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小刻みに震えているのは自分なのだと理解していた。でも、その震えが寒さの所為なのか、連れ戻される恐怖の所為なのか、見つけて貰えた歓喜の所為なのかはエルケ当人にも当然分からない。
ただ、ほんの少し覚悟した。彼に向きあう覚悟だ。
なけなしの勇気を振り絞った。
「エ……リク、なのか?」
訝しむ声が聞いてくる。
改めて聞かれると、突然大きな声で笑い出したい気分になった。
今更、エリクなのかとは何なんだ。少年のエリクを探していた筈なのに、疑うべくもない女性である自分をエリクなのだと信じてここまで追いかけて来ておいて、やっと顔を見てから疑うなんて順番が違うにも程がある。
きっと、開口一番に無断で逃げ出した事を責められると思っていた。それか、希望的観測で喪失感に苛まれて追いかけてくれたのかとも、つい考えた。いや、そんな訳なんてない。分かっている。
それでも考えてしまった。消えた自分を必死で探している彼らの姿と胸の内を。そう思うだけで、ほんの少し嬉しくなった。
随分自分勝手な想像だ。そんな自分を笑ってしまいたくなる。全部無責任に投げ出しておいて、なんて能天気なんだ。結局、どっちもどっちってことか。
それなら直ぐにでも引導を渡してしまおう。
「……何も知らない振りをして、ワルゼ騎士団に戻って。クルトにはまだ……、ヤンが必要だから」
俯いたままで、声を絞り出した。だが直ぐに返答は無い。
震える体に声まで引き摺られそうで、わざと低い声を絞り出した。声が掠れてこの夜風の中では聞き取りづらくても構わなかった。
「僕は…ここにはいなかった。ヤンも……僕を見つけることは出来なかった」
だから、もうそれでいいでしょう?
甘えったれだった少年のエリクは消え失せた。何も力を持たないで、不自由な片足を引き摺りながら後を追いかけて来る少年はこの世界にはもういない。
ここにいるのは、自分が撒いた種をこれから刈り取りに行く人魚。人間への情を殺し、過去の因縁を全て回収して深い眠りにつこうとしている人魚の末裔だ。
顔を上げると、ヤンの視線にぶつかった。
静かな視線だ。―――――腕を掴む指の強さとは正反対だった。
エルケの言っていることが本意ではないのだと高を括っているのか、ヤンには動揺した様子は無かった。
相手が『エリク』ならば、深く突っ込めば本心を吐き出してくれると信じているのか。ただ単に、時間を掛けて説得するつもりなのか。
確かに、こんな大きな邸に見回りの兵がいない事態がおかしい。どんな場所であれ、不審者の侵入には目を光らせている筈だ。特に、フロリアンの様な役人の邸なら勿論のこと、定期的に見回りの兵が広い庭を歩く。
だがエルケを見詰めるヤンに急いでいる様子は無い。ある程度の金を握らせて黙認させているか、薄汚れた外套の中に隠れた腕でいつもより少し長く深い眠りについて貰っているのだろうか。どちらにしても見張りを理由に、この場から逃げ出してしまうことは出来ないようだ。
きっとヤンは充分に理解しているのだ。今を逃すと、『エリク』とはもう二度と会えないのだと。
(だからこそ、僕はここでヤンを突き放さなくてはいけない)
心を決める。弱さは捨てようと誓った。
クルトが剣を持って自分の運命に立ち向かい、カヤがその強い意志でもって過去の恋に決別しているのなら、エーリヒの魂を抱いているエルケはヤンにもまた終止符を打ってやるべきなのではないか。
カヤには言うべき事を言って来たつもりだ。
「僕は、もう旗を持つ気は無いよ」
「……俺は連れ戻そうとしにきたんじゃねぇぞ」
「そう。だったらさっさとゼークトに行くべきだ。言伝を頼んだよね、聞いた?」
「ああ。お前は―――」
「僕は行かない」
行かない。
と、行けない。
ビューローの城に捕虜として連行された職人以外の、ユッタを含めた沢山の村人たちはみな、あの村に散り散りになって眠っている。
空を染めながら燃え上がった炎と、小屋を包みながら舞い上がる火の粉。きっとあの村はもう何も残っていないのだろう。
でも、今は海と共に『人魚の涙』が眠っている。今は温かい胸の奥に眠るエーリヒの代わりにこの胸に入る筈だった『人魚の涙』。エルケの命とも言えるその石は、秘密の場所に今もある。
きっとその場所にはユッタがいて、エルケがこの全てを終わらせてくれるのを待っているに違いない。人魚の為に作られた村、ゼークトは全てを知った上でエルケの存在を守り慈しんでくれた。
(僕はきっと、その為に生きている。職人の皆が命を掛けてまで僕を守って、秘密を隠し通してくれたんだから、次は僕の番だ)
なんて回りくどい道を通って、どれだけ遠回りしたのだろう?
