで歌っている。
『わたしは独りで空っぽ。抱きしめたいのに抱きしめられない。側にいると壊してしまう。一人でいたい。だけど、こんなに寂しい。願い傍にいて』
そうだ。僕は忘れ者の森にいる。忘れ者の森でご飯を食べている。
渡辺の綱出さんと。綱出って誰だ?
梔子綱子ちゃんじゃない。僕は綱子ちゃんと一緒にいたはずなのに。
「思い出した? 梔子綱子の事」
僕はしゃんとしてきた頭で、渡辺の綱出と名乗る人物をしげしげと見た。
彼女は綱子ちゃんと違って凛々しい顔立ちをしていた。雰囲気は似ているのに、どこか違う。違和感。そう、僕と頼光さんみたいな……それぐらいの違い。
「私は忘れ者の森の守人」
「綱子ちゃんだよね?」
彼女は頷かなかった。大人っぽく僕の唇に指を押し当ててそのまま見下ろした。
「私は渡辺の綱出」
「綱子ちゃんじゃないのか?」
「渡辺の綱出。綱のリフレイン。綱子の多重人格。辛かった綱子が私をここへ閉じ込めた」
「多重人格?」
「意味なら、ついてくればわかる」
本当だろうか? ついていっても行ってもいいんだろうか?
「ここでそんな悠長な事をしていたら何もかも忘れそうなんだけど?」
「だからせっかく殺してここから助けてあげようと思ったのに」
「そんな非道な救い手を見た事がないよ!」
「何を言っているのよ。ここで私に殺されればこの森から抜けて現実に帰れるというのにね。でも、貴方は事変だから、ここで殺したら暴走するかもしれないわよね」
「それで君はどうやってここから帰るつもりなんだ?」
渡辺の綱出は本当に優雅にうどんを三杯食べた。おつゆをしっかりと飲み干す。
その仕草が少し可愛らしくみえた。意外だな。
「僕を殺すんじゃなかったのかよ。止めを刺すんじゃないないのかよ。死んだはずの頼光さんを殺すってどういうことだ?」
「お前は私に協力して。私はもうずっと、この中で梔子綱子を捜し続けているんだから」
「綱子ちゃん? 綱子ちゃんがどうかしたのか?」
「綱子を捜しているの。偽物の頼光様、ここで梔子綱子を殺すと私は元の世界に帰れるはずなの。私はもう六年はここを彷徨っているわ」
背筋が冷えた。渡辺の綱出は眼鏡ケースを取り出し、フレームの赤い眼鏡をかけて指を組んだ。アルカイックスマイルを浮かべる。
「これで差別化できるでしょう? 私は近眼。昔、目を怪我したから視力がないの。お前の事も頼光様かと思ったわ」
「どういう意味なんだ? 解るように説明してくれよ」
なんで渡辺の綱出が頼光さんを殺さなければならない。ここが眠りの森なら、忘れてしまいたい人たちが集う森なら、君が彼を忘れてしまいたいという事なのか?
「違うわ。もっとそのままの意味なの。綱子がこの世界で私の邪魔をしているのよ。もう六年も」
「何の邪魔をするっているんだ! 君は綱子ちゃんの敵なのか? だったら僕だって考えが!」
僕は自身の腰をまさぐる。ダメだ。今の僕には何の武器もない。最初にこの森に寝ていた時に渡辺の綱出に取られたんだ。守護刀を。綱出は僕の短刀を玩具のように振りまわした。
「あなたが本物の頼光様を殺して。私は影である梔子綱子を本当に殺すから」
綱子ちゃんが影ならば、この渡辺の綱出さんが本物の綱出だというのか。
「あんたが本物なら影を消す意味がわからない! なんでだよ!」
僕は彼女の胸倉を掴んだ。絶対させるか。彼女はよろめきながら、僕の腕を払う。
「意味はあるのよ」
彼女も再来だ。こいつが赤雪姫みたいな壊れた再来なら、あいつと同じなのか。
赤雪姫は能力的に劣る海美を本当に殺そうとしたじゃないか。ぜったい、そんなことは、許すものか!
