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変態オオカミと忘れた君 ラストワンダーランド  作者: 新藤 愛巳
第一章 変態オオカミと忘れた君
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忘れん坊と忘れ者

 叶わなくても手を伸ばした。君は細くて頼りない。だから僕は……。


     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆


 ずっと大好きだった人がいた。でもその恋は叶わなかった。


 僕は前向きになった。


 立派に生きて上手に笑えるようになった。


 振り向かないで歩いてきた。もう二度と振り向きはしない。

 そんな時、僕は君を見つけた。


 悲しそうな君を何とかしたかった。

 君を笑わせたかった。君に笑ってほしかった。


 どうやってもいい、何をやってもいい。笑ってくれ。

 そんな僕は、我侭な僕はいつか君に見放されてしまうだろう。


 それでも君を連れ出そう。


 君には太陽の下がよく似合う。


「綱子ちゃん。出かけよう。今日は天気もいい」


「私、肌を焼きたくありません。出かけたくありません」


「そう言わずに」


「忘れたのですか? 空から鬼があなたを狙っています。そう誰かに忠告されたのでしょう? 知っていますよ」


 初夏の日差しはきつい。高層長屋からの坂道を僕らは日傘をさして歩いた。


 少しでも君の気分が変わればいい。少しでも、笑ってくれればいい。

 少しでも和んでくれればいい。共に歩こう。太陽の下を。


「綱子ちゃん。プールに行く?」


「プールに行ったら、マフラーはつけられません。無形が錆びちゃうもの」


「なんてことだ!」


 マフラーがつけられる場所に行こう。


「アイススケートリンクはどうかな」


「冷たい場所は嫌です。凍えてしまいます」


「くそう。僕の野望が!」


 前向きに失敗だ。


「頼光様が何を考えているのか手に取るように分かります」


「なら、僕の考えもわかるだろう」


 さあ、僕の考えを読むんだ、前向きに。


「そ、そんな……!」


「何がわかったんだ!」


「スキー、スキーが見えます! 日本一の長いスキー板が見えるわ」


「雪がないよ」


「なら山に行きましょう。ピクニックです」


「綱子ちゃん。山では出前のうどんが伸びてしまうんだ!」


「なんてことなの」


 僕たちは地面に倒れて顔面蒼白になった。


「蕎麦屋が良いです。蕎麦屋に行きます」


「それはいつものコースだよ!」


 結局僕らは汗だくで蕎麦屋にたどり着いた。


「私たちここで出会いましたね」


「ここじゃないよ」


 綱子ちゃんの壊れ方が酷い。


「あの時のうどんの味が忘れられません」


「あの時っていつの」


「いつも奢ってくれます」


「それはそうだけど」


 綱子ちゃんは西陣織の可愛い財布を取り出した。


「今日は奢ってあげます」


「え?」


「えびす様のお賽銭を貰ってきました」


「許可は取ったんだよね」


「もちろんです。この前の騒ぎで給料が出たの。でも一杯分しか食べられない」


 綱子ちゃんはお賽銭を並べた。全部五円玉!


「わかった。前向きに一杯のかけうどんを二人で食べよう」


「これが噂に聞く口移しうどんですね!」


「そんなうどんないよ」


 綱子ちゃんはそわそわした。


「皓人。初めましてでございます」


「なんの挨拶?」


「私まだ心の準備がございません」


「綱、そんな準備別にいいよ」


 何か楽しいことが起こる予感がした。

 どうしよう、どうしよう。右手の温度が上がる。


「頼光様。昔、紳一郎が言いました。恋人たちはうどんの右と左をくわえて、ぶつかるところでキスをするのです。ダメです。ダメダメ。綱はそんな破廉恥なうどんは食べられません」


 僕も食べられないよ。そんなうどん!


