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『まるで君は、この石の様だ。王子はそう、言いました。
こんな美しく哀しい赤を見たことがない、そう王子は言いました。
人魚は嬉しいのに悲しくなりました。だってそれは人魚の命だったのです。美しく哀しいのは当たり前でした。
それでも恋に狂った人魚は、剣を持ちました。それを仲間達に向けて次々と突き刺します。人魚の手は赤くなり、石は手の平を零れる程に集まりました。人魚はそれを王子への贈り物にしました。
王子は喜びました。王子は知らなかったのです。赤い石がどんなものか、人魚がそれをどうやって手に入れているか。知らなかったのです。
いつしか人魚の回りには何もなくなっていました。人魚の仲間たちも、耳を擽る人魚の唄も、いつしかなくなっていました。
あんなに美しかった海もいつの間にか赤く染まっています。人魚は、王子にあげるものが何もない事に気付きました。
美しい王子に沢山の赤い涙をあげましょう。もう私には何も残されていないから、最後に私の全てをあげましょう。
ですが、突然王子は人魚の前から消えました。遠い、遠い場所へ戦へと旅立ってしまったのです。人魚の足は海へ縛る鎖となって動かず、声は遠い戦場へと届きません。
人魚は戦を憎んで泣きました。人魚は王子の傍にある全てを憎んで泣きました。その涙が嵐を呼んで風を招きました。
風は炎を巻き上げて、王子の愛した国を飲み込んで戦場にまで届きました。何もかもを飲み込んで、炎となった人魚はやっと王子の元に辿り付いたのです。
人魚が目にしたのは、嘆き悲しむ王子の姿でした。
人魚が目にしたのは、そんな王子の傍に寄り添う一人の少女でした。
美しい二本の足を持って、可愛らしい声を持つ少女でした。人魚が炎となって飲み込んだ村に住んでいた少女でした。
少女の柔らかい腕ならば王子を優しく抱き、少女の可憐な声ならば王子を癒すことが出来るでしょうに、人魚がどんなに抱きしめたくてもこの炎の腕ならば抱き締める事も叶わず、どんなに優しい声を掛けたくとも炎の声では呼び掛ける事も叶いません。
炎の腕で凪ぎ払った王子の国、泣き叫ぶ声で燃え尽くした王子の城。人魚が壊してしまったのは王子の大切なものだったのです。
もしこの足が同じ二本の脚ならば、人魚は芽ぐむ草花を踏み分けて剣を持ったでしょう。
もしこの声が届くのならば、人魚は癒す為に終わることのない子守唄を歌うのでしょう。
それなのに人魚の手は炎となって、人魚の声は全てを燃やしてしまうのです。
それならば、この足を切りましょう。それならばこの声など潰しましょう。
人魚は恋をしました 初めての恋でした
月の映る水面を抜けて 逢いに行きました
星の流れる水面を滑り 逢いに行きました
貴方に会えるのならば この足など捨てましょう
貴方に会えるのならば この腕など切りましょう
貴方のその髪は金の畝 貴方のその声は天の唄
聴く度に私の胸は震え その全ては呪縛となる
見る度に私の眼は潤み その全ては鎖となる
貴方を想う度に この心は炎となり全てを焼き捨てて
貴方を想う度に この心は水となり貴方を癒していく
止まらない涙は石となり 水面を辿り貴方の元へ
止まらない涙は水に消え 水面を辿り貴方の元へ
人魚は恋をしました 最後の恋でした
人魚は自らの胸に剣を突き刺しました。胸から大きな炎が膨れ上がりました。
その胸から大きく赤い石を取り出しました。胸から出た炎は人魚の体を包み、絡め取っていきます。
大きく赤い石を、焼け野原となった場所へ埋めるとそこから木々が芽吹きました。人魚の指先が泡となってゆっくりと消えて行きました。
王子と少女は泣きやんでその不思議な光景を見つめました。
人魚はその姿を黙って見つめました。泡になりながら、黙ってずっと見つめていました。
そして、最後に一粒だけ涙を溢しました。
それが、人魚の最後でした。』
覚悟は出来ている。エルケは黒い山にも似たヤンの姿をケープ越しに見詰めた。
伸びて来る指は一定の距離を保ち、触れるどころかこれ以上近付く気は無いようだった。それを確認するとエルケは足を止める。影もまた、それに倣ったようだ。闇の中に紛れる影がエルケにも完全に把握できているわけではない。聞こえる枯葉の音が止まったから、そう思っただけだった。
