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変態オオカミと忘れた君 ラストワンダーランド  作者: 新藤 愛巳
第一章 変態オオカミと忘れた君
15/141

幻の香り

 嘘も方便なら、嘘は福音だろうか。


 それとも罪はやはり罪なのだろうか。


 痛みはやはり痛みなのだろうか。


     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆


 今日も汗ばむ陽気だ。相変わらずのいい天気だ。快晴だ。

綱子ちゃんはマフラーを巻いて震えている。


 綱子ちゃんの領域は今日も凍てついている。


 寒すぎる。どんどん寒くなる。どんどん冷たくなる。何かが押し寄せてくるように。冷気の量が増えていく。何かを待っているかのように。


 辺りは樹木の匂いでむせ返っている。たくさん植わった葉桜の木が生き生きとしている。チンチョウゲの様な香りがする。桜ってこんなに匂いがする木だったろうか?


「皓人。今日は鬼退治の訓練をします。いいですか?」


 ここは生田公園。デートスポットで平和でのどかだ。なのに、なんだか空気が気持ち悪い。ねっとり絡みつくような視線を感じる。それに増して綱子ちゃんから発せられる冷気が強くなっていく。そんな中で僕は前向きに質問をした。


「綱子ちゃん。なんで急に訓練なんか?」


「なんでって、皓人が弱すぎるからよ」


「弱くったっていいじゃないか。弱くったって道端で咲いていけるんだよ。弱くったって綿毛は飛ばせるんだよ、弱くったってアスファルトは破壊できるんだよ」


 弱くったって生きていけるんだよ、前向きに。


「綿毛を飛ばしたとしても今のままではその芽は出ません。そんな芽は私が摘みます」


 拳を握りしめる綱子ちゃん。辛辣だ。辛辣すぎた。


「私は皓人に最強の使い手になってほしいと思います。皓人は最強の使い手になれます。間違いありません!」


「ああ、うん」


 その論理はわかるつもりだ。


 頼光さんは最高に強かったそうだ。一人で鬼を退治する最高の鬼切り師だったそうだ。間の者の中でも鬼は厄介な部類に入る。生命力が強く獰猛で言葉など通じない。そこにあるのは破壊衝動だけ。破壊だ

け。


「皓人は最強の使い手です。その素質があります。私が太鼓判を押します」


「ないないない。僕に押す太鼓判なんてありはしない」


 僕は頼光さんのフリをしているだけなんだから。まねっこなんだから。


 まがい物なんだから太鼓判を押されても困る。


「遠慮はいりません。私が油性マジックであなたに太鼓判を書いて差し上げます。強力です。この名前ペンは最強です。最強のマジックです あなたにこそふさわしいのです」


 尊敬の視線。僕は前向きに悲しくなった。それじゃあまるで張子の虎だ。


「消えないよな」


「消えないからこそいいのです」


 変態の上に最強か。どんな設定になるんだ、僕は。前向きに心の涙が流れそうだ。


「喜んでいますか。皓人」


「喜んでいいのか悪いのかもはや僕にはわからない領域だよ」


 わからない世界だった。完全にわからない。霧の中だ。頼りになる従妹を呼びたかったが、あいつは笑うだけだろう。笑ってこの状況を見守るだけだろう。


 綱子ちゃんは必死だ。


「皓人。私の名前は鬼を撃ち払うのですよ」


「前向きに訳が解らないよ」


「解らなくっていいの。理解できない方が理解できた時、人は嬉しいものです」


「それは論理の問題で僕としては」


 僕としてはそっとしておいてほしい……。前向きに平和に暮らしたい。


「何かおっしゃいましたか。皓人」


「何も」


 せっかく信用してくれているんだ。このまま嘘を突き通したい。しかし、問題がある。大きな問題が。戦ったらばれる。間違いなくばれる。


「僕は持病があって戦えない」


「どんな」


「君と戦うとこめかみが痛くなるんだ。立っていられないほどだ。あきらめてくれ」


 綱子ちゃんは公園のベンチに腰掛け僕を膝の上に乗せた。


「なら私がマッサージをいたします。昔の高貴な人は頭が痛いとこめかみに紫の布を巻いたそうです。血管を圧迫し、頭痛を取り去ることが出来きるの。さあ。私に全てを任せてください!」


