10
静かに浮いてきた手に気付くと、無意識に体が竦んでしまう。
別にクルトは何かしようって訳じゃない、きっとただ単に部屋と扉の合間にある枠に片手を置いただけだ。
それなのに、僅かに傾いだ体の所為で灯りが間近まで近寄ってきた事にすら、どうしてだろう? やけに動揺した自分がいる。
隙間風で蝋燭の炎は危なげに揺らめいていた。それが上手く顔に影を作って、瞳の奥までいることが出来ないから余計不安になるのかもしれない。
背は高いけれど俯いている所為で、エルケにはクルトの口元しか見えなかった。細い三日月を寝転ばせた形の唇が、開いてエルケを優しく促してきた。
耳を擽る優し過ぎる声、ともすれば錯覚しそうになる。でも、何を?
迫られてもいないのに、勝手に気持ちだけが追い詰められていく。
「ほら、早く行きなよ」
声がやんわりと背中を押してきた。
相変わらずクルトは何もかもが優しくて少し意地悪だ。きっと、それは前から何も変わっていない。
でもそれなのに、一歩踏み出すと今みたいに拒絶されてしまう。
一際強い風が吹いたのか、部屋の中にある唯一の窓が激しく揺れた。追って聞こえる大きく軋む音。重い緞帳と飾られたタペストリーの端が浮き上がり、『誰か』が部屋の中へ逃げてこいと言っている。
こんなに近くにいるのに、どうして不安で仕方ないのかが分からなかった。
立ち止まったままのエルケに、溜息にも似ている深い吐息が降ってくる。
「こんな寝室の前でグダグダやって、エーゲルの役人のお抱え鑑定士は男を誘惑してるっていう不名誉な噂がたっても文句は言えないね」
いっそ清々しい程の厭味だ。
隠そうともしないあからさまな口調は身持ちの軽いエルケの対応を叱責しているのに、声は似合わない程飄々としていて、むしろ明るささえ垣間見える。でも、それが無性に怖い。
まるでエルケの行く手を阻むかのように、枠を辿ってクルトの指が下に伝い落ちて来ていた。
確か、最初はエルケの頭よりももっと上の位置だったと思う。
それでも、つい先程までは扉の継ぎ目辺りにあった筈だ。腕は枠の縁を少しずつ下って、今はもうエルケの背中に僅かに当たっていた。
灯りと腕に包まれて、逃げ場はもう部屋の中だけだ。
いつからだろうか。もしかしたら、こんなにクルトに近付いたのは多分ヨープの屋根裏部屋以来かもしれない。
ワルゼでは騎士団の総長としての役目があったから、忙しいからなのだと気にも掛けていなかった。勿論、エルケの方もそんな余裕すらなかったから仕方ない。思い出すのも今更だけど、考えれば巧妙に避けられていたのだ。
軽く目を伏せたクルトが嘆息を漏らした。
「……この時期にこれ位の吹雪は良くあることだよ。遅くても後二日で降り止むから、止み次第出発しても遅くないんじゃない? それより、あんまり騎士団を刺激しない方がいいと思うんだけど」
確かに耳を澄ませば、昨日に比べ風も幾割か治まっているような気もする。それでもまだ激しい雪は窓を叩き、今にも突き破って入ってきそうではある。
それよりも、まるでこんな言い方では、エルケ一人で騎士団に噛み付いているかのように聞こえてしまう。貴婦人にあるまじき不貞腐れた口調で言い返した。
「でも……僕だけの所為じゃないよ」
「雇い主の身にもなってみなよ。まぁ、もう関係ないんだから気にもしてないんだろうけどね」
ワルゼ騎士団を利用したと、暗に厭味を言っているのだろうか。それとも、フロリアンを利用したのを責められているのだろうか、分からない。
(そりゃあ、確かに利用するのは悪いって、僕だって良く分かっているけど)
それでも、依頼主との間には話しあいの上で最良の道を辿ることが明言されていた筈だ。今の吹雪にかこつけてのんびり休養するのが最良の策とは思えない。
