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涙と蝶  作者:
7章 November 藍の騎士
68/73

11

 急に力の抜けた身体を押し倒してしまうのは容易だった。余りに容易過ぎて少し肩透かしな程だ。

 言葉を失ったままで、呼吸すらしていないのではないか。そんな心配をしながら、耳元に顔を埋める。反応はなかった。

 この状態で抱いてしまうのは少し気の毒のような気もしながら、敢えて何も考えないようにするとクルトは絡み付いてくる絹にも似た手触りの髪の毛を整えられた寝台に広げた。

 暗闇の中でもはっきりと存在を主張してくる外套は、組み敷いた少女がこの激しい吹雪の中これから出かけようとしていたことを示している。

 肩を押さえ付ける指により一層、体重をかけた。少しでも考えると胸の奥が無性に妬き付いて、優しくしてやりたいのに乱暴にしてしまうのは余裕がないからか。

 いつからかこんな状態になることを内心では強く望んでいたのだろう。つい先日まで少年姿だった人間と、これから起こりうることに対して余り抵抗はなかった。

 刷り込みにも似た、勝手に思い込まされた性別だというのに、それでも随分と初めの内から何と無く惹かれていた自分には気付いていた。それこそ、下手くそな詩謳いが奏でる運命のように。

 耳から顎を唇で辿って見開いたままの目を閉じさせようと軽く瞼に口づけると、エリクは途端に正気へと戻った様だった。

 腕が微かな抵抗を見せて、今更になって胸を押し返そうとしてくる。

「…ク――っ!」

 何か言いたげに開く口を、塞ぐつもりで重ねた唇の隙間に、容赦もせず舌を滑り入れた。

 不可解な感触に動揺してびくつく体はそれでも頑固に抵抗を止めようとはせずに、口内を蹂躙してくる物体を噛み切ろうと舌先に軽く歯を立ててくる。

(まぁ、確かにその反応は間違いではないけどね)

 どんなに世間知らずな人魚とはいっても、貞操の危機にはそんなにのんびりしていられないのだろう。必死に逃げたいのなら、そこで最後まで噛み切るべきだった。

 求めよさらば与えられん、と言う程にはエリクは聖女にはなれない。既に慈悲を与えるべき対象が決まっている。

 またそんなことを考るとどうにもならなくなって、合わせた唇の向きを変えて一層強く中まで入って強張ったそれに絡み付けた。

(俺も、大概父親のことは言えないよね)

 視線が合えば、髪に触れたくなる。髪に触れれば、指を絡めたくなる。指を絡ませれば、唇を。

 唇の中へと入ってしまえば、もっと広い場所の温度を重なって知りたくなる。深く奥底へねじ込んで潜って、包まれてしまえば、そこでやっと傷だらけの自分を癒して貰えるような気がして。

 この気持ちはもはや病気だ。浸食して、あっという間に染め変えていく。いい意味にも悪い意味にも。

 ドレスは随分と流行先端の物が与えられていた様で、エリクがあの、金にうるさい悪趣味な役人にどれだけ可愛がられていたのかそれだけで計り知れた。

 ワルゼを何も言わず飛び出した揚句、こんなものをのうのうと着て可愛がられているエリクに再会する羽目になったこっちの心境を慮って欲しいくらいだ。

 苛立ち紛れに連続して呼吸を奪うと、抵抗の力も少しずつ弱くなった。

 噛みつこうとした気力はどこに行ったのか。仰け反りながら寝台に足を立てて、誘っているのかという程に霰も無い格好になってしまう。

 剥き出しになった白く太腿が暗闇の中、大きく伸び上がって、その姿に興奮するよりも先に何と無く嫌な予感がしてクルトは咄嗟に重なっていた唇を離した。

 と、視界を過る残像。

 仰け反った途端、目の前を落ちて来る女性物の靴。

 これでまさか頭を殴るつもりだったのか。正直……、呆れた。

「……乱暴だね。エリク」

「人…の話を聞かない人間に、言われた……くないよ。こんなことで誤魔化そうとしたって、騙されないんだからね」

 靴に反応が無かったら、恐らく次は寝台に広がった外套の番だったんだろう。ただでは抱かせないとは思っていたけれど、とんだ跳ね返りだ。

 広がった胸元を隠そうともせずに、エリクは寝台に乗り上がったままで憤慨する。勿論、片手に脱ぎ捨てたばかりの靴を握り締めたままだ。

 何も変わらない。そんなことで無性に笑いだしたくなる。

 エリクがエルケとなって女性の姿になったとしても、彼女自体は何も変わらない。ずっと女性である彼女をクルトは、『少年』扱いして来た訳だし、少し過剰過ぎたこれまでのスキンシップも人魚の感覚なのか、それとも持って生まれた無頓着な性格なのか、今まで軽く受け流して然程深くは考えていないんだろう。