「何を考えているかは知らないけどやめておいて。今のままだと私はここから出られないわ。もうずっとここで何もかも忘れて行くだけなの。このままだと私の事も、頼光様の事もただ忘れて行くだけなのよ。だから偽物を殺すわ。殺せば私はここから出られるかもしれないでしょう」
そう言えば前に綱子ちゃんが僕にこう言っていた。ここにいると……記憶が無くなるのだと。
「私がここにいるから綱子は何もかも忘れている」
そんな。綱出は綱子ちゃんの別人格だというのか。
「この森は忘却の森だけど、綱子ちゃんを殺せば、君が助かるという保証はない! 君はそうやってそのために今まで戦ってきたんだろうけど、それだけだろう」
「私はここから、綱子の心の中の世界から一刻も早く抜け出したいのよ。不安なの。頼光様の偽物……お前は記憶を無くした事があるの? 私はこれ以上ここにはいられないわ!」
渡辺の綱出は立ち上がりざまに僕に刃を押しつけた。押し当てられた頬が冷たい。
凍てつくようだ。だからってそうですかといえるわけがなかった。
僕は無理やり笑顔を作った。
「僕だって自分を見失いそうにはなった事はあるけど平気だったよ」
「お前と私は違うわ。頼光様の偽物よ。私は恐いの。自分が毎日、渡辺の綱出でなくなっていくのが恐いの……私は誰? 本当は誰? こうしてこうやって消費されていつか影に居場所を取られてしまうの? そんなの嫌よ」
そんな事、そんな事!
「綱子ちゃんはそんなことしない……!!」
「そんなのわからないじゃない!」
「……君は頼光さんの事を覚えているのか?」
彼女はうんと答えた。長い髪がはらはらと顔にかかって綱出は陰鬱な表情になった。
「なら、綱子ちゃんの事は覚えているのか?」
「憶えているわ! 影の所為で、頼光様は苦労されたもの」
「どんな苦労をしたのさ」
綱出さんは麦茶で口を湿らせて、席についた。空気が重苦しい。
「梔子綱子の両親は現世で鬼に殺されたのよ」
『私は何も出来なかった』
あの言葉の意味がやっとわかる気がした。倒れ伏す大人二人、そこに立ちつくす子供の綱子ちゃん。その時、梔子綱子ちゃんは一度壊れた。破壊された。
渡辺の綱出は僕の気持ちを知ってか知らないでか続ける。
「鬼に殺された人間は鬼になるわ。でも一般の人間にはそんな事はわからないのよ。頼光様に退治される前、綱子の両親は辺りを暴れまわり、それ相応の被害を出したの。綱子は両親を止めてと周りに懇願し、綱子の両親はあたりを壊しまくった。みんなが怯えたわ。事態は悪化した。偽物の綱子は近所でも随分、酷い目に遭ったらしいわ……」
『私は要らない人間なんです』
胸が痛い。
「それを助けたのが頼光様だったの。自分が悪者のフリをなさり、彼女の両親を上手に払ってしまわれたわ……優しい方なの」
「それでどうなった?」
「偽物は元通り人間の仲間入りをしたわ。でも何もかも元通りと言うわけにはいかなかったの。人と言うものは物事が覆っても最初に阻害した者を二度と受け入れる事はないのよ」
「そんなことはない! 絶対に」
「頼光様は偽物を見守っていたわ。でもある日、二人は出会ってしまったの」
綱子ちゃんにとっては望まぬ再会。
「その年の冬。誰も引き取り手のいなかった綱子の家は火事になったの。漏電だったわ」
雨の中、綱子ちゃんは裸足で歩く。頼光さんはそんな彼女に傘を傾けた。怯えの混じった視線の少女に戸惑いが浮かぶ。頼光さんは屈んでタオルを差し出す。
『どうしたの?』
『家がありません。皿洗いができます』
頼光さんは困ったように辺りを見回した。ニコニコ笑って頬を掻く。
『それ僕に言っているのかな? 僕が恐くないの?』
『知っている人がほかに誰もいません』
『そうだね……どうしようかな、うちに来るかい?』
女の子は顔を輝かせた。何度もうなずく。そして距離を置き、頼光さんの後に続く。怯えた視線で頼光さんの姿を捕える。
『一緒に食事を作りませんか?』
『そうだね。うどんでも作るかな? うどんのグラタンだ』
『グラタン』
女の子はお腹を鳴らした。何も食べていないようだった。必死な顔で青年を見る。
『いいよ。一緒に作ろうか?』
『はい』
煤だらけの顔に光りが灯る。少女はざんばら頭で微笑んだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