運んで貰っている荷物の身で文句は言うな、ということなのだろう。きっとそれがエルケの身を守るという事に、結局はなるのだ。
「お前は考えなしなんだよ」
「…………」
きつい口調の割に、最後の最後でエルケのことを気遣っているような様子を見せるから、もう何も言い返せない。
クルトが言う通りなのなら、数日以内にはこの嵐は止むのだろう。行く手を阻むものがなくなれば、後は真っ直ぐプラウゼンに向かうだけだ。
街につけば、エルケがすることは一つ。直ぐにでもゼークトに向かうことになる。
きっとここでの時間のロスで、プラウゼンに着いても時間に余り余裕はないだろう。折角まいた種だ。出来るなら、可能な限り多くの芽を摘み取っておきたい。
誰も連れて行かないのだと思っていた。
それでも村の入り口までとはいえヤンと共に行く事になった。どうしてだろうか、エルケはヤンには無意識に頼ってしまうきらいがある。
でも、クルトとはプラウゼンで別れるのだ。そんなことが出来るんだろうか? 今にも壊れてしまいそうな不安定なこの人を残して。
(僕は―――――――…)
薄暗い部屋の中に入りかけていた爪先を返し、背中に回っていた軍衣を指先でつまんだ。
見上げると、微かに揺れる金の畝。
何かに決心して、渇いた唇を開いた。
「クルト、僕―――」
でも一体、自分はその先、何を言おうとしたというんだろう?
扉が激しく叩き付けられた音の後、何人かの騎士団が笑いながら出ていく声と気配がした。
吹雪の中でこんな田舎の村だ。何も娯楽は無いながらも彼らは近場の酒場にでも向かうのだろう。守るべき対象がここに残されているというのに、彼らはどうも仕事熱心ではないらしい。
階下の激しい物音に、エルケは思わず言いかけた言葉を飲み込んだ。クルトの手はこの機に乗じて枠から離れてしまっている。
軍衣を摘まんでいた筈の指は、何もない宙を掴んでいた。ただクルトの持った灯りだけが、さっさと部屋に入れと言わんばかりに入口へと佇んでいる。
騎士団の目を盗んで話す機会なんて、今まで皆無だった。今を逃せば、もう話す機会は無いだろう。
きっとこれが最後だ。それなのに、絶好の機会をを失ってしまったのだ。
消沈するエルケとは相反して、どこか安堵した様子のクルトが笑う。
「うるさい奴らもいなくなったことだし、俺は俺でゆっくりするよ」
先程まであった筈の闇がかき消えた。
歪んだ何かの隙間から見えた目を覆う様な傷跡はもうあとかたも無く隠されて、ここにヤンとカヤがいれば昔に戻ったかの様だ。
分かっている、それは偽りだ。見えなくなっただけで不可解な闇はまだそこにある。
ただ食いついて、引き摺りだすことが出来ないだけだ。
「……あの」
「ヤンの所に行っといで」
まるで聞き分けのない幼子を宥めているみたいだ。
彼はどこにも動けないでいるエルケには触れようとはせず、蝋燭の灯りだけで促してくる。
下唇を噛み締めた。何か出来るんだと思っていた。勝手にクルトの前から姿を消しておいて、彼らは優しいからきっと許してくれるんだとエルケは勝手にそんなことを思っていたのだ。
だからかもしれない。
子供の様な頑固さで、このままにはしておけなかった。
「あの、ね。……クルト、騎士団は大丈夫なの?」
もっと言い淀むかと思っていた。
それなのに、クルトの反応は早い。
「大丈夫? …ああ、切り捨てた癖に気になるんだ?」
でもその返答は期待した方向とは真逆の方向だった。
別に切り捨てた訳じゃない。エルケはそう言い返したくなるのをぐっと耐える。
確かに、クルトの言い分ももっともだ。エルケが何をしようと、何も言わずにワルゼ騎士団からいなくなったのは事実なのだし、勝手なことを言ってるのは分かっている。
理解している筈なのに、歯に衣を着せないクルトの台詞はエルケの胸を深く抉り取った。