「俺の知っている人間なのか、知りたいだけだ。別に何かしようってわけじゃねえ」
「……どなたかと、お間違いなのではないでしょうか」
囁くように声を絞り出す。可能な限り、深窓の令嬢を気取って記憶の中のエルケの面影を消し去った。
こんな下手くそな芝居、もしかしたらヤンは簡単に見抜いてしまうかもしれない。それでもエルケの強い拒絶の意志さえ伝われば良かった。
まさか、はた目から見ても女性である今のエルケを、少年であるエリクと同一人物だと流石のヤンでも言い切ることは出来ないだろう。
案の定、微かに浮いたヤンの手が拳を作り、ゆっくりと下へ落ちていく。
(いいんだ。これで、きっと)
ここでヤンが諦めてくれたのなら、きっと少年であるエリクの行く先はこれから誰も知らないままだろう。エルケは充分な後ろ盾を持った上で、堂々とゼークトまで行くことが出来る。その為に今ここにいるのだから。
だから小さく頭を下げて、立ち竦むヤンにすぐに背を向けてしまえば良かった。
何を言えばいいのかヤンが悩んでいる今なら、エルケだって上手く逃げることができただろう。屋敷に入ってしまえばヤンが追ってくることも無く、繋がりも完全に絶つことが出来る。それが最上の策だ。エルケだって十二分に分かっていた。
分かっているのに、いざ行動に起そうとしても簡単には行かなかった。最後だと思うと、後もう少しだけ、と思ってしまう。
随分と闇も深まっている。夜風は一際冷えて、足元へ容赦なく枯葉を運んできた。
よろめくように引いた小さな足が、軽い山となった枯葉を踏みつければ少し湿った音も聞こえて来る。顔に巻かれたケープから手を離し、薄布に包まれた腕を抱き寄せればそこはかなり冷え切っていた。
こんな薄絹だ、どうりで寒い訳だ。今更激しい震えがきてエルケはやっと身を翻す。
振り返りざまに、ありがとう、心の中だけで呟いた。
最後まで優しくしてくれてありがとう、何もかもを話すことは出来なかったかもしれないけれど、今はあの汚い小屋でヤンに出会えて良かったと思う。何もかもに絶望して、自分の生い立ちも知らず、ただ塵の様に死ななくて良かった。
確かに現実は奇妙で、それでいて残酷で、時に苦しいものだけどそれでも、何も知らないよりはずっといい。何も知らずに置いて行かれて、一人きりされるよりずっといい。例え、この胸に芽吹きつつある淡い想いが叶わなくても構わない。
往生際悪く、まだぐだぐだしている自分に強く言い聞かせて、エルケは一歩踏み出した。
と、何の悪戯か。
刹那、一際強い夜風が吹く。
突然の激しい風は纏っただけのケープを吹き飛ばし、噴水のある中央庭園の方まで誘った。赤く輝く髪が気紛れに巻き上がり、ヤンに背を向けたエルケの正面へと棚引いてくる。
それはまるで意思を持つかのように大きく広がって、目の前の人間にその色を見せつけた。それは人には無い色なのだと、闇の中でも雄弁に主張する。
―――――――――――息を、呑んだ。
動揺するのも一瞬で、振り返ることなく弾かれた衝動のまま駆け出す。
「……おい……っ!」
ヤンの口から微かに洩れた声、それに足を止めようとはしない。
足に絡む枯葉たち。風が真紅の髪を巻き取って、走るエルケの足元に纏わりついてくる。
さっきまでの躊躇が嘘のように、エルケは鍵の開いた窓へと一目散へ向かった。窓のある方へ伸ばした手が、なるべく早くそこへと届くように強く願いながら。
追ってくる激しい足音。もうこんなに近くにまで――――――!
神よ! 強く、目を閉じた。
「……っ、おい!」
「っ……! い、痛い!」
乱暴に腕の上部を掴まれて、勢いに任せて引き摺り戻される。
思わず上げた悲鳴は、意図せず女性らしいか細い声だ。
不思議なほど冷静な胸の奥底に沈むもう一人の自分が感極まって高笑いをしているのに、エルケは思わず奥歯を噛み締めた。離れられる訳ないのだと、エルケの奥底で熱を持つのは人魚の意思だろうか?
らしくなく優しさを置き忘れて強く絡み付くヤンの腕から逃げようと、エルケは額ごとヤンの胸に頭を押し付けた。そこには温かな熱が残っている。こんな事態だというのに、冷えた体にはそのささやかな熱も嬉しかった。