少女は服を着たまま、逆さまにした風呂桶に腰かけていた。足をバタバタさせる。
『目にシャンプーが入るので頭が洗えません』
『手伝ってあげるよ。これを着てごらん』
青年は水着を差し出した。
『海でもないのに何で水着なんですか?』
『僕は変態だからね。あはは』
そう言って頼光さんは腹をよじって笑った。
綱ちゃんは変態と呟くと幸せそうに笑った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
頼光さんは自分の領域の葛篭を胸から取り出す。頼光さんの領域は白い森だった。
『僕は鬼を倒す仕事をしている。昔の仲間を捜しているんだ。なかなか集まらないけどね』
『私も手伝います』
『ありがとう。早く大きくおなり。おかわりもあるからね』
頼光さんは本当に嬉しそうに笑って片腕で頬杖をつき、うどんグラタンを差し出した。
綱子ちゃんは顔をしかめてよくわからない白い物体を口にして美味しいと呟いた。幸せな時間だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
数日後。少女は顔を真っ赤にして何度もつまずきながらテーブルにお皿を運ぶ。
『おやつにプリンを作りました』
『美味しそうだね』
頼光さんはいつもと違って元気がなかった。
『どうして疲れているの?』
『鬼が強くてね。何処まで僕が戦えるのか』
不安そうな色が彼の顔に影を落とす。
『独りにしないで』
『一緒にいよう。何も怖くない。君は笑ってくれ。僕の庭で笑ってくれ』
少女は何度もうなずき、大きな椅子に腰かけ青年の背にもたれた。
あなたがいれば何もいらない。少女はそう呟いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
血まみれの青年はいつものオンボロ長屋にうずくまる。
『しくじった。誰が来ても扉を開けてはいけないよ。いいかい、決して開けてはいけないよ。約束を守ってくれ』
肩に両手を置かれた少女は頼光さんの目を見据えて何度もうなずく。
『私、絶対開けません』
ピンポンが鳴る。
『はい。なんでしょう』
『わたくし生田病院の重松です。頼光さんはおられますか?』
少女は必死に叫んだ。
『お医者さん、お医者さん、助けてください!』
少女は家の扉を大きく開いて、愕然とした。そこにはぎっしりと悪意のある目が少女を見下ろしていた。そこにいたのは無情にもぎらついた眼をした百万の鬼の群れだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
映像が途切れた。渡辺の綱出は溜息を吐いた。
「偽物は嘘つきなの。約束を守らず、頼光様を追い詰めたのよ」
「綱子ちゃんの所為じゃない」
「約束を守らなかったのに?」
僕は想像する。
頼光さんは最後の力を振り絞って戦った。百万の鬼と。
散らかった部屋、破れたダウンジャケット、噛みまわされた左胸。
子供心に必死になった綱子ちゃんは招かざる客を招いてしまった。
あの大きな目は恐らく、酒呑童子。酒呑童子と茨城童子は親子関係。
酒呑童子の仇として、茨城童子は頼光さんを追っている。つまり。
頼光さんは命懸けで戦って、酒呑童子を仕留め、そして、死んでしまった。
だとしたら、なんてひどいんだ。
いつの間にか食堂の扉を開いて子供の綱子ちゃんが立っていた。
『すべて私が悪いのです』
「綱子ちゃん!」
『私がよく話を聞けばよかったのに。私が、私があの人を殺してしまったんです!』
血の吐くような声が耳に残る。
どうして僕はその時その場にいる事が出来なかったのだろう。その時に助けてやれなかったんだろう。
この子はこんなにも泣いていたのに。
食堂の床の上に湧き出たコールタールに綱子ちゃんは沈みこんでいく。
「綱子ちゃん。綱子ちゃん! 綱子ちゃん」
僕はコールタールに沈みこむ綱子ちゃんの両手を掴んだ。
「綱子ちゃん!」
『私はここで、何もかも忘れて消えてしまいたいんです……』
「何言っているんだよ!」
『良い事なんてなんにも無かったのです……』
僕は歯を食いしばった。僕はまだ……君に。
『忘れてください』
目を閉じると両眼から涙が溢れる。ダメだ、許さないぞ! 絶対許さない!
