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青の街を発ってからたったの二日。
その後大陸に吹き荒れた嵐は数日間にも及び、隊は足止めを食っていた。
エーゲルからプラウゼンまでの道のりには山や谷が多く、旅程は天候に大きく左右される。無駄に急いで強行したとしても、その返礼は死あるのみで、慎重こそが身を守る術なのだ。
総勢二十名弱の隊もいくつかに分断し、邸で過ごすこと今現在の旅程を越えて四日。
窓を叩き付ける風と少し水気の多過ぎる雪は留まる事を知らず、むしろ次第にその勢いを増していくかに見えた。
――――――――そして、有り余る時間の中で無駄に白熱する議論にも似た口論。
勿論、今日も例外ではなかった。
「…ですから、もう少し時を待つべきだと提案差し上げているんです。ご婦人はいつも聞く耳を持たないから困る」
目の前に悠然と腰掛ける軍衣の男は、いかにも融通が利かなそうな四角い顔を歪め、最もらしい提案がいかにも無駄であるかのように振舞った。
唇を上げているのに、鼻でせせら笑う。
「ですが、その時間がないと申し上げていますの。私たちはこんな所で留まらず、情報を集めるべきでは?」
「こんな吹雪にですか? では、騎士団には雪の壁になって阻めと?」
「……そう言った意味で申し上げてるんじゃありません。私は、違う道筋では無理なのか? と聞いているんです」
「ほう、違う道筋。では具体的に言って頂けませんかね? 聡い方であればこの辺りの地理くらいは頭に入っているでしょうから」
「―――っ………!」
このわからず屋が。テーブルに乗っているワインのゴブレットを掴んで、目の前の人間に叩き付けてやろうか。
半腰になって睨み付けると、扉の近くに悠然と背を預けていた男が肩を震わせているのが無意識に視界に入ってきた。
(人ごとだと思って……っ!)
緊迫したその場にそぐわない姿に、不本気ながら正気を取り戻す。
その泥水にも似た濃い灰色の髪が、スパイスが煮出して琥珀色になった液体に染まるのはどれだ小気味良いだろう? それなのにいつも何もせずに、何も言い返せずに、ここで自分は黙り込んでしまうのだ。
敗北感に下唇を噛んで俯けば、これでもかと声が降ってくる。
「私はいいのですよ? ここから先はご自分のお力のみで辿り付いて頂けるのなら。何せ、直属の騎士もいらっしゃるようですし」
この言葉を聞けば、もう退散することしか出来ない。それはこっちにとって唯一の弱みになっている。
テーブルに掛かった純白のテーブルクロスを握り締めて、まだ何も手を付けていない皿を睨んだ。
こんな非常事態だというのに食卓に用意された皿にはいつも贅沢な肉やら野菜やらが欠かさず並んでいた。これは何もこちらを慮った訳では無くて、警護する騎士団に付けられている特権を自分が享受しているだけだ。
つまり、警備隊は何も急いで危ない道を通る必要がなかった。吹雪にかこつけて、疲れた体を癒しているにすぎないのだ。
(この温かいスープだけでも、ここから持ち出せたのなら)
この邸とは比べ物にならない程の襤褸小屋で待機している人のことを思う。
周辺地域を取り纏める地主の邸であるこことは違い、貧しい領民の家を借り受けられた所為で隙間風は吹き荒れて酷いものだ。
食事もまるで兵糧の様なものばかりが与えられ、温かいものを持って行ってもきっと直ぐに湯気も吹き消され冷えてしまうだろう。
「あとは何か、ございましたかな?」
ああ、本当にいつかこいつは階段の上から蹴り落としてやろう。
「………いえ、深慮感服いたしました」
物騒な事を心の中だけで呟きながら、顔だけは非の打ちどころのない可憐な微笑みを浮かべて見せた。ただ、指先だけはテーブルクロスを握り締めたままなのが非常に残念だったが。
「では、これにて私は失礼させて頂きます」
音も無く立ち上がれば、これでもかという程に厭味臭い声が追ってくる。
「失礼。食事に何も手を付けられていない様ですが」
「食べる気を失いました。今後は別の部屋に用意して頂きたいと思います」
厭味に厭味で返してやれば、敵もさることながら律儀に打ち返してきた。
「まことに不躾ですが、減量する程ではないと思いますよ」
大きく広がったドレスの中で、わざと椅子の足を蹴り上げる。
激しく飛び上がる椅子には目もくれず、これ以上口を開かないで背を向けた。
何も言わずとも開かれる扉の向こうへ靴の踵を叩きつければ、灯り持ちの使用人をやんわり遮って仕事を奪い、慣れた様子で後ろから一人ついてくる。