 そんなところ見つかったら、また勅使河原くんに何か言われるよ。

 綱子ちゃんはぶるぶる震えて体を小さくした。真っ赤になって恥らっている。


「君は……可愛いな」


 本当に可愛い。


 綱子ちゃんは頬を染めた。


「ならどうやって食べるのですか? 頼光様」


「君に全てのうどんをのまれないように、君の左手を握りしめてうどんを食べるんだよ」


 綱子ちゃんは俯いた。


「綱、どうして下を向く?」


「だって、こんなに近いと頼光様のお顔が凛々しく見えます」


「ありがとう。綱」


 ほら、やっぱり僕は壊れている。壊れているのに君が気になるんだ。


「綱。綱の奢ってくれるうどんは僕の物だ」


「頼光様」


「綱!」


「頼光様!」


「なんだなんだ。ヒロちゃん、今度は演劇か?」


 質問する蕎麦屋の親父の隣で咳き込む僕。


 こんなに楽しいのに、いずれ終わってしまう茶番かもしれない。


 君が気づいた時に?

 鬼が蹂躙した時に?


 君の手がかすんでいる。


 天を時折、横切る大鬼の姿に、僕は内心怯えていた。


 君を守る必ず守る。


 だから、今だけは、今だけはこのままで。


     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆



 紳一郎さんは蓮の花の上に立っていた。花を散らす事なく静かに歩む。


 紳士のたしなみと言う奴だろう。伊達に眼鏡紳士を続けてはいないようだ。


 エセ紳士と言う人もいる。


「我が神。稚日女尊よ。帰って来たんダナ。こんにちは~。愛しているよ~」


「遅いのじゃ。紳一郎。我が領域に異物が入りこんでおるぞ。気持ち悪いのじゃ」


「それはこの土地に鬼が……と言う事ダナ?」


「そうじゃ、そうじゃ。おんしちょっと行って、退治してまいれ!」


「それは稚日女尊のダーリンが何とかしてくれるでしょ? あの人は女の子の為に走り回る愛すべき馬鹿でしょ?」


「ダーリンは鈍いからのう。くくく」


 紳一郎さんはダーリンが紳士になるにはもう少しかかる、そう言った。


「仕方ないんダナ。もうすぐ本体の茨木童子が来る。あの影鬼も動きまわっているんダナ。ダーリンも喰われてしまうかもしれないよ」


 ヒルメちゃんは紳一郎さんの胸板を殴った。


「茨木童子か……厄介じゃのう。おんしが取り払え」


「嫌ダナ」


「倒せる者は……まだこの世に存在していないのじゃろう」


「そうですね。渡辺の綱出はまだ……。でも綱出なんて本当にこの世に本当にいるんでしょうかね?」


「それはどういう意味じゃ?」


「そのままの意味ダナ」


 紳一郎さんは溜息を吐いて僕の夢もそこで終わった。


 渡辺の綱出はまだこの世に存在しないのかもしれない。


     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆


 真夏がやってくる。駅前。学生やおじさんたちが並ぶ有名人気店、蕎麦屋。


 リーズナブルな立ち食いの店。いつもの店で綱子ちゃんはうどんを飲まなかった。良く噛んだ。


 何かが変化しようとしていた。

 

 だのに蕎麦屋のおやじは彼女を認識し損ねた。

 出会った時よりも綱子ちゃんの存在が薄れている気がした。

 真里菜ちゃんも海美も彼女に出会う度、そう指摘した。


 夕焼けの小道を歩く。綱子ちゃんは鼻歌を歌っていた。ベートーベンの英雄だった。綱子ちゃんもクラッシックが好きなのだろうか。僕のように。


 ある日突然、綱子ちゃんが消えてしまいそうな、そんな不安を覚えた。


 恐かった。当たり障りのない会話を選んで僕は両手を広げた。


「僕らは稚日女尊に仕えている。綱子ちゃんはえびす様だろ? 今日は挨拶に行かなくていいのか?」


「うん?」


「神様は八百万やおよろずいる。人間たちに感謝されないと存在できない。だから人間の力を借りてこうして祭事を行ったり、人の世に干渉して守ったり……人の為になるお仕事をしているんだ。君も何かわけあってえびす様に仕えているんだろう」


「私は鬼が嫌いなだけ……」


「正式な契約をしていないのか?」


 それでもその力なのか。いや、だからこそ、自分を消費して?