本物の渡辺の綱出は僕の腕を掴んだ。覗きこむように僕を見た。
「影なんてそんなものよ。脆くて弱くて情けなくて、誰も守れやしないの」
『忘れたい。忘れられたい。サヨウナラ。ごめんなさい。ごめんなさい』
少女はボロボロ泣いていた。一緒にうどんを楽しそうにほおばっていた顔を思い出す。
綱子ちゃんはコールタールの海に沈みこんで行く。声を嗄らして頭を抱えて叫ぶ。
「諦めるな! そんな事で諦めんなよ! 頼光さんは……頼光さんは僕が救う!」
渡辺の綱出は血相を変えた。
「何を言っているの? 馬鹿も休み休み言ってよ! そんな嘘つかないでよ」
渡辺の綱出は目を半眼にして僕を殴りつける。痛い。でも言うんだ。
「頼光さんは僕が救う!」
「救えるもんですか! どろどろになって気持ち悪い奴ね! 救うって一体どうやって救うのよ……」
「渡辺の綱出、僕に付き合え! ついて来い!」
「ダメよ。あの人は死んでしまっているのに……亡者になってしまったのに……」
「僕が何とかする。その為の狼だ!」
僕は幼い綱子ちゃんを抱き上げてコールタールの池から引きずりだすと、彼女の頭を撫でた。
「あの人を助けてくるよ。ここにいろ。頼光様を連れてくる」
『あなたが頼光様じゃないのですか?』
綱子ちゃんの壊れ方が酷い。綱出さんは僕の肩を掴んだ。
「お前は一体何をするつもりなの?」
渡辺の綱出は僕の肩を揺さぶって叫ぶ。
「頼光さんを僕が救う」
「お前って奴は希望を持たせて最低ね! 夢を見させて打ち砕くつもりなの?」
僕はその腕を振り払いながら彼女を睨みつけた。
「頼光さんを倒す。倒して引きずってでもここに連れてくる!」
「そんな事、出来るわけがないわ!」
「やるしかないだろ!」
「お前死ぬわよ!」
だけどこんな状態の綱子ちゃんを放っておけるか!
綱出さんを振り払い走る僕の目の前に巨大な穴が出現した。
「これは……」
僕はその端に立ちつくした。
「眠りの森が呼んでいるの?」
綱出さんは恐る恐る奥を覗きこむ。
「綱出さん。君は、梔子綱子ちゃんとは違う心だ」
「私が本体よ。彼女には天賦の才もあったし、寧ろこのまま素性を隠して大きくなるまで守ってもらえばいいとさえ思った。そうずれば頼光様の力になれると本気でそう思ったの。こんな事になったのは私の責任よ」
「綱出さん」
「嘘つきとは一緒にいられないわ」
やれやれ。どっちが嘘つきだ。
「僕は嘘つきだから、人の嘘がわかるんだよ。君は綱子ちゃんを心配している。ここから無事に出そうと画策している」
「そんないい人じゃないわ! 私はあれを憎んでいるのよ!」
それだけじゃないだろう。それだけじゃないだろうが。
「見守ってきたんだろう?」
「知った風な口をきくな!」
「でも大事な主を殺されて今は憎んでもいる。違うか?」
「それは……」
「でも本当はそんなに嫌いじゃ無かったはずだ!!」
「そんな事お前にわかるはずが無いわ! 黙れ、黙れ!!」
「僕は狼だからやれるだけやってみる。あんたは? 何もしないのか?」
なんでもいい。話を聞いてくれ!
「この森の主を倒し、亡霊になった頼光さんを救いだす。情報を書き換えるんだ」
綱出さんは迷った顔をした。
「しかし、低俗なオオカミでは書き換える事のできる事情も高が知れて」
確かに僕は狼の力でちょっとした情報を書き換えた事はあるけど……それがどこまで通用するかは分からない。
僕は身体中の骨を変形させて狼の姿になった。大きな穴を覗き込む。降りれば二度と上がってこられないかもしれない。それでも。腹はくくったつもりだ。
「乗ると良い、この奥へ進む」
「お前になんの得があるの?」
「ここから抜け出したいのは僕も同じだ」
「嘘つきね。下心が見え見えだわ。この奥には何があるの?」
「解らないけど、きっと、綱子ちゃんが忘れたがっているものだよ」
狭くて暗い穴の中をひた走る。綱出さんは冷たい指で僕の尻を撫でた。
「乗り心地はいいわね」
「そりゃどうも」
「黄泉の傷、亡者の攻撃はきついのよ。お前、死期が早まるんじゃないかしら。そんなモノを食らったりしたら」
「なに、その時はそれ、そんな物、綺麗にかわすだけだよ。亡者はたいして力がない。意思を無くし、心を無くし、ただの壊れた亡霊だ。僕には簡単に倒せる」
「上手くいくと良いわね。偽物の頼光様」
僕らは穴の最深部へたどり着く。そこには、源頼光さんがうずくまっていた。
透明な空の下、月の下、赤い鳥居の下。黒い両腕を抱えて。
真里菜ちゃんの託宣、泣いていたのは頼光さんだとでもいうのか?
