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涙と蝶  作者:
8章 Dezember 藍の街
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「契約?」

 思ってもみない提案にパウルゼン騎士団総長であるフリーデグント伯は思わず漏れ出た感情を抑えることも忘れ、失笑まじりの表情をあからさまに向けてきた。

 会談用に用意された応接室でエルケはやんわりとソファーの端に腰かけている。膝の上に刺繍を施された長いスカートが床まで這い、濃い藍色の敷物の一部を覆っていた。

 目の前にいる謎の鑑定士にふんしたエルケはその長く目立つ髪を黒いケープに包み隠し、手までも長いレースの手袋で覆い隠している。昔薄汚い布きれで覆い隠していた醜い奴隷の焼印をあまり気にしなくなったのはいつからだっただろうか。

 部屋は暑くも寒くもない適温に調節されていた。

 暖炉の火は赤々と燃えあがり、木のはぜる音だけがさほど広くもない部屋に響いていた。

 先ほどまで上半身を覆っていた外套はこの屋敷に入るとき、装飾の施された美しい手摺の階段があるホールで手渡してしまったからこの暖かさは嬉しい。

 案内された部屋には数人の兵士がいた。

 エーゲルのお抱え役人の威光はこの藍の街パウルゼンにはあまり届かないようだ。まぁ、たかが地方役人の一人だ。仕方ないと言えば仕方ない。

(ここまで無事に着くことができるだけでも良かったと思う……べきなのかな)

 名乗らない貴婦人の長旅はここで一度終演を迎える。

 ここからは人魚であるエルケとして、何とかあの廃墟となった村に向かわなくてはいけない。

 ちらり、視線を窓へ向ける。

 こんな寒いのに雪は降っていない。外で待つことになったヤンは今頃どこで時間をつぶしているだろうかと思う。もしかしたら彼のことだ。近くの木の下で律儀にエルケが出てくるのを待っているのかもしれない。

 長い爪を覆い隠した黒いレースの手の甲を無意識にもう一方の爪でひっかいた。

 爪はどういう作用なのか、何も手入れをしていないというのに美しく整いほんのり赤く彩っている。

 水に赤い染料を流し込んだように、それこそ体を流れる血潮を透かしたようだ。正直、エルケの中に流れる『それ』が人間と同じである保証はなにもない。

「ええ、取引ではありません。契約です」

 窓枠がエルケの声へ呼応するようにかたりと揺れた。

 風が強くなっていく。

 それでもまだそれはただの風のいたずらに過ぎないだろう。部屋の中でまだ人払いの済んでいない使用人たちにも出入り口を鋭い視線で守る兵士にも、それこそ外に無数にいるパウルゼン騎士団の面々にもその変化は気づかれていないはずだった。

 勿論、目の前で小馬鹿にする笑みを浮かべたままのフリーデグント伯にも。

 目の前に置かれたティーセットは湯気が立っていた。美しい春の花が描かれた華やかなカップにはベルンシュタインにも似た色の液体が注がれている。

 決して手を伸ばすことはしない。

 この地に入りフリーデグント伯の前に引き出された時点で、恐らく身元不明(一応エーゲル役人のお抱え宝石鑑定士という名目はあるが)の貴婦人は何らかの疑いがかけられているのだろう。

 クルトの姿は、この屋敷の敷地内に入ったときから見ていなかった。

 ヨープ選帝侯に反意ありとみなされた時点でヨープに拘束されてもおかしくはないその身だ。もしかすると選帝侯ブラル大司教からなんらかの指示があるまで、クラウスのいるヨープから遠く離れたこの地に縛り付けておくつもりなのかもしれない。

 しかし、

(そうはさせない)

 エルケは震える片方の手を強く握りしめる。守るべくものを心の中で強く思い返しながら今できることを自分の中に言い聞かせた。

 できるだろうか? 思ってしまうと心の中に不安がせめぎあう。

 人魚の力と認識して使ったことなどエルケには全く覚えがなかった。泣いた時、感情が激しく揺れた時、そんな時にはあの美しい故郷の海がいつも応えてくれた。もう人魚は海にいないというのにエルケを慰めるように打ち上げられる美しい命の石。

 それでもエルケには呼びかけた覚えはなかったのだ。

 フリーデグント伯が片手をわずかに持ち上げた。

 それが合図になったのか。ティーセットを運びながらもどこか使用人らしくない仕草のメイドも、部屋の中にいた兵士も自然に部屋からその姿を消した。

 残されたのは、部屋の暖炉の近くに二名の騎士。それに、フリーデグント伯。

「一介の鑑定士と私にどんな契約内容が?」

「ええ、ええ。一介の鑑定士ごときには大変おこがましい提案だと思っています」

 懐から布袋を出すと、エルケはその中身を大理石のテーブル上に一気に広げた。

 それなりの重さがあった石の塊はいくつか激しい音を立ててテーブルの上を滑り柔らかな敷物に転がっていく。いくつかはフロリアンの宝石庫から隠し持ってきたものだ。

 でもこれくらいではフリーデグント伯を驚かすことはできないだろう。何せあくまでこれは地方役人のコレクションで所領を揺るがす価値があるとは思えない。

 思っていた通り、彼はさほど驚くこともなく転がった石には見向きもせずに首を傾げた。

「これは?」

「フロリアン様からの贈り物です」

「贈り物にしては……随分とぞんざいな」

「だって石ころですもの」

 エルケもフリーデグント伯に倣い首を傾げた。

 これからだ。交渉にすべてを気持ちを向けなくては、カヤならともかく交渉ごとに手馴れていないエルケでは隙を見せればすぐにその脆さに気づかれてしまうだろう。

(本当は不安で仕方がない)