「えびすとは何度か話したけれどお前たちの世界の事はよくわからない。私は、六年前にえびすと契約した。リフレインは鬼に取り憑かれないのだと説明を受けた。英雄のリフレインだと知らされたのはついこの春よ」


「誰に教わったの?」


「語尾はダナ」


 僕は思い当たる人物を胸に浮かべた。ダナって一人しかいない。


「それ、やっぱり、紳一郎さんだ。紳一郎さん何やってんだよ。伊勢まで届け物をしに行ったんじゃないのかよ。寄り道かよ。それより……何考えているんだよ。えびす様の使いの女の子に仕事押しつけるなんて……」


 あの人にはあきれ果てる。


「とにかく、私は六年前に紳一郎から……間の物との戦い方を教わった」


 僕らに仕事を任せていつも暇そうにしていた紳一郎さん……。


 相変わらずなんだな。自由すぎて羨ましい。


「紳一郎さんを見てどう思った」


「胡散臭いコート」


「だよね。間違いない、真里菜ちゃんのお父さんだ。それ」


 綱子ちゃんは納得する。


「この街に茨木童子が来ると言われた。この前戦ったのが、茨木童子の影」


 彼女は真っ直ぐ天を指さした。出会った時も天を気にしていた綱子ちゃん。


 あれで影なのか。だったら本物はどんなものなのだ。


「茨木童子って君が最後まで倒せなかった……」


 僕はこの前、調べた事を反芻する。


「鬼。私はそれをずっと待っていた気がする。それと戦うために生きてきた気がする」


 あれは鬼というより災害みたいな奴だった。間の者の魂の脱け殻か。

 人で無くなった者。僕の同類。考えたくもない。いつかああなるとしても。


 僕はいつものように綱子ちゃんの家に上がった。


 流しに積み重なるカップうどんには山も谷も頂きもあった。この数日で壮観な眺めになっていた。彼女が麺にはまったのは僕の所為だろうか。そうじゃないことを願う。いや、それよりも。それよりもだ。


「綱子ちゃん、君の家族は……その……僕だけか?」


「あなた以外にいない……」


 頼光さんと綱子ちゃんは恋人同士だったのだろうか。それにしては年が離れていた。親子だったのだろうか。


「皓人! こっち向いてね」


 綱子ちゃんはまな板の前に立っていた。出刃包丁を手にしている。


「これで何か作ってほしいの」


「何かって……はっ。一句読めたぞ! 【出刃包丁、作った人は出歯だった】」


「川柳じゃないの。ご飯を作ってほしいの……!」


 なんだろう、凄く嬉しい。鏡の向こうの頼光さんがニコニコと笑った。


「今なんと!」 


「ご飯作ってほしいの」


「僕はご飯なんて」


「あなたのあとをつけてわかったわ。二人も妹がいる。きっとおいしいご飯が作れる変態だわ」


「変態をつけるな!」


 油断も隙も無かった。退路は断たれたぞ。綱子ちゃんはビッと指さす。


「変態たちは仲良く一つ屋根の下で暮らしているわ。知っているのよ」


「前向きに問題のある言い方をするなよな。彼女たちは今の父の連れ子だよ。刀の一族じゃない。巻きこんだら許さないからな。僕が守っているんだ。無防備だから」


 綱子ちゃんは押し黙った。目を伏せて寂しそうだった。僕は慌てて取り繕う。


「僕は英雄である事を楽しむよ。君も楽しめばいい」


 グラタンってどうするんだっけ、適当にうどんでグラタン作るかな……。


 気がつくと綱子ちゃんはそのままの姿勢でサイドテーブルに肘を突いて寝息を立てていた。僕は彼女に毛布をかける。身体的にも精神的にも限界か。可哀想に。


「寝たのかよ。まったく、仕様がないな……大丈夫か? 綱子ちゃん」


 僕は彼女をベッドに運びぶっきらぼうに布団をかける。

 彼女の頬を静かに涙が伝う。君は泣いてばっかりだな。


 なんだか君のお兄ちゃん的な事ばかりしている気がする。


 僕はついに誘惑に負けた。


「君が渡辺の綱出かどうか調べてあげるよ」


 嘘でも、偽りでも、それで君が元気になるなら、僕はそれがいい。いつか壊れる身なら誰かを助けて死にたい。そうやって死にたい。

 