 今までは、それで良かった。

「エリク」

 乗り上がる様にして寝台に膝を付ければ、安っぽい寝台は軋んだ音を立てた。

 外の吹雪がもっと酷くなって、村の端にある小屋へ辿り付けなくなればいい。こんな外套で阻める雪なんて、もっと激しくなってしまえばいい。

 どこかでふんぞり返っている誰かに似たこの衝動に気付いているのか、靴を胸前で握り締めて身構えると、エリクはシーツの上を滑る。

 そうだ。もっと怖がって逃げるか、それとも覚悟して堕ちてきたらいい。

「……何」

 エリクは何も変わらない。変わったのはこっちの方だ。

 手にしたものが無くなった。その喪失感は想像していたよりもずっと激しくて、気がつくと何もない場所に一人立ち竦んでいるような気持ちになる。背中に乗ったものから逃げていた筈なのに、一度背負うと覚悟したからか。

 込み上げる笑いを堪えようと両手と片膝を寝台に付けたまま深く俯くと、流石にエリクも不安になったのか。ぎしり、軋んだ音の後に声が近寄ってきた。

 だから、エリクはどうにもならないくらいに甘過ぎる。

 視界に入ってきた手首をクルトが掴めば、指はそこを一周しても充分に余るほどだった。

 反射的に逃げようとした体を引き寄せれば軽く立ち上がっていた所為か、少し勢い良過ぎるほどに胸へと突っ込んでくる。

 畝って蠢く体。逃げ出そうとしているわけじゃないのを確認してから、少し腕の力を緩めた。

 目が慣れると、暗闇の中でも見上げているエリクの瞳の色が分かった。

「答えて。自分から捨てたわけじゃないんでしょ?」

 人の理の中で生きてきた訳じゃない生き物が、腕の中から気遣ってくる。

 たかが寝物語と鼻にもかけなかった人魚。たった一人の王子の為に、同胞を殺し全てを捧げる狂気をその身に湛えている筈なのに、腕の中の少女はただ優しくて細く小さい。

「ふぅん、そう思うんだ?」

 本心から気遣ってくれているのは分かるのに、素直に頷くことすらできやしない。

 ヨープで教会と大司教区がぶつかり合って、完全に国論を二分する騒ぎになった。

 領民から噴出してきた不満は留まる事を知らず、国勢を慮ろうとしない領主へと向かう。それを煽ったのが教会だ。

 今や、ゼークトのエリクはブラル大司教領で悪魔の手先の様な扱いだった。

 結果だけで言えば、エリクがあの時点でワルゼ騎士団から出て行ったのは間違った判断では無かった。あの時を失えば、領民の矛先はゼークトのエリクへ向かい、もっといろいろなことに巻き込まれただろう。

 渦は混迷を極めていた。戦争へと誘ったエリクがワルゼ城から逃げ出したのだという報告を聞いた父親が、一番最初にしたことが息子であるクルトの更迭だった。

 それは別に今回の事が発端となっただけで、エリクの所為だけでは無いだろう。きっとクルトは元々恐れられていたのだ。いつか反旗を翻すのだと思われていた。余りにも狡猾な父親に似過ぎているから。

 ブラル大司教はクルトから手足である騎士団を捥ぎ取り、ヨープから遠く離れた藍の街プラウゼンのフリーデグント伯に身柄を預けた。勿論、副総長を含め騎士団の反発は激しいものだった。

 確かに自ら捨ててきた訳ではない。

 腕の中にある赤い頭に顔を埋める。

(でも、俺は何もかもを捨ててエリクの元へ走って行けるヤンが羨ましかった)

 いなくなった少年を探せと、ヤンに命令したのはクルトだった。でも、その命令には連れ戻せ、とも説得しろとも付け加えなかった。そのまま二人でどこかに消えてくれれば、とも少し思っていた。

 傍にいたら、カヤを息子という鎖で縛り付け鳥籠に閉じ込めたブラル大司教の様にいつか全てを奪ってしまう、そんな気もしていた。

 それなのに、また―――――――。

「クルト……?」

 ついさっきまで脱がされて襲われそうになっていたというのに、もう既に緊張感が薄れてしまった人魚が苦笑したクルトに首を傾げる。

 この腕の中には確かに抱いているのに、背中越しに見える外套に心乱された。もう既に腕に抱いているからこそ、諦められない。

 出会った頃はまだ金がかっていた赤い髪は、真紅のベルンシュタインそのものになっていた。面倒な手入れをしているとも思えないのに、指通りの滑らかな髪の毛は縺れる事も無くエリクの背中で波打っている。

