5
ステンドグラスの窓から微かに月灯りが入ってきた。もう夜だ。
エルケは絨緞に覆われたアーチ形の階段手摺に指をかけただ天井を見上げると、胸の奥で眠り続ける儚く小さな魂へと囁きかける。
「……ごめんね、エーリヒ。だけど、もう少しだけ待ってね」
返事は無い。もとより期待してはいない。
元々が教会に付属した孤児院だったというフロリアンの邸は、既に幾度もの改修や増築を繰り返し、過去の静謐さは失われているのだと誰かが言った。
双子の天使が描かれた天井を残し、悪趣味に作り変えられたこのホールも月灯りに照らされるのが天使のみなら充分に美しく、その空気は静謐だ。
せめて嘘と欺瞞に押し潰されそうな自分を赦し、そして見守って欲しい。
だが微笑みを浮かべた天使たちは、そんな何かに縋るようなエルケを見ようともしない。互いに向かい合い、故郷である天へと今にも戻ってしまいそうだ。
ここは、今やエーゲルの領主の館よりも豪華絢爛だろう。ヨープから遣わされた一介の役人が住む様な邸ではない。
領民の治める税金を横流しでもしているのか。余程の事をしなくてはここまで金遣いを荒くすることは出来ない。戦と常に隣り合わせの領、主であるヨープからもライゼガングと同じく見放されてしまった場所だ。
足元で繰り広げられる人間の欲を、慈悲深き天使たちの主はどう思っているのか。それすらも赦し愛してしまうのだろうか?
(か弱く哀しき子供たちを愛し見守る為に、天使は描かれたのに)
過去、一度しか見ていないこの天井を懐かしいと思ってしまうのは、やはりたった一人で最愛の肉親である兄と別れ孤児院に預けられたエーリヒの哀しく孤独な記憶があるからかもしれない。
でももうそれは記憶だけだ。哀しい、苦しいと魂だけになったエーリヒが苦しむことはない。
彼の命が失われたゼークトの入り口にまでヤンが行ってくれさえすれば、エーリヒは満足して天使と共に主の御許へと帰るのだろう。その時を、ただ彼は静かに待っている。
だから――――――――――
「僕なんかに構っていないで、ヤンは早くゼークトへ向かえばいいんだよ……」
かつん、と素足のまま履いた靴が鳴って飛び上がった。
いっそ、裸足で出て来たら良かった。この静寂では足音すら大きな音に聞こえてしまう。
なにせもう夜も遅いのだ。使用人の姿も流石に見当たらない。明日はまた早いのだからきっと、薄い毛布でもかけて深い眠りについている。
部屋に残された小さなベルを鳴らせば、誰かかしら起きては来るに違いない。もとより、エルケにはそんなつもりはないけれど。
薄い寝着の上に羽織ったローブの前を掻き合わせて、エルケは物憂げな表情を浮かべた。
きつく結い上げていた髪は解き、背中へと流している。光が当たれば眩い程の真紅の髪も、この灯り一つ無い場所では何色なのか区別もつかないだろう。それでも、念の為と黒いケープを頭から被っていた。
(『誰か』がここに来てくれるのを、僕は別に期待していた訳じゃない)
誰へともでもなく脳裏を過る言い訳は、ただ滑稽だ。
部屋で柔らかい寝台に体を丸めていても、一向に眠りはやって来なかった。眠ろうとすればするほどに目が冴えて指先の隅々にまで気が張り詰めてしまう。
こんな時は無理に眠ろうとしなくてもいいだろう。何度も不思議な眠りに付いていた弊害か、一人で旅をするようになって度々こんな夜が来る時もあった。傍に誰もいないという不安からか、それとも海に近付いているという気持ちの高揚の所為なのか。何故なのかはエルケ本人にもよく分からない。
でも、そんな時は決まって、ただどこでもなく立ち尽くしていたくなる。
星の瞬く空の下や、皆が寝静まった馬小屋の前で、帰ることのできるどこかを探して、寂しいと思っているのにたった一人でも立っていたくなる。
今日もまた、そうだった。