 赤雪姫曰く、そう思う僕は気持ち悪いのだそうだ。


「それぐらいのわがまま、許されるよな?」


 彼女から糸を取りだそうとして……糸は指の中で崩壊した。

 生き物の記憶は本人の同意がないとつかめない。僕の能力の限界だ。


 その時、鏡の向こうの頼光さんがニヤニヤ笑った。底意地の悪そうな気持の悪い笑いだった。


 瞬間、世界が闇に落ちた。何も見えなくなった。夜ですらこんなに暗くはならないだろう。

 停電か、電気もつかない。墨を流しこんだような闇だ。


「ヒロやん、ヒロやん。ヒロやん!」


 誰かが僕を呼んでいる。誰だ、この神々しくも美しい声は。まさか。


「ヒルメちゃん! 俗世に出て来て平気なのか! 瘴気にやられないのか?」


 ヒルメちゃんは僕の前に舞い降りた。


「ヒロやん、その娘は不吉じゃ。離れよ」


「いや、離れよって、離れているよ。三十センチ」


「三十センチじゃ足りん! 三十八万キロメートル離れよ! 今すぐに!」


「月に頭を持って行かれるぞ!」


「そんな問題ではない。危ないのじゃ。その者は鬼に狙われておるんじゃ!」


「知っているよ。茨木童子の影だろう?」


「違う! ちゃんと離れよ! その娘、心の中に鬼が住んでおる!」


「え?」


 綱子ちゃんは立ち上がるとぎょろりと僕を見下ろし、僕の首に触れた。

 

 何をするんだ。


 彼女は猫を思わせる仕草で僕を締め上げて……にたりと笑った。

 再来は、英雄そのものは鬼に取り憑かれる事はないのになんで?


「ヒロやん! 鬼に殺されると鬼になるのじゃ! それがどんな者でも! 離れよ!」


 意味が解らない。綱子ちゃんが死んでいると言うのか?

 ヒルメちゃんが手を伸ばすけど、間に合わない。


 僕らの足元が崩れて、白い森が、いいや違う。これはなんだ。角を生やし、髪を振り乱し、腕の黒い陽炎のような鬼が大きな口を開けて、この部屋を綱子ちゃんごと飲み干そうとしているではないか。


「ダメだ! 綱子ちゃん、鬼から離れろ!」


 僕は綱子ちゃんに手を伸ばして、彼女に手を……届かない。


 その時、鬼が大声で吠えた。負けるもんか。届け。君を失いたくない。


 僕は彼女の腕を握った。


 瞬間、鬼の赤い舌がばねのように跳ねる。あっと思う間もなかった。白い鬼が喉を嚥下して僕らを飲み下した。ああ、僕は前向きに死ぬのか?