 なんて献身的なんだ、綱子ちゃん。僕は紫色の布を頭部に巻かれて本格的に困った。

 綱子ちゃんと前向きに戦いたくない。彼女は真面目だ。本格的に真面目だ。


 真面目な彼女と戦う僕はきっとその真面目さゆえに、酷い目にあってしまうのではなかろうか。この成り行きで行くと、必然的にそっちの選択肢しか残ってない感じがする。前向きに最悪だ。最悪でしかない。ああ、綱子ちゃんが重い。


「安心してください。訓練にはその辺の棒切れを使います。頼光様なら簡単に避けられます。眼を閉じていても大丈夫です」


 死んじゃうよね。それ死んじゃうよね。ゴリゴリゴリ死んじゃうよね。


 今は死にたくありません!


 楽しいから。


 僕は刀の一族なので刀で死ぬことはない。問題はここからで、木刀やビルの欠片、その辺の石ですら僕には凶器なのだ。凶器でしかない。そんなもので訓練をしたら……前向きに恐い。


 綱子ちゃんはぼんやり笑う。


「大丈夫です。頼光様はよけられます。よけるのが得意でした。よける天才でした」


「それはいつの頼光様の事かな。生まれ変わった僕は前向きに避けられないよ」


 頼光さんは達人だったのだろうが、僕はそうではないのだ。そこまでは真似できない。真似をしたってすぐばれるだろう。動きでばれる。


「ですから訓練をします。鬼が来ても生き残れるように。私が鍛え上げます。もちろん頼光様はいつだって最強です。私が保証します」


 気持ちはわかるけど、有難迷惑だった。息を止めていない今の僕は最弱だ。

 最弱過ぎる。やっぱり狼の力に頼るしかないのか。


「綱子ちゃん」


「うどんのお礼です。気にしないでください。全力で行きたいと思います。でもあなたほどの使い手相手に私の技が通じるかどうかわかりません。ですから全力で行きます」


「そこをなんとか!」


「大丈夫。わかりました。気を使いましょう。もし当たっても衝撃が来るだけです」


 通じるよ。通じまくるよ。全力でいかなくても通じまくるよ。手を抜いてくれ。

 勢いよく光る気の棒を構える綱子ちゃん。その気の棒は小さな領域だ。


 ぶつかっても弾けるだけの弱い領域。


 前向きに避けるぞ。大丈夫。僕には硬化がある。


 死んだ魚の目をしよう。そうしてやり過ごそう。僕は木魚だ。

 そう言えば昔の人は魚を夜眠らない生き物だと思っていたらしい。


 武者小路さんの知識はいつも偏っている。なんて、どうでもいいことを考えて目を閉じた。

 息を止めよう。持って一分。あとはどうやって乗り切るかだが。


「皓人、何をやっているんだ? 面白そうだな」


 にやにやした海美がその場を通り掛かった。この時間だと生田周辺のパトロールか。いつものことだ。 海美はいつものように不敵な笑みを浮べている。


「やあ、面白そうだな。私も混ぜてくれないか? 気の棒の領域が作れるなんて、相当の使い手だと思ってはいたが感心したよ、梔子綱子。やっぱり本当にリフレインだったんだな。楽しそうじゃないか、皓人。こんなところでデートか?」


 海美。なんてこんなタイミングでパトロールしているんだ。

 ここで何かあるのか。もしくはここで何か起こったのか?