街角で御者に馬車へ乗せられてヤンと一度別れてから、決められた時間に晩餐の場へ行ってもそこには相変わらず華美な服装に身を包んだフロリアンしかいなかった。
正直少し落胆した。もう既にヤンは謝礼を貰いこの地を去ったのだと思うと落胆しながらも、同時に真綿で首を絞めるようにじわじわともう苦しまなくて済んだことに、実は物凄く安堵した。
フロリアンは、今日のエルケの行いを咎めるでもない。ただ淡々と食事は始まる。いつも通りに。
広いテーブルに白いテーブルクロス。定められた使用人とエルケとフロリアンだけの少し早い晩餐だ。
外はまだ完全には暮れてはいない。眩いほど用意された沢山の燭台に灯る蝋燭の火は明るく、部屋を照らしている筈だ。それでも沈んだ気持ちの所為か深い陰だけが視界に入り、どこか陰鬱な食卓に感じてしまう。
用意された料理は素晴らしい。あれほど豪華だと思ったワルゼ騎士団の料理すら霞む程の食材で彩られている。でもどうしてもエルケはこんなにエーゲルの状況が悪化していくばかりなのにと、余計な事を考えてしまうのだ。
「フロリアン様。私の事は何も言わないで下さいましたよね?」
誰に、と聞かなくても彼は充分に理解している筈だ。
定期的に繰り返されるフロリアンとの夕食会で、エルケは何度も自分の素姓に関して口外無用と念を押している。今日の晩餐もまた然り。
その度にフロリアンはエルケの弱みを握った様な狡猾な笑みを浮かべ、強く頷いて見せるのだ。吹き込む風も隙間も無いのに、揺らいだ蝋燭の火がその笑みの陰を深くした。
「勿論……分かっているよ。君は秘密を暴かれれば、天に戻されてしまうのだね」
「ええ、主は嘘を嫌いますから」
咀嚼するフロリアンの口元から肉汁が滴り落ちて、エルケは思わず目を逸らした。
噛み砕く禁断の果実、フロリアン的にはそういうものなのだろうか? 嘘を繰り返す度に嘘をつく事に慣れていく。
「ともあれ、何もなくて良かった。神に感謝しよう!」
「……私が、考えなしだったのです。フロリアン様にご迷惑をかけました」
「なぁに、御者の機転は素晴らしいものだったと聞いているよ。自分の手に余ると判断してあの傭兵へ助けを呼びに行ったそうじゃないか」
ああ、誰もが欲に塗れている。人の良さそうな御者の嘘に愕然とした。
「いえ……あの、ぼ――――私っ」
僕を助けてくれたのはヤンだ。御者じゃない。あいつは逃げていただけだ。馬車の中で震えていただけだ。第一御者の癖にあんなに手が温かった。氷の様に冷た過ぎる僕の指とは違っていたじゃないか。
でも駄目だ、ここで言い返しては。そう思いなおす。
エルケは言葉の先を、手にした酸味の強い葡萄酒と共に一気に飲み干した。その滴に濡れる唇をナフキンで拭う。
テーブルへ乱暴に下ろしたワイングラスが料理が殆ど残ったメイン皿に触れて、物騒な音を立てるのも気にせずに立ち上がった。もう食欲が湧かない。晩餐はお開きだ。
テーブルにはまだ料理が並んでいる。それも半分も口をつけていないものばかり。蜂蜜を塗った照りの素晴らしい鶏肉のロースト、魚肉を詰めたパイ。
甘いクリームに絡み付く胡桃も蜜煮の林檎も、滅多に食べることのできない高価な菓子なのに美味しくない。今はまるで砂を噛んでいるようだ。前にクルトがどこぞの村から貰って来た生の林檎の方が、ずっと甘くて瑞々しくて美味しかった。
こんなテーブルに溢れるほど有り余っているなら、リリーに食べさせたい。道すがら出会って来た優しい人たちに、この料理をふるまいたい。あの人たちは渇いたカビ臭いパンでも立派な食糧だった。それでもそんな貴重なものをエルケに分け与えてくれた人達。
本当に助けてあげなくてはいけない人は沢山溢れているのに、一人助けると追随して百人千人と助けなくてはいけないから見ない振りをする。たったひとりでも助けることが出来たのなら? ほんの少しでも戦を先延ばしできるのなら?