 胸が早鐘を打っている。

 屋敷の外、近くにいるだろうヤンを思う。何も言わずにいつもそばにいてくれる。だから気にせずに前を向いていられる。

 どこかで退屈しているに違いないクルトを思う。いつも前を突き進むからその背中を追わなくてはいけない。だからしゃがみこみそうになっても立っていられる。

 エルケは大切そうに一つの石を取り出した。

 しっくりとエルケの手の中に収まる大きさの石だ。軽く、身に着けていた割に少し冷たい。表面はなめらかで悲しい色をしていた。

 涙が出そうに懐かしい夕焼けの色、その上に覆いかぶさる炎の残酷さ。搾り取る血潮の流れ、蹂躙される人間のようにぽつぽつと見える黒い斑点。その間でもがく虫の姿。

 立ち上がり片手で黒いレースのケープを引く。覆い隠されていた長い髪がたったそれだけのことで均衡を失い、重力に従って体を滑り落ちてくる。 

 真紅の髪、夕焼けの髪。血潮に似た色はまるでベルンシュタインの糸のようだ。

 腰をはるかに超えて、髪の毛は敷物にも届きそうな勢いで広がった。

 その姿は血の海に泳ぐ人魚のごとく。

 呆気にとられている男の顔をレース越しではなく直接目にしながらエルケは驚いた。そうだ。勿論、何か気づくはずはないのだ。

 あの時のエルケは少年の姿で、たった数か月といえど想像以上に姿形が全く違うのだから。

「久方ぶりです、フリーデグント伯。ヨープの城以来ですね。あの時は……随分とお世話になりました」

 思わず皮肉を言ってしまった。

 皮肉だって言いたくもなる。あの時からエルケの何もかもが変わってしまった。蝶を葬りゼークトの復讐をし、姉のもとに戻るだけだった旅をここまで膨らませ大きなものにしたのはあれがきっかけだ。

 手にしたベルンシュタインを指先で持ち、フリーデグント伯の目の前で揺らす。

 エルケが足を出す。と、部屋に残された二人の騎士は警戒するかと思いきや人間離れしたエルケの姿に魂を抜かれたのか呆けたままだった。

 しかしさすがともいうべきか、パウルゼン騎士団の総長は僅かな呆けから立ち直りしゃがみこむエルケを睨みつけた。手は剣にかかっている。

「随分といろいろと変わるものだ。人魚とはそういうものなのか、気味が悪い」

「………」

「あの時の……人魚がワルゼから逃げ出してこんなところに逃げ込んでいたとはな」

「僕だって利用されて、無駄に死にたくはないから」

 思わず激昂のあまりに口調が元に戻ってしまった。

 感情の昂りに促されたのか、窓枠が軋む。ゼークトに近いこの場所でどこまでエルケの力が使えるのか、まだ試していない今では賭けのようなものだ。

 この地に到着した時からすでに厚い雲がかかっていた空は、その色を濃くして海の波を高くしているのだろう。主の戻りを喜び、母なる海に戻って来いとその手を差し伸べてくる。本来ならば地上はエルケのいるべき場所ではないのだ。

 声を荒げたエルケとは反してフリーデグント伯は落ち着きを取り戻した声で淡々と話す。

「その為にワルゼの騎士団を巻き込んでも、というのだね。高潔な人魚には人々の暮らしは興味がないのだろう」

「違う」

 荒げた声と同時にがたと窓が鳴った。

 外の様子がおかしいことにやっと気づいた騎士が窓の外へと視線を向ける。外が見えないほど大きな粒の雨交じりの雪が降り始めているのだ。嵐が来る。

 風が窓を叩いた。

 拳を振り上げ外から叩いているかのようにガラスが軋んだ。

「マルプルク公国もヨープ選帝侯領ももう転覆寸前の船じゃないか。戦争なんてしてる場合じゃないでしょう? わかっているはずだ。領民は苦しんでいる。今日のパンだって心配する暮らしだ」

 エルケの言葉に二人の騎士が身じろいだ。

 フリーデグント伯は唇だけをわずかに持ち上げる。

(わかっている。ヤンにも言われた。これは綺麗ごとだ)

 だからエルケは今現実問題として解決策を提示しなくてはいけなかった。

 背筋を伸ばし、荒げた呼吸を整える。

 次第に頭に響いてくる声がある。もしかすると海からの声なのかもしれない。嵐の激しさは増し、窓は今にも風に打ち破られそうだ。

 それなのに静かに呼びかけてくる声があった。姉であるユッタの声のようにも聞こえそれよりももっと懐かしく愛おしい気もした。

 もう、あの日には戻れないのだ。

「結論から言いましょう。パウルゼン騎士団を私に貸していただきたいのです」

 稲光と同時に雷が鳴った。

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