かの人は頼光さんだったのか?
「頼光様! どうしてここに!」
駆け寄ろうとした渡辺の綱出を僕は押しとどめた。前向きに最悪の事態だった。
「近寄るな!」
「なぜなの?」
「あんたが言ったんだ。鬼に殺された人は鬼になる」
彼の頭には角が生え始めていた。何と言う事だ。鬼化し始めている。
「これが鬼」
呟いた口の中がかさかさだ。
「頼光様は鬼退治のエキスパートよ! そんな者になるはずがないわ!」
綱出さんは信じられないと呟きふらふらと後退した。
「頼光さんだから、鬼退治の専門家だからそうはならないって……例外にはならなかったんだよ。みんな等しくそうだったんだ」
『うるおおおおおおおぉぉぉお』
僕らは頼光さんの太刀の一撃をかわした。頼光さんは髪を振り乱し叫ぶ。
正気を失っている。その両腕はどす黒く真っ黒だった。目は銀に輝き、喉は意味不明の単語を発している。聡明で快活な彼はもういなかった。
変わり果てた頼光さんがそこにいた。
おそらく綱子ちゃんは彼をただ忘れたかったわけじゃない。こうして、変わり果てた頼光さんを外に出さないようにこの眠りの森の領域を護っていたんだ。
でも、それももう限界だった。彼女の精神はボロボロになっている。相当な無理をしたんだろう。たくさんのデータを見て来た僕には推測する事しかできないけど、きっと。
「ここは綱子の領域じゃないわ。こんな密閉した領域を作る能力、綱子にはないもの」
綱出さんは爪を噛む。誰かが手助けをしたんだろうか?
それとも何かしらの才能が目覚めて?
「多分彼女が一番見ていられなかったんだ。あんなになったこの人をどこかに隠しておきたかったんだ
よ。どうして僕の嘘を受け入れたのか。それは」
ああ、こんなにも胸が痛い。君のその想いが痛い。
「嘘でもよかったんだよ。幸せになりたかったんだよ。誰も責められない。空腹の子供がご飯を欲しがっても、何も言えない」
今ならわかる。
「あんなになった頼光さんを自分に閉じ込めたまま死のうとして、彼女はあのビルに登って僕に出会ったのかもしれない。でも一緒に閉じ込められた君の事を考えてそうは出来なかった。一緒に閉じ込められた君の為に、自殺はできなかった。でも、もう身体的にも精神的にも限界が来ようとしていた……」
「勝手な推測だ。そんなはずがないわ! だってそれなら、私に一言そう言ってくれてもよかったじゃない……」
「君はずっとここに閉じ込められて、綱子ちゃんを怨んできた。でもそれは、彼女が頼光様を鬼として自分たちの世界に解き放ちたくなかったからだ!」
そう考えればしっくりくる。
「そんな馬鹿な事があるわけないわ。なら行けども、行けども出られないこの固有領域はなんなの?」
「そうか。この領域は紳一郎さんだ」
「誰なの? それは」
「中央の領域の支配者。彼の絶海ならこんな事簡単だ。あの人なら子供の綱子ちゃんと出会って、制約していてもおかしくない。綱子ちゃんが縄張りだと言った土地はあの人の散歩コースだ。あの人は間の物を全力で駆逐するタイプの人なんだよ」
「しかし、幼子を利用して鬼を封じるなど……外道じゃないの」
「ここに綱出さんを閉じ込めたのも計算づくかもしれない。僕がここに来たのも。『計算通りダナ』とか言うんだろうな……」
「鬼なんじゃないの、その男!」
「神様の下働きだよ。元は何をしていた人かしらない。頼りになる人ではあるんだよね。強いから……」
綱出さんは両肘を抱えて歯を食いしばっていた。
「しかし、私はそれでも綱子を許せないわ……許せるものですか」
「そうだね。理不尽なことなんて五万とあるからね。全部を許せるほど、人の心は仏になれないね。だからこうやって、戦いあうんだろうね。そうだろう。頼光さん!」
頼光さんは一足飛びで僕らの懐に潜り込む。そして綱手さんの二本の腰の刀、手にした黒鋼の一本を奪い取り、綱出さんの背を切り裂いた。早い。
「綱出さん!」
頼光さんは返す刀で僕の腹に切っ先を突き立てる。切れない。ろっ骨が軋んだ。