勿論、気付いていたが何も咎めずに背中で閉まる扉の音を聞いた。温かだった部屋とは一変して、震えが来るほどの冷たい空気が剥き出しの顔や首を包む。
エーゲルのフロリアン邸とは違うのだ。邸の中だからとは言わず、せめて何か羽織るものでも持ってきたら良かった。少し後悔してしまう程の寒さだ。
ここ最近ずっと随分広く華美過ぎる邸にいた所為か、これほどの邸だというのに少し小狭で地味に感じてしまう自分が怖い。
小広間に続く玄関ホール。それでも、そこには美しい螺旋細工の階段が両羽を広げるようにして佇んでいる。
後ろを歩くくつくつと笑う声の主に、わざとらしい咳払いを返せばまるで他人事のように彼は自分のペースを崩さず口を開いた。
「いや、姿形は変わっても本質は元のままだね」
「少しは警戒したらどうかな。誰かが聞いてるとも限らない、と思う」
「いや、聞いてないよ? 大丈夫じゃない?」
全く暢気なものだ。
こちらとて、状況的に現在ここにいる貴婦人が『エリク』なのだと知られてはいけないと配慮して、苦言を呈しているのに、当の本人はどこ吹く風だ。
そうだった。少し離れていたから忘れかけていたけれど、総長という重い地位を離れた彼は元々こう言う掴みどころのない人間だった。
失念していた自分が口惜しい。
「……クルト。自分で自分の首を絞めるのは止めた方がいいよ。趣味が悪いと、僕は思う」
「あれ、僕?」
「……私………は思う。………そういうことを今言っているわけじゃないと思うんだけど」
「大切なことだよ。『俺』は思うけどね」
ああ言えばこう言う。エルケは肩を落として、次の段に足を上げた。
寝室まで続く長い階段と廊下を、声を顰めながら歩く。
最小限まで落とした声はいくら廊下と言えど聞きづらい。それでもクルトは決して近寄ろうとはせず、それでいて充分に辺りの注意を怠らず数歩後ろをついてきた。
腰壁にまで彫り細工をしていたフロリアン邸とは違い、塗られただけの壁は直に寒さを通してきた。
クルトが手にした灯りのみで歩くには少し暗過ぎる廊下だ。勿論、窓から見えるのは一面雪に覆われた庭と暗く澱んだ空だけ。日中とは言えど、日が入ってくることは無い。
二階の一番奥に用意された自分の仮の部屋の前で、エルケは足を止めた。
外は未だ激しい吹雪の所為か、どこからともなく隙間風が入ってきているようで、首筋には常に微かな冷気が触れて来る。
しかしこの吹雪の中、エルケはこれから行くべき場所があった。
「ここでいいよ。………もう休むから」
咽喉の奥で何かが潰れた様な音がして、思わず振り返る。
視界に入る金の畝。強固な仮面を被った彼の真意は、底が深すぎて窺い知れない。あの再会したあの日から。
エーゲルの役人フロリアンがお抱え鑑定士であるエルケを藍の街プラウゼンまでの警護に依頼したのは、他でもないこれからプラウゼンに帰還する予定だったプラウゼン騎士団三隊だった。
それだけなら良かった。エルケも、何事無くプラウゼンまでの旅が始まると思っていられたのだ。玄関前ではなくフロリアン邸の大広間に一人、案内されていた伏兵に心乱される前までは。
見慣れた黒衣に橙に色抜きされた紋章。眩しい程の金の畝を惜しげも無く剥き出しにして、クルトは懐かしのフロリアンと談笑をしていた。
―――いや、一方的にクルトが話し、フロリアンは恐縮するばかりだったが。
ケープの中で強張った顔を俯き、何も声を出さず宮廷式の挨拶をしたというのに、エルケのそれが何も教育されていない即急の礼儀作法だと直ぐに見抜いたようだった。
邪気なく破顔して恭しく手に取ったエルケの指に軽く唇を付けると、それ以上何も追求することなく軍衣を翻しエルケの横を擦り抜けた――――ように見えた。
「化けたね」
擦れ違いざまに、残した一言でこの女性の姿だというのにクルトは何も言わずエルケだと察している事に驚愕した。
目の前に来た最後の最後に信じられず訝しんだヤンとは違い、クルトは確信している。彼の前にはこんな薄いケープなど意味が無く、むしろ性別など些細なものなのだと気付かされた。
そして、彼もまた勝手に騎士団を去ったエルケを責めることも無くこうやって傍にいる。フロリアンのお抱え鑑定士である貴婦人をプラウゼンに送り届ける警備隊の客人として。
とはいえ、彼はエルケと既知の間柄ということは伏せている。
プラウゼン騎士団三隊隊長の先程言った『専属の騎士』はクルトのことを指しているわけではないのだ、
「ヤンの所に行くんだ? 大変だね、こんな吹雪に」
