1
誰もが恐れていた本格的な冬を迎え、雪という棺の中で眠りについていた大陸では春の芽吹きを待たず時代の蠕動が始まりつつあった。
始まりは小さなうねりの様なものだった。だが蠢きは次第にそれを増やし姿を見せ始める。
ワルゼ騎士団は預かりになっていた先馬ともなるべき少年をむざむざ取り逃がし、あまつさえ総長に反旗の疑いを掛けられてその身を拘束されてしまった。
ワルゼ騎士団副総長ノルベルト・レーニッシュは、ヨープ選帝侯にパウルゼン騎士団に更迭された総長の助命嘆願するべく、八隊隊長ゲアハルトと副隊長フォルカーを派遣。
しかし、ヨープ選帝侯ブラル大司教はワルゼ騎士団の嘆願に耳を塞いだ。
色よい返事どころか現実を突き付けられ、ゲアハルトとフォルカーは八隊を伴って帰隊する。ワルゼ騎士団の資産を没収の上のミュンヒ騎士団との再編成、という命令と共に。
再編成の内容は熾烈を極め、ノルベルト副総長及び各隊隊長副隊長はその大部分の力を削がれる形となる。それは体のいいワルゼ騎士団の解散他ならない。
主にアロイス地方への尖兵と位置づけられていた比較的騎士団の中でも安閑なミュンヒ騎士団に対し、マルプルク公国との脅威にさらされていたワルゼ騎士団はその処分を由とせず、選帝侯との袂はこの機を境にして完全に分かれた。
一方、そのワルゼ騎士団が常に前線としてきたライゼガング。
金山の鉱脈を掘り尽くし、隣接するザクセン辺境伯領、マルプルク公国の脅威に常に脅かされていた村の運命はもう風前の灯だ。
が、ワルゼ騎士団がビューローとの開戦と機近くして、その常に前線となり未踏の地となっていたマルプルクとの領境に新しい鉱脈が発見された。
財政難で何度もヨープに嘆願し続けていたが、長い間ライゼガングの村は『捨てられた村』だった。
例えれば今にも死にかけの老人だ。骨と薄い皮だけが残り、渇いた土に這いつくばったまま浅い呼吸を続けていた。水も食べ物も与えられることはない。
ヨープ選帝侯ブラル大司教はそうやってライゼガングが『死んで』いくのを待っていたのだ。
そして、転機があった。
逼迫した領の資産を増やす為に鉱脈の価値を問うヨープからの使者を何者かが殺害した。使者はパウルゼン騎士団の騎士を数名付け、警護に至っては何も問題はない筈だった。
しかし彼らは山道の中、馬すら肉片となって見つかった。夜盗の仕業だと騒ぐ者の中、ヨープで辺りを睥睨するブラル大司教はまず命令に背き門を閉ざしたワルゼ騎士団に疑惑を持つ。
但し、時はマルプルク公国との戦争中。
戦に向かない季節ゆえ互いに睨み合いのみで済んでいるとはいえ、ヨープに待機する騎士を全てライゼガングに向かわせるなどという浅慮は避けなければならない。
まるで鏡写しの如くマルプルク公国とヨープ選帝侯領は内紛を抱え春を待っていた。ただ病巣はヨープ選帝侯領の方が重篤だ。
再三の召集にも応じず、門を閉ざしたままのワルゼ騎士団の攻略にはミュンヒ騎士団が当たった。
元来金にうるさいワルゼ騎士団は巡礼者や交易商人の護衛で資産は潤い、収穫の時期を既に終え兵糧を貯め終えている。傾斜が多く、ワルゼ城までの悪路では城攻めに有益な攻城兵器を多数持ち込むことは不可能だ。
城を攻略するのに一番有効な兵糧攻めも冬の時期には諸刃の剣だった。長く極寒の地に留まり、城を攻略するには準備や装備が必要となる。
ミュンヒ騎士団は最低限の準備を整えワルゼ城に向かった。狙いは長期戦。清貧で貞潔、それを神に誓った彼らは砦の向こう側に開かれたワルゼの小さな村に目を向けることなくただ目の前の城だけを見つめ続けた。
任務に当たった騎士を残し、主だった隊はライゼガングを本陣とし速やかに動く。長期戦を想定したミュンヒを背後から突き勝負は呆気なく付いた。
図らずともブラル大司教の思惑通りにワルゼ騎士団とミュンヒ騎士団は再編成し、一つの騎士団となる。
但し一部は思惑に反して、ミュンヒ騎士団ではなくワルゼ騎士団を主だった中心に据えたその団員数二百を大きく超える大所帯となった新生騎士団はノルベルト副総長の元、『ライゼガング騎士団』とその名を変えた。
ライゼガング騎士団の拡大は留まることを知らず領境に属するアロイス地方を平定。
しかしそれは決して征服ではなく保護下に置くという条約の元、守護を名目に広げられた所領だ。