梔子綱子ちゃんの剣技は誰に習ったものか明々白々だった。綱子ちゃんの太刀とは違って、この攻撃は僕も蝕む。ここで壊れたら楽になれるだろうか。力を抜きかけて綱子ちゃんの顔がよぎった。僕は馬鹿か。
「頼光様の偽物、平気なの?」
僕は口の周りの泡を吹きながら渡辺の綱出の腕を引いた。
「こっちだ! 逃げるぞ。勝てっこない」
「やはり頼光様は強いわ……こんな時でも尊敬するもの。強く美しい太刀筋だわ」
「感心するな。まあ確かに、あの太刀筋、人間業じゃないけどさ」
「しかし、あの人をただ倒しては助ける事にはならないでしょう? あの人を倒せば要石になってしまうわ。どうするの?」
「そうだね……だから僕も必死で考えている」
「頼光様の偽物。まさか、この期に及んで何も考えていなかったの?」
「別の方法であの人を無傷で弱らせる自信があったんだけど、今はない。もう本当どうしようかなって……困っている」
僕のワンダーランドに閉じ込めて長期戦をしようと思っていたのに。
前向きにどうしたものか。
「そんな状態で私を撒き巻き込まないで!」
「消えたくないなら手伝えよ。本物の再来! あんたなら僕の思うとおりに動けるだろ」
「お前! 人任せなの!? 無責任ね」
「利用できるもの何でも利用したい年頃なんだよ」
「そんな年頃があるものですか。お前をここで切るわ」
『ううううううううううううううううううううううううううううううううううううるるうるる』
瞬間、頼光さんが吠えた。髪を振り乱し、黒く染まった両腕が脈打つ。
僕たちとのこの戦いで、どんどん鬼化していく。もうどうしょうもないほどに、取り返しのつかないほど。そして僕らの影を狙う。
「影鬼は……頼光さんだったんだ。噂を流していたのは紳一郎さんか。そうやって、ここに忘れ物の森を呼び寄せたのか、自分のテリトリーに。そして僕の介入は本当に計算外か」
『うるおおおおおおおおおおぉおぉぉぉおぉ』
「正攻法で行くしかないか」
僕は回転しながら人の姿に戻った。綱出さんが装備していた黒鋼を借りる。
「ああ、やっぱり重いや……」
綱出さんは僕の顔を見た。謎めいた目で僕の唇に強く指を押しあてる。
「お前、硬化はできるの?」
「出来るけど、なんでそれを?」
「昔、狼を見た事があるのよ。硬化をして軽々刀を振るっていたわ。なかなか強かったもの」
「そんな事……そんな事でこの刀がどうにかなるなんて思えない……」
「何でもやると言ったでしょう。死ぬときまで愚痴を言うつもりなの? 協力してやると言っているでしょう!」
その言葉が嘘だとは思えなかった。
「やってみる価値ありか」
僕は体に力を込めた。
「硬化」
黒鋼が僕の腕の中で軽く持ち上がる。まるで羽根でも生えているかのようだった。
「軽い」
「私も再来だもの。幾多の戦いの中に身を置いた者だからわかるのよ」
「ありがとう、綱出さん。そして頼光さん。悪く思うなよ!」
僕はヒルメちゃんに祈りながら、鬼になりかけた頼光さんに向かって突進した。
頼光さんは強い。しかし、渡辺の綱出もまた強かった。暴れる頼光さんの両腕を押さえつけ、髪を振り乱し、僕に叫ぶ。
「やって!」
僕は足手まといで、けれど、出来る事がある。僕は頼光さんの腹に自分の指を五本突き立てた。そこから時間の糸をハラワタのように引きずり出す。
たちまち辺りが鬼色の糸だらけになった。紳一郎さんの作った深部が引きずり出された糸で満たされていく。それでもまだ足りない。引っ張って、引きずり出して、最後に白い糸が現れる。
「まだか、偽物おぉぉおぉぉぉぉ!」
「断ち切れろ!」
僕は全身がすり潰されるような痛みに耐えながら、頼光さんの鬼になった時間を黒鋼でその体から切り落とした。
『があああああああああああああああああああああああああああああぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁっぁ』
直後、全身を杭で突き刺されたような僕の叫び声が穴の中に充満した。