「何しに来たの、海美」


 綱子ちゃんは海美に気の棒を振り回す。海美はそれを海色の防御手甲で弾いた。

 手甲と言ってもこちらも掌で形成される小さな領域だ。


「あなたたち楽しそうだな。どうぞ続けて。私様は高みの見学と行こう」


「続けられるかよ」


 この公園が心配だよ。海美は大きく目を見開いた。


「あまり気を回すな。皓人の修行なんて面白そうだ。今、真里菜を呼ぶ」


「呼ばなくていいよ」


 これ以上、前向きに状況がこじれてほしくない。


「呼ぶ。面白いから呼ぶ。こういった行事はみんなで楽しんだ方がいい」


 前向きにテンションをあげるな、海美。もともと僕と綱子ちゃんは公園を楽しんでいただけなんだから。


「これ以上状況が混乱するとお前の生活に波風立てるぞ、海美。一句。【バス停を お前の家に 引き寄せる】。絶対、怒られるぞ」


「あなたがな」


 けれど、そんな凶悪な僕にはお構いなしで綱子ちゃんはぼんやりと指をくわえた。


「海美、真里菜にはホワイトクッキーを貰いたいの。たくさん持ってくるように言っておいて。お願いします」


 修行でも何でもいい、せっかくの二人きりが。

 嬉しそうな海美は蒸気携帯のスイッチを押した。ああ、どうなっても知らないぞ。


『はい。真里菜です』


「真里菜。ホワイトクッキーを大量に持ってきてくれ。面白いものが見えるはずだ」


『行きます、行きます』


 ずいぶんと楽しそうだ。


「海美。一般人をこの修行に巻き込むなんて何を考えているんだ」


 蒸気携帯は吐き出す蒸気を止めた。海美、なぜ真里菜ちゃんを呼ぶんだ。


 海美は男役らしくふんぞり返った。


「ただの一般人じゃない。最強の後ろ盾を持った一般人だ。あなたをサンドバックにする綱子を止めてくれるかもしれんよ。そうだろう。皓人。私様はお前のためを思って呼んだのだよ。そんなこともわからんとは」


「何だって。それが本当ならラッキーだ!」


 海美は声を潜めた。


「それに皓人。お前まだ真里菜が好きなんじゃないか。赤雪姫ともいろいろあったりしただろう?」


 なんだよ。アホ従妹。


 僕は本当の意味で彼女を救えなかった。


 僕が美形だったら、楽しかっただろうな。

しかし、僕は普通のこの僕を気に入っている。この僕以外に僕は考えられない。

あきらめなくてはならなくても、たどり着けなくてもこれが僕なんだ。僕でしかない。


「前向きでいいな、皓人。あなたのそう言うところが好きだよ。しかし、私様はあなたの行動にいつも危なっかしさを感じているよ。気をつけたまえ」


 いつもと違って心底心配そうな海美。


「危なっかしさ? 僕は危険をよけて通る方だぞ」


「それは何もない場合だろう。問題が起こると行き当たりばったりなんだよ。このど根性前向き男」


 海美の一言はいつも重い。海美は熱っぽい目で僕を見つめている。


「まあそうかもしれないけど」


「私様は周りに頼りまくりだ。あなたはもっと他人を頼れ」


「お前は丸投げまくりだよ……前向きに」


 綱子ちゃんが冷たい目で僕らを見上げていた。


「ひょっとしてラブシーンをしていますか? 皓人。ラブシーンですか? それはラブシーンですね。私の攻撃を食らいたいのですか?」


 大きな気の棒を振り回す綱子ちゃん。前向きにそれはやめて。


「これはラブシーンだとはいわないよ」


「してないしてない」


 抱き合って震えあがる海美と僕。


「ならいいです。特訓をしましょう」


 綱子ちゃんは気の棒を振りかざす。この気の棒は綱子ちゃんの他の領域同様冷たい。当たったら冷やっこいんだろうな。


「特訓ってどんな? 避けるだけじゃないのか?」


 恐る恐る。前向きにあまり乗り気じゃない僕。綱子ちゃんは笑った。


「特訓の最後に領域を使ってこの大岩を割ってもらいます」


 傍に大きな看板が置いてある。その看板にはたくさんの恋人たちの手形が刻まれていた。手を重ねすぎてへこんだ木が手形のようになっている。


 僕は見た。その大岩は生田名物。観光名所の名物。


『恋人たちのハート岩。夕日を背にこの石に願をかけると恋がかないます。生田イカルガ官公庁』


「君は鬼か」


「断じて違うわ。皓人、私の目を見て」


 珍しくよどんでいるよ。


「目を見ても何も変わらないよ。なんでそんな大事なものを壊そうとするんだよ」


 岩になりたいんじゃなかったのかよ。岩は仲間じゃなかったのかよ。


「それはね」


 綱子ちゃんは息を吸い込んだ。


「人の思いが募ったものはいつか鬼になるからよ」


「ああ、そうなのか。いつか鬼になるのか? こんな岩が? 海美はどう思う?」


「確かに過去にそう言う伝承はあったな。調べてみろ、皓人」


 僕はワンダーランドを呼んだ。そこから鬼の本を呼び出す。武者小路さんの死人のように冷たい右手が僕に本を押し渡した。武者小路さんは僕のワンダーランドから出ると消えてしまうのだ。だから彼女らは永遠にこの中で暮らす。僕が生きている限り、この領域は有効だ。