でもきっとこの道を通らなくては駄目だった。蝶に再び出会い全ての歯車が回り始めた。きっと一人では大きな渦に飲み込まれてしまったんだろう。
でもこの遠回りで大切な存在に会えた。何も言わず手を差し出してくれたヤンに会えたからこそ、エーリヒとの約束を守ることが出来る。安定していなかった産まれたての人魚に、人を愛することを初めて教えてくれた幼い少年。
ヤンに会えたから、クルトにも会えた。全てを達観している様なのにどこか不安定な人、放っておけない人。
クルトと共にカヤにも会えた。全てを知ってまでなお、何も言わないでエルケを慈しんでくれた姉のような人。
人魚は王子だけを求めて、いつしか狂ってしまった。
願うことはただ一つ『傍にいたい』という事だけだった。でもそれを切望するあまりに、仲間を殺すという罪を冒し、手を血に染めた。
人魚には王子以外、何もいらなかった。他に何もなくても、王子だけで良かった。王子が手に入らないのであれば、自分の存在すら無用になってしまう程に。
(僕は違う。守るべきものがたくさんあるから、だから)
やるべきことをやろう。
「ゼークトに行く前にしなくちゃいけないことがあるんだ。やっと解った、僕にしか出来ないことなんだ」
王子の為に同胞を殺めた人魚。きっとやることは大して変わらないのだから、偉そうなことは言えない。
きっと涙を泡にしたとしても、また新しい『涙のようなもの』が火種となって大陸を少しずつ蝕んで腐らせていくのだろう。大丈夫、分かっている。
つかの間の静寂、求めるものは小さくそれでいて希少な時だ。
お願い。だから、この言葉で諦めて欲しい。
「それは…俺が一緒にいたら駄目なのか」
「駄目だよ、ごめん」
「すぐ傍にいなくてもいい。ゼークトまで着いたら必ず一人にすると誓う、それじゃ駄目か」
「駄目だ」
「……全て終えたら、戻ってくるんだな」
戻らないよ。
そう言えば、きっと彼は止める。ヤンだけじゃない、クルトだって、カヤだって、ワルゼ騎士団の皆だって、勿論マルガとデリアだってそうだ。皆、きっと止める。
エーリヒはヤンがゼークトのあの場所へ行くことで天へと迎い入れられるだろう。その空いた空洞に、ユッタの抱く『人魚の涙』が戻ってくる。
涙は人魚の全ての記憶をエルケに戻し、きっとその悲しみにエルケは押し流される。愛した村を焼かれ、欲望のままに石を求める全てに何をするのかは分からない。
だから、その為の布石は用意した。
エーゲルの市場に集まる商人にベルンシュタインの噂を流したのは、エルケ本人だ。近々流通するだろうベルンシュタインを狙って、蝋燭の火に集まる虫の如く誘われた者たちがゼークトに集まるだろう。―――――――勿論、あの残酷な『蝶』も。
そんなこと、言えるわけがない。
「戻るよ。姉さまを見つけたらきっと」
「エリク」
窘める声が頭上から聞こえて、エルケは顔を上げた。無意識に俯いてしまっていた。
「ヤンはやっぱり心配性だな。僕がワルゼ騎士団から勝手に逃げ出してきたってこと、忘れてない?」
「……それは、お前の言い分もわからない訳じゃねぇからな」
返事は随分と歯切れが悪い。
何と無く一番気になるだろうたった一つの事に触れてしまうのをヤンが避けているのに気付いていた。それに彼が触れてしまうと、エルケが折角築いた堰が溢れてしまう。きっと、何と無く彼はそれに気付いているのだろう。
多分、それはヤンの重荷になってしまう。そして、それはエルケをこの世界に縛り付ける鎖になってしまう。分かっていた。
微かに頬を持ち上げて笑うと、エルケは風に舞う髪を人差し指で避けた。そうして思う、もう時間がない。これ以上は無理だ。
「さ、行って。クルトだって今は気が抜けない筈だ。マルプルク公国とは、草木が芽吹く頃に必ずまた剣を交えることになる。今は兵糧も集めなくちゃいけないし、武器だって必要でしょ」
言うべき事は何? 今まで一人で集めた情報を少しでも彼らに渡したい。
忘れた筈の悪寒が体中を駆け巡り、エルケはヤンから再び目を逸らした。