 意識が遠のいて、そして、僕の記憶は冒頭に繋がる。冒頭の眠りの森に。


 あの森の記憶へとつながる。


     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆


「起きなさい」


 鉛色の空の下、可憐で凛とした声を聞いた。辺りに雪が降っている。

ここは森だ。朽ちてゆく寸前の森だ。辺りは腐っていく。じわじわと。失われていく。消えていく。冷えて凍り付いてゆく。


 失われて溶けていく。世界が失われていく。四角い箱のような世界が端の方から腐っていく。ここは白い箱だ。白い箱の中の世界。領域の世界。誰かが張った結界の世界。


 誰かが作った領域の世界。


「起きなさい」


 僕の名前は佐伯皓人。十五歳、独身。趣味は川柳。嫌いな物は特にない。


 黒髪、碧眼。前向きな細身、中くらいの身長に大きな手足。


 好きな食べ物はうどん。嫌いな食べ物はシイタケ。あの独特の味が溜まらなく嫌いだ。


 好きな音楽はベートーベン、英雄。


 好きな物は桜、胡蝶蘭、蜘蛛の巣をかたどったランプ。


 長い物。壊れそうなものが好きだ。壊れそうな危ういものが好きだ。


 長いものが好きだ。長いものは美しい。


 マフラーなんて大好きだ。何かのヒーローみたいでワクワクする。僕はヒーローになれなかった人だ。そんな僕は再び目を閉じた。僕は僕だ。


 まだ忘れていない。覚えている。僕は僕の事を覚えている。


 でも……鬼に喰われて……鬼に喰われてどうしたんだっけ?


 記憶が曖昧だ。僕は高層長屋の一室で、可愛い女の子とうどんを食べていたはずなのに。


 どこをどう間違ってこんなことになったのか。

 誰かに話しかけてこの疑問を速急に解決したかった。


 あれは良い気持ちだったのに。最高だったのに。


 本当に何でこんな酷い目に。前向きに最悪だ。世界が自動的に腐っていくなんて。


「あと三千万分後に声をかけてください……僕はもう一度寝ます」


「忘れられたいの?」


 少女は蝶のような着物を着こみ、悠然と微笑んで見せた。マフラーを巻いて腰には一振りの刀をさしている。黒い刀だ。それは確か黒鋼という名前だったはずだ。


 一振りの刀……? かたな? 思わず飛び起きて身構えた。


「どうしてそんな事を? 忘れ物の森とは僕が忘れる森なんじゃないのか?」


「いいえ。あなたが忘れられるの」


「誰でも至極当然そうなように、僕は忘れられたくなんかない。マフラー美少女よ……あとで写真撮らせてください! 着物にマフラーなんて見た事のない素敵な組み合わせではありませんか」


 言ってからおかしいと気がつく。


「そう、なら、悪いけど死んで……」


 少女は刀を引き抜く。嗚呼、なびくマフラーがヒーローみたいでかっこよかった。握手してもらえないだろうか。などと考えた所で、愕然とした。だから僕を殺すと言うのか?


 僕と握手したくないから!


 何という事だ。こんな時でも僕は僕でしかない。


「ちょっと待て、マフラー美少女。初対面で何を言っているんだ?」


「お前がね」


 刀の燃えるような黒い光が目に焼けつく。少女は刀を居合い抜きのように振るい僕の前で舞った。それだけで草むらがはらわれる。僕は恐くて後退した。


「話せばわかる!」


「そう言って昔、死んだ政治家もいたわね。二度目でも普通は嫌だと思うけど?」


 少女は刀を振りかぶる。正眼に構え、引き絞るように振り降ろす。


「だからなんでだよ! なんで殺されるんだよ!」


 何が悪かったんだ?


 僕は君のマフラーを称えただけだぞ。まさか、自分を褒めて欲しかったのか!?