「慰めて、エリク」

 まるで神に懇願しているかのようだ。

「ヤンを想いながらでもいいよ。だからヤンごと、俺の物になって」

 まさかヤンまでも自分から離れてしまうなんて、思ってもみなかった。

 名ばかりの総長として幼い頃、ワルゼ騎士団に連れて行かれた時からずっとそばにいていい事も悪い事もしてきた。絶対にどんな時だって後ろにはいるものだと思い込んでいた。

 でもそれはただの思い込みだ。あっさり手から全ては零れ落ちて、気付くと何も残っていない。

 激情が声を震わせて、掠れ声にさせる。耳に掛かる吐息の持ち主はこれから違う男の元へ行こうとしていたというのに、それなのに諦めきれない。

 ワルゼ城を離れる前に、カヤに頬を叩かれた事を思い出す。

 しっかりしなさい、男でしょ。そんな母親みたいなことを言って、今にもヨープへ殴り込みに行きそうな勢いだった。こんなに反旗を翻すのを期待されているなら、クラウスでも攫って本当にしようかな、馬鹿げたことを言ったクルトの尻には回し蹴りがやってきた。

 きっとカヤはワルゼ城から引き離されて、あの小さな鳥籠に閉じ込められてしまうのだろう。どんなに拒んでも残酷な鎖がクルトから引き離して、クラウスの元へとカヤの体を引き摺っていく。

 少しずつ壊れていく。

「俺を、癒して」

 閉じた瞼に唇が軽く触れて、柔らかい感触が顔を包んだ。抱き締められたのだと、気付いた時には露わになったエリクの胸元が濡れていることも分かっていた。いつの間にか泣いている。

 そんな警戒心に欠ける真似をして、といつもなら簡単に出て来る軽口がもう出て来ない。まるで懺悔をしているようだ。

「……クルトが、好きだよ」

 エリクの声に、思わず泣き笑う。

 見せたくない情けない姿を曝け出しているいう予感はしていた。同情かもしれない、でも同情だったとしてもいいとさえ思った。

「でもヤンも好きなんだよね?」

 偽ることも無く、エリクが素直に頷く。

 好きだよ、二人とも好き。そんな臆面もないことを言って、自分から唇をぎこちなく重ねて来る。

 じゃあ、俺の返事は一つだ。

「いいよ。それで」

 それがきっと、人魚の愛情なんだろう。人では無いものに同じ価値観を求めるのはきっと間違っているに違いない。クルトは軽い啄みだけのエリクの唇に応じて、僅かに顎を上げる。

 でもこんな馬鹿げたことを言い出したら、ヤンは一体どんな反応を示すのだろうか。考えるだけでおかしくなる。

「俺も……、一緒だから」

 情けない程の泣き笑い。まだ今よりずっと若くて、馬鹿だった頃にヤンと二人で見回りと称してライゼガングの山へ馬乗りしたことを思い出す。

 ヤンの制止も聞かず、自分の力を過信してクルトが飛び込んだ場所はヤンの父親が死んだ領境で、大ごとになる前にノルベルト副総長他数名に引き摺り戻された。身を持って勉強しろと、領主の次男にも拘わらず思い切り殴り飛ばされた。随分、昔の話だ。

 馬鹿なことを、といつもの調子でそっぽを向くのだろうか。それとも構っていられないとあの大きな拳で昔みたいに殴られるのか。どちらにせよ、ヤンがもう自分の手を離すことは無い。それだけは分かっている。

 温かい肌に指を這わせれば、その下に命の存在が分かる。この体が人魚だろうと、人だろうと今これからには関係なかった。少年だった時には無かった丸みを帯びた体の線に沿って腕を回せば、誰かのお仕着せだったドレスがシーツに落ちる。

 ゆっくりその上に下ろせば、さっきまでの反応が嘘のように転がった。赤い髪の毛がまるでライゼガングの泉で見かけた水浴びをしていた姿のように一糸纏わぬ上半身を包み隠す。

 ただ、目を奪われた。

「……何?」

「…………いや、もう靴は持ってないかな、って」

「……持ってないよ」

 頬を膨らませるエリクに、クルトは苦笑しながら唇を合わせた。

 首を斜めにさせると少し伸び過ぎた髪が落ちてくる。それを見て、大きく見開いた丸い瞳から滴が零れ落ちた。

 辛うじて残された隙間から呟いた声が洩れる。

「……金の、う…っ」

「…ん?」

 エリクの頬を流れる涙に口付けた。微笑む顔に指を辿らせたのは、その笑みが少し哀しそうな気がしたからだ。

 聞き返した声に返事は無かった。繰り返される愛撫に微かな吐息を漏らしながら、どこか夢見心地な表情でエリクはクルトの髪に指を絡ませる。

「やっ……とっ、手……っ…は……っ」

 我慢しながらの切なげな息に愛おしさが込み上げた。

 何のことを言っているのか、よく理解できないでも構わずに奥へとのめり込む。もっと深く、もっと奥へと、一度箍が外れると抑えが効かない。

 外の吹雪はいつの間にか止んでいて、空は漆黒の闇に塗り替えられていた。

 それを見てから、ゆっくりと目を閉じる。

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