「ヨープからビューローまでの公道は夜盗が横行してる。もし戻るのなら、少し遠回りでも山を経由して行った方がいいよ。でも市場も店も無いから、出来るだけ食べ物は買い溜めて外套は厚めの物を用意した方がいい」
最後に何か言うべき事は? 震える声を誤魔化そうと怒涛の如く話し続ける。
止まってしまうと、何か余計なことを言ってしまいそうで、変な期待をしてしまいそうで怖い。
曲がっていた肘を伸ばすと、温かかったヤンの体が離れていった。その間を、強い夜風が吹き抜けた。
「ブラル大司教に何か言われたら、上手く誤魔化してね。でも心配だな、ヤンは。何か言う時はクルトに任せた方がいいよ。そうだな、あとは」
あとは何? 本当に最後だ。
この身はこの陸地には不釣り合いで、願って願ってやっと手に入れた二本の脚だけど、でもやっぱり上手く使えなかった。脚さえあれば、傍にいられるのかと思っていた。傍に行けるのなら、共に立っていられるのだと思っていた。
胸に押し付けた指が少しずつ下に滑り落ちていく。
「元気で。それと、………………………お願い。………死なないで」
―――――――――その時、背骨が折れるかと思った。
仰け反った体が弓なりになって、押し付けられたものに沿って大きく撓る。
宙に浮いた腕が空に向かって、美しい月夜だという事にやっと気付いた。冷たく冴えた眩しい程の月だ。あんなに覆い尽くしていた闇はどこかに消え去ってしまった。
伸びた指と整った爪が月に被る。
赤く染まった異形の髪、覆い隠すものを無くした頭を大きな手の平が支えている。決して離そうとはしないように、強く押し付けていた。
何度も重なった後、拒む隙も与えず閉じた唇をこじ開けてくる。することが乱暴なのは、最初っから分かっていたことだ。
まるで余裕なんてものも無く、ただ真っ直ぐにその気持ちのままに何度も何度も息を掠め取られた。
熱くて、痛くて、苦しい。そして何よりも――――――泣きたくて苦しい。
(ヤンは…僕を陸地に結び付ける鎖だ)
頬に涙が伝う。
耳すら覆ってしまう程に大きな手の平は熱く、少し汗ばんでいた。辛うじて出来る吐息の、その向こうで囁く熱っぽい声が聞こえる。
「…………行くな」
答えを求めているのに、何か言おうとすると直ぐに唇を塞がれた。背中に伸ばした腕で外套の肩を押しても、それすら抑え込まれてしまった。
流れた髪にヤンの指が絡まり付く。このまま絡んだ指を縛って、傍にずっといられたら。
「一人で行くな。…………行かないでくれ」
首を振る前に頬に指が滑ってくる。伝った涙を太い無骨な指が掬い上げて、そのまま抱き締められた。
息が出来なくて苦しい。途切れた呼吸の中で空を見上げると、洩れた息が白く染まって大気に馴染み消えていく。まるで泡となって消えた人魚のように。
「………………離して」
泡となって消える時、一人でいたくないと思うのは贅沢なこと?
頬に涙が伝って奥歯を噛み締める。
どうせ最後は消えてしまうのなら、それが傷だったとしても片隅に残りたいと思うのは残酷なこと?
「……………エリク」
最初からずっとこの手は甘やかして守ってくれた。それはきっとこの胸に留まるエーリヒの灯の為し得た技。
出会った時からずっと引かれていく自分がいるのを知っていた。それはきっとエーリヒの想いと、王子を希う人魚の残滓。
じゃあ、今のこの気持ちは何? 死にたくないのだと、泡になってしまいたくないのだと、人魚の涙と共に全てを消してしまいたいと思うのと同じ位に大きく膨れ上がったこの苦しい気持ちは何?
「離したくないんだ、お前を」
守りたい。ヤンの居場所を、クルトの大切なものを、カヤの愛する人たちを、そしてこれまで出会って来た沢山の優しい人達を。
綺麗に磨かれた指越しに月を見た。あんなに美しいのに夜はどこか寒くて冷たい感じがする。
そっと背中に腕を回せば、ヤンの唇が耳に触れて来る。吐息は熱くて、少し荒い。
「傍に居させてくれ」
そっと目を閉じた。