白の都市ヨープから派遣された役人フロリアン・バプティスト・ヨナタン・フォルクマール・シュタイベルトは、ライゼガング騎士団とヨープ選帝侯からの使者を同時に受け入れ、ヨープ選帝侯とライゼガング騎士団のどちらが今後の自分に有益か、測りかねているようだった。
ヨープ選帝侯ブラル大司教直領である白の都市ヨープ。
常に沈黙を続け、誰よりも反旗から程遠いと思われていた少年を閉じ込めた鳥籠がその時を狙って扉を開けた。
扉の鍵を持つ少女はいつしか妙齢の女性へと成長していた。
自分に言い聞かせ長い間近付こうとしなかった鳥籠の中へブラル大司教の希望通りに戻ることを由とせず、振り被る剣をそのまま鳥籠に叩き付けたのだ
事件は夜。ライゼガング騎士団がアロイス地方を手中に入れたという報告が届き城が騒然としている時に起こった。
美しい邸はそんな城の騒ぎを知らず、箱庭のような美しさを保持していた。厳しい冬が訪れようとも少年の住む屋敷の庭は花の色が目に眩しく、使用人たちもどことなく緊張感に欠けている。
それはどうしても嫡男であるブラル大司教の長男、騒ぎの中心となっている次男とは違い、身分違いの母親の為に権力争いから遠ざかっている所為に他ならない。ただ溺愛されるだけの可愛らしい三男のクラウスは屋敷のお飾り人形でありこの屋敷から出しさえしなければいいのだ。
暗闇に包まれた中、クラウスはいつも通りに少し早い食事を終え満たされた腹を擦りながら雪が降り続く庭を見ていた。
何も言わなくとも肩には毛皮の外套がかかり、使用人たちが灯りを持ってくる。
昼間は陽の光に眩しく見えた花には雪が降り積もり、重たげに首を傾げていた。風が吹き容赦なく剥き出しの指先を冷やしていく。
「クラウス様、風邪をお召しになられますよ」
「……うん」
不思議な夜だった。
雪が全ての音を包み込み恐ろしい程に静かな筈なのに、聞こえない筈の雪が庭を叩く音が聞こえるようだ。分厚い雲が覆う空を見上げても、屋敷の屋根向こうから見える暗闇から突然白い塊が落ちてくるように見える。
色があるのは灯りがあるクラウスが立つ回廊からこちらの屋敷の中だけで、一歩踏み出した白く彩られた向こうは別世界なのだ。
「クラウス様?」
「ごめん、もうちょっとだけ……」
ときたま、こんな夜がある。
いつからなのかはクラウス自身には明確なことは分からなかった。それでも数カ月前からなのかもしれない。
ここは全ての災厄から守られている鳥籠だと使用人がクラウスの見えない所で噂しているのは、クラウスが物心ついた頃から知っていた。
気付かない振りをしていれば父親の愛を失うこともないと七歳という幼い心の中でも何となく理解していたのだ。
クラウスは母親の愛を知らない。母はまだ乳を求める幼い頃にクラウスを置きこのヨープから出て行ってしまった。身分の低い使用人だった母親を誰もが口を揃えて貶める。
卑しい身分でありながら身の程を弁えない女だと。この美しい箱庭のようなヨープから追い出されるのは仕方がない事なのだと。
しかし、クラウスは知っている。父親であるヨープ選帝侯ブラル大司教は今でもまだこの屋敷にその卑しい身分の娘が戻って来てくれるのを願っているのだ。鳥籠とこの屋敷を称しながらクラウスを餌にして、美しい鳥が戻って来るのを待っている。クラウスは小鳥ではない、ただの飛び立った鳥を呼び寄せる甘美な餌なのだと。
手の平を出せば、誘われるように雪の小さな固まりが落ちてくる。これ程までに外の世界は冷たいと知っていながらも、空へ飛び立ってしまった鳥は部屋の温かさなどもう必要が無いのだろうか。
鳥籠にも残された餌にももう興味は無いのだろうか。
「……母上…」
回廊から足を動かそうとしないクラウスが体を冷やすことを心配したのか。使用人がもう一枚の外套を取りに行き、もう一人の使用人が飲み物を言い付けにクラウスの傍を離れた。
クラウスがこの屋敷に来て以来、言われるがまま警護をし使用人も常につき従い続けてきたがこれという問題が起きたことが無かった。
故に彼らはクラウスを屋敷の庭に向かう回廊に一人置き、目を離してしまったのだ。
誰もが慈しみ愛したか弱く世界を知らない小鳥はその日を境に姿を消した。
残されたのは美しくも残酷な鳥籠という名の屋敷のみだ。
そして、藍の街パウルゼンに到着したエーゲル役人のお抱え宝石鑑定士が動く。