 なんだ。それならそうと言ってくれ。


「仕方ないな……君の写真も撮るよ……それでいいだろう?」


「残念そうに言うな」


 少女は刀を振りかざした。着物の袖を広げて回転する。軽く僕を回し切り。思わず身をかわす。なにすんだ。危ないな。少女はにこりとも笑わなかった。


「だから悪いけど死んでと言ったでしょ」


「悪いけどをつけたら許される世の中なんてどこにもない!」


 絶対ない。


「ならひとつだけ言う。死んで」


「どうして死んで欲しいんだよ!」


「ここは眠りの森だから」


「意味がわからないよ!」


「意味なんて気がついた時にはもう遅い。ここは忘れ者の森だから……貴方もきっと何もかも忘れる」


 刀を振りかぶった彼女は僕の前に立ち、顔を覗き込んだ。覗きこんで蒼白になって、そして丁寧に頭を下げた。ゴメンナサイを繰り返す。


「人違い……頼光様じゃないのね」


「え?」


「似ているからちょっと間違えた。サヨウナラ」


 僕は少女の長いマフラーを引っ張っていた。


 びいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいぃいぃぃぃぃいぃん。


 彼女の懐からカイロが落っこちる。


「ちょっと待て! 間違いで済んだら、この世にカイロなんていらないんだよ!」


「その発言、撤回して。この世界からカイロが無くなったら私、困るから」


「ここはどこなんだ? 僕の夢の世界じゃないのか? なんなんだ? もしかして、彼岸なのか?」


「ここは眠りの森。知らないの?」


 聞き覚えはあった。だけど、僕は覚えていないのだ。思い出せないのだ。呆然とした。


 遠い森の話は従妹に聞いたのか、友達に聞いたのか。


「私は渡辺。よろしく」


 少女は僕に握手を求めた。綺麗な手だった。綺麗な指だった。


「人を殺そうとした癖によろしくだなんて、どんな神経をしているんだ? 僕は断固として君に説教をするぞ。そこに正座しろ。それから、後で……マフラーだけ撮影させてください」


 少女は口を小さく尖らせて僕の靴の指先の部分を踏んだ。踏みにじった。痛い……。


「だから先に謝ったでしょう。でも、お前は私のカイロを消しても謝らない」


「なんで自動的に僕が悪いみたいになっているんだよ。カイロなんてそこに転がっているじゃないか? 僕にそんな不可思議な力はないぞ」


 カイロは存在した。確かにそこに認識できた。少女はゆっくりと刀を下した。僕はカイロを拾って手に握る。


「本当にお前はここの支配者ではないの? 違うというの?」


 美少女はそう言った。


 彼女……僕の記憶にない顔だ。彼女は走った。森の中で小鹿のように舞う彼女の後を追う。

 何者なんだ。僕はその顔を思いだそうとした。記憶にもやがかかって思い出せない。


「敵かと思った。違って良かった。一緒にご飯でも食べに行こう、忘れ者」


 親しげな彼女の誘いにどこか懐かしい気持ちを覚えた。あまやかな気持ちだった。


 木々に足を取られながら必死で後を追う。


「君は誰なんだ。そしてここはどこの森なんだ?」


「世界の果ての領域。私はこの森の守人」


「もりもり……」


「略すな。私は渡辺綱出。綱出ちゃんと呼んで」


「自分にちゃんをつけるのか最近の女子は……」


「嫌みは通じない。私はここであらゆる仕事をしている。掃除、洗濯、家事、退治」


「最後のはともかく全般的に家庭的だ! 給料はどのくらい貰っているんだ?」


「うどん一杯」


「恐ろしい仕事についたんだな」


「あなたは? あなたは何?」


 僕は中学生で、播磨に住んでいて、ビルの群れの中にいて、その高層長屋の一室に……。かっこいいマフラー、梔子綱子ちゃん。僕の心のヒーロー。記憶の糸がゆっくりとほどけて行く。あれ、おかしいな?


「どうして僕はここにいるんだっけ?」


「ここには迷った人しか来ないの」


 当然のように口にする彼女。


 僕は何か迷っていたんだろうか?


「カツ丼にする?」


「いいよ。僕はうどんでうどんを三杯食べることができる達人だ」


「つわものね」


 美少女に尊敬された。良い気持ちになった。二人で森を突き進む。


「僕は佐伯皓人。三人兄妹の長男で、みんなのお兄ちゃんだ」


「私は一人っ子。ハムスターを飼っていたわ」


「うちの従妹なら燃えそうだ」


「お前の従妹はよく燃えるの? 人体発火なの?」


「スタントマンじゃない。とにかく」


 僕は先程、懐に入れたいカイロを彼女に渡した。大事な物みたいだし。


「どうぞ」


「ありがとう。私、冷え症なの。もう六年もここで冷え続けている」


 彼女はマフラーをきつく巻いた。


「行こう、忘れ者。食堂の時間が終わるわ」


 僕らは一筋の明かりを目指して歩いた。


 こんなところにある食堂が美味しいといいんだけど……そう願いながら。

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