質問に質問で返すのは、返答を避けているからだろう。切り捨てる様な返事に小刻みに二度程頷いて、エルケは逃げるように一歩部屋へと足を踏み入れた。
何故だろうか。上手く笑えない。
「そう……だね。…ごめん。僕が気にする事も無いね」
「私」
「うん、…私、でも……さ」
ただ見ていられなくて、と続ける言葉が出て来なかった。揺れる炎を目にしながら、エルケは唇を何度か忙しなく開閉すると間抜けな音が聞こえてきた。
こんな事なら、いつでもケープを被っていたら良かった。いつでも自分の表情はあからさま過ぎて、クルトやヤンに直ぐ全てを悟られてしまうに違いない。
「ごめん。ぼ…私が聞くのはお門違いだって分かっているんだ。でも……それでも私」
言葉を選ぶ余裕も無くて、たどたどしい台詞が出て来る。
理由を聞けば、癒せるのだと思っていた。
そんな自分がきっと愚かなのだ。
「っ……っ、ぶはっ!」
「……クルト?」
目の前で大袈裟に体を折って、おかしくて仕方ないみたいにクルトは噴き出す。
金の畝の隙間から微かに苛立ちが垣間見えて、そのアクヴァマリーンに射抜かれた。
エルケの体が無意識に竦み上がる。
「それを聞いて、自分がどうか出来るって思ってる? 随分と自分の能力を過大評価してるんだね。エリク」
一歩離れ、クルトが灯りを持っていない手で邪魔そうに前髪を撫で後ろへ流した。
微かに見える苛立ちに、これからやってくるだろう衝撃を覚悟する。こうなったらクルトはきっと、生半可な言い方をしない、過去の経験からそう知っていた。
クルトの声は刃だ。いつでもエルケが綺麗事を詰め込んでいる場所を切り裂いて全て曝け出してしまう。
「今の俺の状況を打破できるって、人魚ってそんな得体も知れない力を持ってるんだ? じゃあ、その力で一気に全部終わらせてくれたらいいのにね」
声だけを聞いたのなら、柔肌を撫でる時のように優しく艶めかしい。
それでも言葉の端端に垣間見える人魚への嫌悪に、エルケは深く傷ついて心の臓を直に握り潰されてしまう。
心の奥を読み取っているかのように的確な台詞は、エルケが何も言い返せなくなるのを十分に理解した上で言っているからたちが悪い。
今にも泣きそうだったけれど泣く訳にはいかなかった。だって、ここでまた逃げ帰ってしまうのは簡単だ。でもきっとそれじゃあ再会した意味がない。再会はきっと偶然ではなく必然だから。
膨らんだドレスの前で、エルケは二つ拳を作る。
「クルトは…、それを望むの?」
「あれ、本気にしたんだ? まさか、冗談だよ」
「冗、談……」
それは、随分と悪趣味な冗談だ。不快感を隠さず眉を寄せれば、クルトはそんな姿にすら楽しそうに笑顔を向けて来る。
ぎしり、窓枠が激しい風に軋む音を立てた。
「優しい人魚は、そうやって王子の望みを叶えて消えていきましたって? そうやって、自己完結なのも人魚の特色かな」
「……っ! ……」
これから何をしようとしているかも、それがどんな結末になってしまうかも、クルトは何も知らない筈なのに言ったことは余りにも的をえていて、エルケは何も言い返せずにただ俯いた。
人気のない邸には沈黙が流れている。
つい先程まで騎士団の世話に忙しかった使用人は、食堂の片付けも終えると仕える人間も出払ったのもいい事にそれぞれ休憩時間に入ってしまったらしい。
苛立ち紛れに半開きになった扉を先程みたく蹴り付けて、言い返せない苛立ちを叫び声に変えても誰もきっと気付かない。
じゃあ勝手にしろ、と子供みたいに切り捨てることが出来たなら良かった。
今のエルケは人ではない存在とは言えど、見かけはそれと大差なく、海に出たのならいざ知らず、今現在にエルケが出来ることは人と全く変わらない。それなのに貴族と庶民を阻む壁と同じ様に、人と人魚の間にもまた大きな壁があるのだ。
怒りよりも、もっと大きいのは哀しみ。
「私は……人魚じゃなくて人間だと、自分では思ってるよ」