「……ヤンがこんな羽目になっているのは僕の所為だから」
おかしくて仕方ないかのように肩を揺らせてクルトは笑う。
俯き笑うと、少し伸びた金の髪が前に滑り落ちて来る。その隙間に笑いとは程遠い何かが見え隠れすると、エルケは胸が騒ぐのだ。
不安になる時はこんな時。人を小馬鹿にしたような仕草をするのは元々のことだった。でも、今は違う。見る度にどうしたら分からなくなる。
美しく緻密な硝子細工、不安定なそれを玩具にして遊ぶ幼子を見るように手出しをしたくなる。
本来であれば、内紛や反乱の恐れがある時に総長が騎士団を離れるのは得策とは言えない。
何かあった時、決済する権利を副総長であるノルベルトに一任していたとしても、忠節を尽くすノルベルト副総長はクルトに対する臣下の義務をあくまで守り通すだろう。
聞いても、彼は「父親の命だ」とただそれだけ答えた。エルケを追って来た訳でもなく、責めようとした訳でもなく、この場にいるのはただの偶然なのだとそう言った。
それ以上は全く口を開こうとはしない。この数日間の旅程で、クルトが話すのは当たり障りないことばかりだ。
でも、きっとそれ以上を求めるのはおかしい。分かっている。
「そうかな、エリクの所為ばかりじゃないと思うんだけど。……ああ、失礼。今は『エルケ』なんだっけ?」
「……まぁ…そう、なんだけど」
何故だろう。今のクルトは痛々しいのだ。
平然を装っているのに、剥き出しの傷がそこにある。切りつけられて抉られた傷は生々しく肉を曝け出して、とろりとした血が常に滲み出ている。
(僕の知らない所で、何かが起きたことだけは分かるんだ)
でもそれを預かり知ることは出来ない。共に旅立ったエルケ唯一の『騎士』も今やこの場に来ては情報収集も難しく、然程エルケの持っているそれとは差が無いのだろう。
聞いていいのだろうか? 一瞬の逡巡の後、覚悟を決めて口を開く。
「……クルト、何か言いたいことでもあるの?」
それが自分が出来ることならば、と手を差し出しても、見えていた傷はあっという間に美しくも頑丈な鎧に覆われてしまった。その鮮やかな手腕は、勘違いなのかとも思う程だ。
「ん? ないよ」
「……そう」
食堂に用意された包みを思う。
ヤンはきっとエルケがこの吹雪にやってくることを必ずしも由とはしていないだろう。着膨れして、外套を目深に被り肩に雪を積もらせて扉をノックするエルケに向けられるのは、いつも咎める様な視線だ。それと身を案じる様な視線とぶっきら棒な物言い。
それでも結局共に行くことになってしまった代わりにと、騎士団の目を盗んで暖を取れるものとせめて温かい食べ物でも、と運んでいたのが数日前、使用人の口から騎士団の耳に入ったのだ。
こんな厳しい天気の中、騎士団の食事に追われ使用人もろくなものを食べていなかったのだろう。近所の襤褸小屋に甲斐甲斐しく贅沢な食べ物を運ぶエルケに腹が立っても、確かに仕方がないことだとは思う。その騎士がヤンであるという事だけはばれていなかったのが幸いだった。
今は兵糧よりはまだ少しましな程度の食事だけにして、届けるようにしている。騎士団も口を出すことは無い。むしろこの吹雪の中で野たれ死んでくれたらとでも願っているのかもしれない。
部屋の中に用意されている外套を羽織れば、今すぐにでもこの邸から駆け出すだろう。食事を置くだけの逢瀬だが、エルケにはこの温かな邸よりもずっと気持ちが穏やかにいられる場所なのだ。
早く行けばいい。分かっているのに。
目の前の人を放ってはいけない。
(何かあった。絶対に何かあったんだ。……でもそれをクルトが頑なに話そうとはしないだけ)
ヤンにいっそ相談しようか、そう一度は思った。でも出来なかった。それをクルトが望むとは思えなかったから。弱みを誰かに曝け出すような人間じゃないのは、そこまで長い付き合いではないけれど良く分かっている。
だからこそ、自分では上手く書くしているつもりの傷がエルケの前には鮮やかに映る。これはもしかしたら人魚の力なのか。
「…………エルケ、夜までこうしているつもり?」
追求しようとしている視線をやんわりかわされる。
拒絶されているのが、分かった。
後ろ手で扉を開けて、引いた足を入れることが出来るくらいに開ける。
目だけで笑ったクルトが暗い視線をその部屋の中に向けて、ベッドの上に広げられた毛皮の首巻きと厚い外套を見た様な気がして気持ちが落ち着かなくなった。
「気を付けて」
行ってくる、そう言いかけてどうしてだろう? 口を噤んだ。