 無論、武者小路さんも玉藻ちゃんもこの中でしか生きられない。人とは呼べぬよどんだ存在だ。


「人の想念が鬼を作り出すか。前向きに怖いな」


 僕は本をめくった。僕には満月狼の目があるので見たい情報を見たい時に探しだすことが出来る。結構、便利だ。


 そんな僕を綱子ちゃんが怒って見ていた。


「皓人。狼の力をそんな風に使わない」


「だって便利だよ」


「便利でも使わないで。頼光様はそんなものに頼ったりしません」


「わかった気を付けよう」


 海美が吹きだしそうな顔で僕を見ている。


「かっこいいよ。皓人。かっこよすぎるよ。くくく」


「お前は面白がっているだけだろう」


「いいや、かっこいい。見直したなあ」


 絶賛する従妹。何が何だかわからない綱子ちゃんは指をくわえた。


「海美。お前も皓人のエネミーなのですか?」


「綱子ちゃん、綱子ちゃん、落ち着いて」


 この子、人と敵対するときも丁寧語になるのか。


「だって、海美はいろんな皓人を知っている。私のエネミーですね!」


「そうかも、そうかも」


 笑顔で悪乗りする海美。お前って奴は、面白ければなんでも良かったよな。


「知っているよ。子供の頃から一緒だからね。だけど、皓人はずっとこんな感じだよ。あなたの思うとおりの男だ」


「私の思う通りの人」


 綱子ちゃんは嬉しそうな顔をした。


「私の思う通りの人」


 腕を組む綱子ちゃん。


 そこに真里菜ちゃんがやってきた。


「こんにちは。先輩っ。本日はお日柄もよく」


 真里菜ちゃんは動きを止めた。


「先輩、炎天下でマフラー少女と触れ合ったら倒れてしまいますよっ。給水第一ですよっ」


 綱子ちゃんが真里菜ちゃんを指差した。


「皓人、私たちを引きはがそうとするなんて、もしかして真里菜は私のエネミーですか?」


「敵じゃない。味方だよ。何でも敵にするな。君の周りは敵だらけか!」


「私の周りはエネミーだらけです、皓人。はっ。あそこで物欲しそうにしている野良犬も、もしや私のエネミーですねっ」


「考えすぎだよ。何考えているんだよ!」


「真里菜が笑顔で私を見下ろして笑っているわ。ひょっとして私のエネミーですか?」


「見下ろしているのは君の背が低いからだよ。笑顔なのは親しみを込めてだよ……」


「海美がにやついている。あれもエネミーですか?」


「海美がにやついているのは……あいつはいつもあんな感じだ!」


「そんなはずない。皓人は騙されているんだわ。私にはわかる。わかるもの!」


 綱子ちゃんの被害妄想が前向きに酷い。どうしたらいいんだ。


「私たちは敵じゃありませんよっ。この子はお腹を空かせているんですっ」


 真里菜ちゃんは野良犬にクッキーを分けてあげた。優しいなあ。ほら敵じゃないよ。綱子ちゃん。


「私のホワイトクッキーが犬に。やはりエネミーですか!」


「真里菜ちゃんは前向きにいい奴だ。目を覚ませ、綱子ちゃん。この犬だって真里菜ちゃんに感謝している!」


 野良犬は大きな舌でべろべろ真里菜ちゃんを舐めた。


「私も触りたい。フコフコしたい」


 綱子ちゃんの目が爛々と輝いた。


「羨ましい。今からお前を触る!」


 野良犬は焦って吠えた。なんて真っ直ぐなんだ、綱子ちゃん。間違った方向に真っ直ぐだよ。どうしたらいいんだ。野良犬も困って鳴いている。こんな状況初めてだよ。


「そんな前向きに威圧的だと犬も懐かないよ」


 むしろ怯えて逃げていくよ。


「どうしたらいいの。皓人」


 泣きそうな綱子ちゃん。


「しゃがんで視線を合わせて触ったらどうかな。相手が怖がらないように」


 綱子ちゃんは鋭い目をした。


「私は怖がってなどいない。私は必ずお前を触る。お前の腹を鷲掴みにする」


