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涙と蝶  作者:
7章 November 藍の騎士
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 初めて来た時よりもほんの少し行き過ぎる人の数が減っただろうか。

 それでも鼻を擽る焼き菓子や揚げ菓子の匂い。違う場所で開かれている市場より混沌としている品揃えは何も変わっていない。売り物の信憑性も、値段の不安定さもだ。

 俯いて人混みの中を歩いているのに、何度も見知らぬ男に話しかけられた。未だ思いっきり走るのは難しい足ではこの混雑の中上手く避ける事も出来ず、返事も反応もせずにただ目的の場所を目指した。

(……前に来た時は、ヤンもカヤも助けてくれたよね。今は一人だ)

 胸に過る一抹の不安を、エルケは奥歯を噛み締めてやり過ごす。

 あらかじめ市場の中でもいくつか見繕っておいた店の中、やっと外出が許された日に見つけることが出来たのはたった一つだった。

 それでも一つ、見つかっただけいい方だ。ビューローのいざこざの所為でエーゲルの治安はすこぶる悪くなっている。いつ戦が起きるか分からないこんな街に長期間滞在する程、商人たちは売り場に困っているわけではない。もっと混沌とした不法市場は、この時代は大なり小なり探せばいくらでもある。

 赤い髪が漏れ出てもばれないように真紅の飾りの付けられたドレスの裾が煉瓦張りの広場に広がっているのも構わず、エルケはしゃがみ込むと大きな結晶を指差した。

 こんな露店ではお目に掛かるのも珍しい綺麗な結晶だ。この存在感なら、磨けばきっと豪華な首飾りかブローチになるだろう。

 口から出て来るのは商人のいい値である値札の金額ではなく、適正価格に近い。それでもエーゲルの市場と配慮して、エルケも随分と多めに見たほうだ。

「フロリアン様が所望です。この石を、言い値で譲って下さいますね?」

「随分と権力に笠を着た物言いだ。ここの役人は金じゃなくて、身分で物を買うのかい?」

 言いたいことは分かる。でも、得てして貴族というものはそういうものだろう。

 目の前であからさまに舌を鳴らして見せる商人へ、理知的な対応を心掛けた。今日は喧嘩を売りに来た訳ではない。

「石の正当な販売値を、ここで暴露してもいいですが。それじゃあ、そちらの割が合わないでしょう?」

「……貴族の道楽娘がこんな所で商人の真似ごとか。日が暮れたらちょっと背中を気にした方がいいよ、あんた」

 この姿のどこが『貴族の道楽娘』だ。

 少しでも分かる人間が見たら着ているものや見かけは別として、エルケが何も躾けられていない娘だということくらい直ぐに見破るだろう。そもそも貴族の娘であれば、道楽でもこんな市場の小さな店の前でしゃがみ込んだりはしない。

 石だけでなく、人間すら見抜く目を持たないのか。思わず噴き出しそうになったエルケは、突き刺しそうな視線でその笑いを飲みこんだ。危ない、怒りを煽ってしまう所だった。

 ここが真っ昼間の広場で、しかも人通りも多い市場で良かった。日が暮れるどころか、ちょっとでも背を向けたら擦り抜けざまにナイフでも刺されそうだ。物騒な視線を真っ向から受け止めると、背筋に悪寒が走る。

 申し訳なさそうに首を傾げたエルケの目立ちがちな髪は、後ろに編み込まれ長く黒いケープで覆われていた。誰に追われているか。蝶が最早エルケの存在に気づいたか分からない今、こうやって誤魔化してしまうしかないのだ。

 脅迫まがいの物言いに黙りこむ様な使者だと思われては困る。気を取り直して動じない振りを装うと、エルケは商人側から唯一見えるだろう唇を微かに持ち上げてみせる。

 確かにこんな場所へ女の身たった一人で来て、商人に喧嘩を売るなど気が狂っているとしか思えない。角を折れた先で殺されても文句は言えないだろう。エーゲルの街中にある市場とはいえ、ここはもう不法地帯になり下がっている。

 それでも声を荒げないままの会話は、擦れ違う人には値段の交渉にしか見えない。

「勿論、気を付けていますよ。でもちょっと探し物がありまして、こちらも引く訳にはいかないんだ」

 自らを『僕』と称することは無くなったとはいえ、どうしても気取った物言いに慣れることが出来なかった。結局飾るのは諦めて、こんな美しいものを羽織っているのに気付くとぶっきら棒な少年の口調に戻ってしまう。