そう考えるエルケは世間知らずで、欺瞞に満ちた考えで、ただ綺麗事を吐いているだけだ。
ヤンの手柄を横取りしたらしい御者が、何をフロリアンに告げたのか分からない。体を呈して誰とも知れない人間になったエルケを残酷な死から救ってくれたのは、御者ではなくヤンだ。
それでも上手く取り回った人間が正義だ。誰が正しくて誰が間違っているなんて、簡単に判断なんか出来ない。ほとんど面識のないエルケを御者が命をかけて守るのも、また馬鹿げた悲劇の様な物だ。そんな結末を選んだのならヤンは来ず、きっと二人とも死んでいたのだろう。
(僕だってそうだ。嘘に塗れているから人のことは言えないし、何かからいつも逃げているのには変わりがない)
テーブルについたこの手がドレスに覆われていなかったのなら、あの場で苛立ち紛れに罵声を吐いて、フロリアンにも喧嘩を売っていただろう。
でも、出来なかった。出来ないまま、無力感に脱力して早々に晩餐を終えたエルケは、そのままフロリアンに促されるままにここに連れて来られた。
そして、このホール。そこに立っていたのは外套姿のヤンだ。
食事が終わるまで待たされていたのか。僅かに不機嫌そうな空気を纏って、らしくなくフロリアンの前で膝を折って見せた。無言で息を飲むエルケの横で、面倒そうに使用人へ視線を向けるフロリアン。
エルケはこの場所でフロリアンの横に立ち、ヤンの姿をケープ越しに見詰めていた。それを夜が更けた今になっても、瞼を伏せると思い出してしまう。
薄汚い傭兵ごとき、金でもくれて追い返してやればいい。フロリアンと共に、まるでエルケもそう言っているかのようだった。見てくれだけで着飾っているエルケなのに、まるで貴族の娘として身分の低い人間を見下しているかのように感じさせる奇妙な時間だった。
何かを探ろうとヤンの鋭い視線が、顔も髪も何もかもを隠したエルケへ無遠慮に突き刺さってくるのを感じた。でもその視線に負けて顔を伏せてしまえば、何か含むところがあるのかと邪推されてしまう。
だから、顔を上げ続けた。咎める様なその視線を、敢えてケープのこちら側で受け止め続けた。目を背けないエルケに、僅かに動揺した気配がする。
フロリアンがヤンに渡す為、階段下に投げた謝礼の金が入った袋が、ざらりと音を鳴らし床に落ちる。それをヤンが顔を上げないまま掴み取った。
その時だけは思わず目を背けてしまう、どうしても見ていられなくて。ただただ心苦しかった。叫んでしまいそうだった。
(ごめん、ヤン。ヤン、ごめんなさい……っ!)