「犬が怖がっているんだよ……前向きに」


「そう。そうなのね。私、怖くないのよ?」


 その射抜くような眼光からして相当怖かった。


「綱子ちゃん、腰を落として。目線を合わせてホワイトクッキーをあげて」


 ほら早く。餌付けだ。餌付けしかない。


「それは私のホワイトクッキーなのよ。あげられない! 空腹で目が回りそう!」


「信頼関係を作るんだ」


 綱子ちゃんは震えた。


「私のホワイトクッキーをあげる! 受け取りなさい! そして来なさい。えびす!」


「勝手に自分のところの神様の名前を付けるな。叱られるぞ」


「来なさい、アレキサンダー」


 この子、さっきから犬に殺気しかふりまいてないんですけど。大丈夫なんだろうか。犬は激しく唸りながらホワイトクッキーをかじる。


「綱子ちゃん、そこで優しく笑って、頭撫でて」


「こ、こうかしら?」


 その笑顔は特別な笑顔だった。気持ちのいい、可愛い笑顔だった。犬は抵抗をやめて、必死にクッキーをかじっている。


「うん。うん。そうですよ。綱子ちゃん! 可愛い。可愛いですよっ」


 真里菜ちゃんは手を叩いて喜んだ。


「あとは尻尾を振ってもらえれば完璧ですよっ。綱子ちゃん」


「待て、真里菜ちゃん。ここからが肝心だ。犬の右振りのしっぽは安心と信頼、左振りは緊張と恐れだ!」


 右に振れないと意味がない。


「先輩、相変わらず変なことに詳しいですねっ」


「うちのワンダーランドの情報だよ。こんなのばっかり拾ってくるんだ。玉藻ちゃんは」


「皓人、その子は可愛いの? 会わせなさい! 八つ裂きにするから」


「ワンダーランドの中は僕の血族しか入れないよ!」


 綱子ちゃんが殺し屋のような目で一瞬こっちを睨んだ。


 なんだなんだ。一体、何をされるんだ。緊張で口が渇く。


 綱子ちゃんは僕に背を向けて、犬をぎゅっと抱き締めた。


「おいで」


 強引だ。強引だよ、綱子ちゃん。だけど。


 犬は綱子ちゃんに懐いた。頬を舐めまくっている。


「必ず飼い主を探すわ」


「わかった。後で探そうね」


 綱子ちゃんは満足したようだ。


「そうね。飼い主は逃げやしない。それに真里菜は私の敵じゃないわ。真里菜は皓人のエネミーね」


「なんでそうなるんだよ」


「気が長いフリをしてお前に近づいて、公園の隅で皓人をいびるんだわ! それも一日中。可哀想な皓人。本当に酷い」


 ハンカチを手に涙を流す、綱子ちゃん。


「前向きに君が気の毒だよ。被害妄想が五百メートル先を走ってあの向こうでゴールしたよ!」


「だって真里菜は私のホワイトクッキーを……こんなに減らしてしまった」


 膝を突いて辺りに冷気を振りまく、綱子ちゃん。


「そんなに飢えていたのか、綱子ちゃん」


「そうね。まる三日間、何も食べていないわ」


「それを早く言えよ」


 財布を確認する僕。あいにく今日は持ち合わせがなかった。海美はニヒルに笑う。


「お腹が空いたのか? 可哀想に。私様なら経済力があるぞ。そこの皓人とは違ってな」


「経済力」


 目をきらめかせる綱子ちゃん。


「はっ。海美。お前も、お前もそうなのね。皓人を叱るのね。金遣いが荒いと」


「君にうどんを提供しているからだよ!」


 海美は吹き出していた。


「いいコンビじゃないか」


 綱子ちゃんはよろめいた。


「コンビじゃないわ。やっぱりそうだったのね。そんなこととっくに予想出来ていたわ、海美。私と戦いなさい。お前、皓人のエネミーですね!」


「やはり梔子綱子、君は正義の英雄だったか。私は悪の親玉だ。覚悟しろ」


 悪乗りする海美。海美、前向きに面白がっているな。それでこそ、僕の従妹だ。


「綱子ちゃんが信じたらどうする」


「その時はその時だよ」