「へえ?」
「だから、……人間として『今は』クルトの役に立ちたいと思ってるよ」
古の人魚は涙を手渡すことで、王子が自分を必要としてくれるのだと思っていた。でも勿論『人間』にはそんなことは出来ない。
出来ないけれど、人間は苦しんでいる人間にすぐ寄り添うことが出来る。二本の足を得て、人魚はそれを望んでいた筈だ。苦しんでいる姿を見つけた時に、傍に駆け寄って癒すことが出来る様な存在になりたいと、そう長く希っていた筈だ。
きっとクルトは先に自分から壁を作って拒絶しておいて、何も手に入らないからって諦めようとしている。そうしたら自分の手から零れ落ちた時に無くなったと落胆しなくて済むから、手を離されるよりも先に酷く傷付けて手を放そうとしているのだと思いたい。
勝手なのは分かっている、でも。
「もし、私がクルトの為に何か出来るのなら―――」
「ねぇ、エリク?」
逡巡しながら口にした台詞は、故意に遮られた。
問い掛けているのに、問答無用とでもいう風な強い口調だ。
歩み寄ってくるクルトの勢いに負けて、思わず足を引いたエルケはそのまま部屋の中へと体を滑り入れてしまった。
最後の足掻きなのか外の吹雪は勢いを増し、部屋の中は外が白銀の世界とは思えない程に薄暗い。灯りは部屋と廊下を隔てる場所にある蝋燭の火のみで、頼りないものだ。
クルトが笑う。
「人魚ってさ。貞操観念はあるのかな?」
扉からこちらへ入ろうとはしなかったクルトの足が、ゆっくりと部屋の中へと入ってくる。漆黒の軍衣が闇の中に翻って、馴染んで行くのをどこか他人事のように見ていた。
全てを塗り潰しそうな闇の中でも眩しい程の髪だけが見えた。
いつものことながら、会話が極端すぎて付いていけない。
「……ごめん、僕。ちょっと言ってることが…よく、分からなくてっ」
言われたことが良く理解できなくて、エルケは渇いた唇であたふたと言い訳する。
「俺がここでお前を抱いたら、お前は俺の物になるのかな」
「……っ!」
流石にその言葉の意味が分からない程、子供じゃない。
目を見開いて硬直している間にもクルトとの距離は狭まっていて、エルケは逃げ道を探して後ろを振り返った。
焦ると特に慣れていないドレスの裾が足に纏わりついて、足を大きく後ろに引くことができない。
少しでも判断を間違えば伸びて来る闇に絡め取られてしまいそうで、部屋の片隅へ逃げ込んだ。それなのに、避けてしまう程に触れて来なかったのが夢幻だったのか、呆気なく闇に囲まれる。
触れそうで触れない唇から熱っぽい吐息。
真剣な眼差しは、苛立ちや憎しみが混ざり込んで綺麗な湖の色だった筈なのに、今はもう澱んでその本当の色すら分からない。
剥き出しの感情を真っ向から受け止めて、怖いとは思った。それでも誰かに助けを呼ぼうとは思えなかった。
肩を竦めて、エルケは息絶え絶えに名前を呼ぶことしか出来ない。
「……クル、ト?」
「お前を抱いたら、俺『だけ』の物になるのかな」
泣きそうな掠れ声に声を失う。
「ヤンもいなくなった。カヤもいなくなる。俺の手からは全部無くなって、何も残らない」
違う。
(ヤンは今だってクルトの為に情報を集めているし、カヤもクルトの事を大切に思っているからこそワルゼで留守番をしてくれているんじゃないか! 何も無くなった訳じゃない!)
心の中で叫んだって、クルトに何か伝わる訳じゃない。
震える指で今にも重なりそうなクルトの唇に触れる。何か言うことで傷ついてしまうのなら、そこを縫い付けてしまいたかった。
何も聞きたくは無い。これ以上、辛く苦しい事ならなおさら。
それなのに――――――――――――――――――
「エリク、俺はワルゼ騎士団を捨てたんだ」
この耳は抗いがたい現実を呼び寄せてしまうのだ。
体が揺らいで、深い闇の底へと堕ちていく。