ヤンは、決してこんな人間に膝を屈する人間じゃなかった筈だ。ワルゼ騎士団の総長であるクルトや元々仕えていたブラル大司教になら分かる。恩のあるノルベルト副総長にだって、膝を屈さないとはいえ礼を尽くすのは分かる。
でもこんな俗物のこんな欲に塗れたどうにもならないただの男に、見下されて馬鹿にされるような人間じゃない筈だ。
(もう僕の事なんてどうしようもないと呆れて諦めてよ。戦から逃げ出した人間を連れ戻したって、すぐに殺されてしまうだけだ。守るだけ無駄だよ。だから、さっさとゼークトの村へと向かうようにカヤへ伝言を頼んだのに)
未だエーリヒの魂はエルケと共にある。何を優先するか、ヤンだって言わなくても分かっている筈だ。とち狂っているとしか思えない。
傍にいたって、助けて貰ってありがとう、とさえ声にして言えない。低身分の人間の癖に金をたかるなどフロリアンの皮肉交じりの言葉を諌める事もできず、立ちつくすことしか出来ない。
自分はそこまでして貰えるような存在じゃない。そこまで何かをして貰える程、何も与えてもいないのに。いつも自分の身を守るだけで精一杯だった。ゼークトで掴まった時も、ビューローから逃げた時もそして戦にいた時も騎士団から逃げた時も。そして今も、大切な人間が馬鹿にされているのをただ見ているだけだ。
眠れない。考え始めると眠れない。
何が本当に大切か、何を一番に守らなくちゃいけないのか。考えれば考える程、分からなくなっていく。
階段を静かに降りて、誰も出て来ないのを確認した上でエルケは広間脇にある窓から体を外へ滑らせた。
この窓の鍵を開けておくのは、小さな買収行為ゆえだ。
フロリアンがエルケに付けたたった一人の使用人。まだエルケよりも幼い少女への報酬はエルケに毎日出される菓子を彼女へ横流しすること。いつも持て余す量の菓子でも喜んでくれるなら、捨てられるよりもずっといい。
どうしても眠れないとき、広い庭園を散歩する為だけに用意されたエルケの秘密の抜け道だった。戻る時の為に、気付かれないよう僅かに開けた窓と窓枠の間に小さな小石を忍びこませる。
窓枠に絡むケープの所為で、今日は随分と抜け出すのに難儀した。邪魔なケープは取り去ってしまえばいいのに、どうしてもそういう気にはなれない。
人気のない庭園、青く白く光る月光。
凪いだ水面がここに存在するならば、きっと美しい月鏡になるだろう。あのライゼガングの双子達と水浴びした時の様に、開放的な気持ちになれるだろう。
でもこの庭園には噴水はあれど、池も川も海も無いのだ。噴水は泳ぐには少し浅過ぎる。
寒さを感じてエルケはローブの前を重ねた。庭木は侵入者を警戒して随分と低いものしかない。冬だけあって花の姿は無く、辺りの暗さから庭園は寒々しい。
足を進める度に、靴が枯葉を踏んでかさりと鳴った。夜露に足が濡れて、体に震えが来る。それでも部屋に戻りたくは無い。だって――――
「灯りも持たずに、散歩か」
ああ、やっぱり。呼ばれていると思った。
何を言われた訳でもない。それなのに、ここに忍んでいるのだと何と無く分かった。
エルケは声も無く深くケープを被り直し、少し離れた場所へ立つ黒い影に向き直る。
さぁ、エルケが『エリク』ではない事に絶望したらいい。今のエルケは少年ではなく、立派な『女性』だ。諦めて、本来目指す場所へ今すぐに行ってしまえばいい。
かさり、細かく砕ける枯葉の音。
「少し、話がある」
出会ったあの時もまた、エルケは口を利けなかった。ただ何も言わずにいたことで、彼らは勝手に勘違いして庇護するべき対象だと思ってくれた。
エルケは闇に目が慣れて、ただ黒い影が次第に見慣れた姿へ変化していくのを黙って見守っていた。
軍靴が枯葉を踏み潰す音は随分と近くに来ている。黒い影は近過ぎて、見上げなくてはその顔を見ることは出来ない。
だけど敢えて、エルケは見上げずに正面を向く。
指が伸びて来る。一歩、後ろに離れた。
ヤンがそれを追ってくる、一瞬の躊躇も無い。それが嬉しくて、ただ苦しい。