 綱子ちゃんは気の棒を振り回す。


「海美。綱子ちゃんの被害妄想を前向きに拡大させないでくれ」


「被害妄想じゃないわ。これは本妄想ほんもうそうです!」


 妄想やめんか。


「頼むから前向きに平和にいこう。平和に安全に。お願いします」


 真里菜ちゃんがにこにこ笑った。


「そんなことはつゆ知りませんでしたが、お腹を空かせていると思って綱子ちゃんに大量のホワイトクッキー持ってきましたよ。お望みのっ。どうですか? これでは足りませんか?」


 真里菜ちゃんは背中に背負っていた小さなリュックから、ホワイトクッキーの大袋を差し出した。


「はい。どうぞ」


「真里菜、大好き」


 綱子ちゃんは真里菜ちゃんの両手を握った。眼を輝かせている。

 野良犬も隣で目を輝かせている。


 今日の綱子ちゃんは滅茶苦茶だ。人間お腹が空くと極限状態になるものらしい。


 僕はまだ極限になったことはないが。いつか僕の中の満月狼が暴れ出したら極限になるのかもしれない。そう思うと、気が重いけど、そんな日が来るのはもっと先の話だろう。


「ああ、真里菜はやっぱり私のエネミーじゃない。はっ。このクッキーは長くないわ。小さくて丸い! こんなクッキーで皓人の精神を混乱させようと、そんな馬鹿な! なんて姑息な手段なの! やはり真里菜は皓人のエネミーですね!」


「考えすぎだよ、綱子ちゃん!」


「大丈夫ですよっ。綱子ちゃん、私だって考えていますよ! このクッキーは賞味期限が長いんですっ」


 えっ。胸が高鳴る。きゅんとする。


「真里菜。何を入れたの。一体何を! 皓人のおなかが心配よ!」


「安心してください。ザラメを入れました。長持ちですっ」


「そんなものを犬に食べさせて大丈夫か!」


 別の心配をする僕を綱子ちゃんはおしどけた。


「私は大きなクッキーが好きなの。いっぱい食べれらるから。いっぱい食べたい」


 ぼんやり指をくわえる綱子ちゃん。やはりただの極限状態だった。


「綱子ちゃん。クッキーぐらいでストレスがたまっていたら、満月狼にとりつかれた時点でとっくに参っているよ」


「はっ。皓人は変態ではなく、むしろ、変態狼」


「いや、だから変態狼ってこんなところで呼ばないで。いろんな人が僕らを見ているよ。前向きに最悪だよ」


 本当にじろじろ見ているよ。


「わかっています。皓人は襲うタイプの狼ね」


 そんなことを言いながら僕を指差すのはやめてくれ。このパターンは。

 遠くから勅使河原君がにこやかに手を振っていた。やっぱりここにもいたのか、勅使河原君。


「綱子ちゃんここから逃げよう」


「どうして。私は逃げも隠れもしない。ダンスも、パイロットも宇宙飛行士もしない! コサックダンスも、生け花も、漫談もしない!」


「しないのか」


 綱子ちゃんは少し照れた。


「ダンスと生け花はちょっとだけします」


「どうやって?」


 綱子ちゃんは生け花を持ったパントマイムのポーズでダンスを踊った。可愛らしかった。良いじゃないか。


「どうかしら!」


 拍手が巻き起こる。


 周りのみんなが綱子ちゃんを見ている。

 綱子ちゃんはじっと僕を見ていた。そんな挑むように見られても、僕はなんと言えばいいのか、前向きに困った。


 真里菜ちゃんが感心している。


「綱子ちゃんは小さくて可愛いですよねっ」


 綱子ちゃんは高速で僕の後ろに隠れた。


「はっ。真里菜。お前は私のエネミーですか? 小さいだなんて! 屈辱よ!」


 海美が茂みの陰から勢いよく立ち上がった。


「そうだ。小さくてかわいいのはハムスターだけだ。気が合うな、綱子。ハムスターはこの世で一番かわいい生き物だ。そんな生き物をみんなで見に行こう。皓人のうちに。もちろんうどんも手配する。横志摩家の財力に賭けて!」


「お前はどこへ行く気だよ。アホ従妹」


 力いっぱい尋ねる僕。海美は不敵に笑った。


「もちろん現金を取りに私の家だ。基本カードしか持ち歩かない主義でな」


 横志摩家。そこは僕にとっては魔窟だ。行きたくない。


「今日も赤雪姫がいるんじゃなかったっけ?」


「今日は出かけている。皓人も怖がることはない」


「怖がってないよ」


 怖がるわけがない。怖いはずがない。壊れた者なんてもう意味がないんだから。


「とにかく、私様の家で作戦会議を開こう」


「なんの」


 僕が暢気に尋ねるとアホ従妹は不敵に笑った。


「鬼退治のだ。実は一週間前からここを訪れた人間が消える事故が多発している。多発しかしていない」


「ここに来た人間が?」


 綱子ちゃんも真里菜ちゃんも神妙な顔になった。この辺は生田中学が近い。それに幼稚園や保育園だって近い。訪れる機会のあるものは多い。


「君たちに集まってもらったのは面白いからではない。私様の仕事を手伝ってもらうためだ」


「遊んでいたよね」


「遊んでいましたよね」


「遊んでいたわ」


 三人の意見がぴたりと合致した。海美は咳払いする。


「鬼を倒すには君たちの力が必要だ。なぜなら、私様は防御専門。千牙刀も使えるが綱子ほどではない。だのに人をかどわかした人々に害なす鬼を打ち払えようか、否、打ち払えるはずがない。もどかしい私様の気持ちがわかるだろう?」


 そう言えば子供の頃の海美は間の物を傷つけるのが苦手だった。今は平気みたいだけど。


「この公園から人を退避させればいいじゃないか」


 僕の意見に海美は首を振った。


「避難させるということは横志摩家の名を語らねばならない。横志摩家の名を使うことはたとえ有事でもあってはならない。なぜなら、成りたてで人間に近い鬼ならともかく、普通の年季の入った鬼は一般人には見えない。まるで見えない。そんな物の存在を世間に示してみろ。問題になると意見をくれたのはお前じゃないか、皓人」


 そうだ。その通りだ。だけど。場合が違ったらどうする。人命が第一なのがこの仕事だ。


「何人消えた?」


「ざっと二百人だ」


「二百……」


 消えすぎだ。いなくなりすぎだ。


「そう目くじらを立てるな。ここら一帯の人口は三十万人だ」


「そんな問題じゃない」


 海美は僕の意見を理解できないようだ。憮然としている。


「イカルガ通信、瓦版には何と?」


「謎の大量失踪事件。これが昨日の瓦版だよ」


 海美は僕の顔色を見て神妙な顔をした。


「まずいのか、皓人」


「かなりまずい」


「私様は鬼の仕業だと思う」


 この公園に来る人間か。無節操すぎる。なんとか絞り込めないだろうか前向きに。

 綱子ちゃんが厳しい顔で唇をかみしめている。


「海美、間の者の仕業?」


「わからない。綱子はどう思う?」


「鬼の気配はしないと思う。感じられない。どうしてかしら」


 鬼の専門家は厳しい顔を崩さない。鬼じゃないのか?


「真里菜ちゃんは?」


「幽かで分かりにくいですっ。残り香のようなものは感じるんですがっ。お香ですかね?」


 お香。香りが出る木。香木?


 三大香木なら、チンチョウゲ、クチナシ、キンモクセイ。


 ああそうか、クチナシもそうなんだ。クチナシも香木だ。綱子ちゃんの名字も香木の名前だ。


「海美、どうしてそんなにたくさんの人数が消えたのに放っておいたんだ。横志摩家の失態だぞ。どうするんだ。これ以上、被害が続いたら」


 そうは言ってもと海美は首をひねった。


「二百人が大した数か?」


「大した数なんだよ。一般的には」


「五万人が消えたらさすがにおかしいと思うが」


「お前は感覚がずれているんだよ、海美。一人消えても、二人消えても世間では問題なんだ。僕の感覚でも大問題だ」


「そうなのか……」


 男役のような完全さを持った海美は美しい変人だ。その変人には一般的な感覚がわからないらしい。綱子ちゃんは海美を威嚇している。正義感の塊の綱子ちゃんには逆に海美の感覚がわからない。きっと永遠に理解できない。だから爪を立てるのだろう。友達になんてならないのだろう。友達になんてなれないのだろう。


「それで、どんな状況でみんな失踪したんだ?」


 海美は釈然としないと言いながら、僕を見た。


「それが、みんな恋人に会いに行くと言って消えたようだよ。プレゼントの香木を持ってね。行き場所はしっかりしているから、みんなしばらく失踪届を出さなかったそうだ。それで事件が明るみになるのが遅れた。ヒルメが気づいたのが昨日だ」


「みんな一斉にか」


「いいや。ここ一週間でじわじわと。その中の身内がヒルメに騒ぎ立てたそうだ。それでようやく明るみにでた」


 恋人に会いに行く。そんな人たちが時間差で姿を消した。その数、二百人か。

 なんということだ。それはもう事件以外の何物でもない。しかし、横志摩家はその一般常識の基準がわからない連中だらけなのだ。本当に魔窟だ。


 だから僕はこの従妹に一般常識を教えていかなくてはならない。

 前向きに疲れる仕事だ。しかし、やりがいのある仕事だ。


「消えた人数が問題じゃない。消えた人間が問題なんだ。それが横志摩家の基準では測れない世間の基準だ。そんなに大量に人が消えるなら、人命を尊重すべきだ。そうは思わないか、海美」


「人命なんて横志摩家の前ではかすんでしまうからな。困ったものだよ」


 綱子ちゃんは肩を怒らせた。


「人命を大切にしない組織は私が滅ぼす。完膚なきまで」


 綱子ちゃんの胸元で野良犬がキューンと鳴いた。


「滅ぼさなくてもいいよ、綱子ちゃん。僕がいつも意見して方向修正しているんだから」


「皓人、やっぱりかっこいい。皓人は人間的に素晴らしいです」


 綱子ちゃんは僕をほめたたえた。


「先輩」


 真里菜ちゃんが僕を見た。


「先輩は愛されているんですね」


「上司を尊敬するように信頼されているだけだ」


「あなたの剣技は最強です。その力は私の刀に受け継がれている。私の力!」


 綱子ちゃんは無形を振り回した。

 その瞬間、公園の桜の木の枝にひびが入った。

 眼の端に赤い粒子が流れたような気がした。


 なんだったんだ。


 大ぶりの枝が折れて辺りに落ちる。

 凄惨な風景だった。通行人が怯えている。

 僕は持っていた包帯で桜の木を手当てした。これで良し。

 潮が引くように公園中のいい匂いが失せていく。


「私の所為? 私の所為?」


 綱子ちゃんはボロボロ泣き始める。


「泣くな、綱子ちゃん」


 真里菜ちゃんがおずおず手を挙げた。


「本当に、横志摩家で作戦会議を開いた方がよさそうですよ」


 公園の向こうで声がする。


「あっちに綺麗な人がいるんだってさ」


「女優?」


 人々が美しい綱子ちゃん見たさに集まってくる。


「剣の達人が来ているんですって」


「大道芸の人らしいよ」


「かっこいいマフラー少女らしい」


 綱子ちゃんは蒼白になった。


「私目立ちたくない」


「だったら、どうしてそんな目立つ格好をしているんだ? 僕は好きだけど」


「皓人、覚えがありませんか。これは……掛け軸にもある渡辺の綱出の制服です」


 そう言えば赤雪姫も、ドレスを着ていたっけ。今は真っ赤なドレスだけれど。


 遠巻きに見ていた勅使河原君が手を挙げてどんどん僕に近づいてくる。僕らと野良犬は綱子ちゃんの冷たい領域、バニッシングにまぎれて姿を消した。


 一般人である勅使河原君を巻き込むわけにはいかない。巻き込んでも僕は守れない。だから僕らは姿を消した。家族以外としゃべる時はダイコンとしゃべっているような顔をしてしまうのも、誰も巻き込まないためだ。僕は弱い。弱い僕は戦うこともしない。戦いなどしない。


 目を閉じてやり過ごそう。痛みを捨てるために。

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