 特に石が絡むとこれだ。話し言葉に気を向けることが出来なくなる。

(この商人は違うな。あれを持っていない)

 闇ルートで売り買いしている石は、玉石混合なのに高値が付いている。

 もっともらしい加工はされていても実質の価値は無に等しく、雑に磨かれた繊細な石はほんの少しの衝撃で簡単に割れてしまう事もあるらしい。

 無造作に転がる石の中に、眩い真紅は見当たらなかった。脇に抱える入れ物にも、未だ隠し持っているような気配も感じられない。

 今、蝶との繋がりの無い商人を仕分けるとしたら二つだ。エルケが利用できる人間か否か。

 さてこの男はどちらだろう、とエルケは未だ見当たらない『蝶との繋がり』に焦りながらも精神を研ぎ澄ませた。こちらだって弱みを見せて人混みの中刺されてしまう訳にはいかない。

「余程、加工の金を節約したいと見える。こんな職人を使っては石達も可哀想ですよ」

 エルケは宝石の様に磨かれた爪先で、指輪を器用にひっくり返した。

 獅子が二頭向き合って彫刻された指輪は、重さに負けてころりと簡単に転がっていく。裏側の土台がない部分にに隠されているのは、日に透かさなくては見えないくらいの小さな傷だ。巧妙に隠されてはいても分かる人間が見れば丸分かりだった。

 繊細な石を乱暴に扱った時に付いてしまう欠けやひび。不格好な内容物の入り方。ものによってはベルンシュタインの虫や空気の様に美しく彩る内容物もあるというのに、ここの石は磨き場所を間違えたとしか思えない。ゼークトの職人達では絶対にありえなかった簡単なミスだ。

 目の前の商人は、不機嫌な顔を隠そうともせずにエルケを睨み付けてくる。

 昨日の交渉の相手はでっぷりと太った商人だったが、今日は比較的若い男だ。無礼講だった闇市に突然入った役人の目へ立ち向かう度胸がまだあるらしい。

 昨日の商人といえば、売り物を纏めさっさとエーゲルを出ていったようだ。ぱっと見、見回った市場に姿が見えなかった。それとも、ほとぼりが冷めるまで身を隠すつもりなのかもしれない。

 彼らが求めているのは、詐欺まがいの商品でも見ない振りをしてくれるような役人のいる市場だ。とはいえ、そんないかさまだけで立ち廻ろうとする商人はこれから一気に淘汰されるだろう。いや、絶対に淘汰してみせる。

「職人が貴族に奪われて確保できないんだ。文句を言うなら、そっちで使ってる職人を紹介しろよ」

 美しく磨かれた石や宝石は、こんな闇市に来なくともものを手に入れることが出来る貴族の元へと届けられる。

 どんな情勢が悪化しても、自分達を着飾るものや食べ物には金を惜しまないのが領主というものだ。

 温かい場所で金や宝石に包まれて、香辛料を入れなくとも飲める葡萄酒を手に肉や果物を食べる。例え収穫が少なく、荒れた領地で領民が何人死んでいようとも戦を起こし、その恩恵に縋ろうとする。

 戦を起こして得るものをがあるのは、貴族だけだ。全ての恩恵は貴族や領主に帰属する。

「フロリアン様はより美しいものを所望です。群れから逸れた仔鹿が泉の女神にまみえた様な奇跡の出会いがあれば、金は惜しまないと。覚えがありますか?」

「……貴族のおっしゃることは全く分からないねぇ」

 呆れた口調で返事をしてくる商人の顔を見て、エルケも「最もだ」と思う。回りくどくて何を言いたいのか分からない。

 それでも『蝶』との繋がりを持っている商人を知らないか、とはこんな街中では口が裂けても言えはしないのだ。彼らの繋がりは特殊であり、エルケの様な一介の人間が持てるものではない。

 ただ地道に蝶を探していると噂を流し、こちら側に引き摺りこむしかない。ベルンシュタインの『人魚』が『蝶』を探しているのだと。

「……そうですか、残念です」

「おい、この石はいいのかい」

 あっさり立ち上がったエルケを見て、商人も思わず身を起こした。

 深く被ったケープの下から直接エルケの顔を覗き込んだ商人が、目を見開いたまま口を大きく開いている。見知った誰かにエルケが似ているといった訳ではない。着飾ったエルケを見て、こういう反応を返されるのはよくあることだ。

 女の服装をするようになって間もなく一月になる。エーゲルに来たばかりの頃はただ寒いとしか思っていなかった空気は澄み渡り、突き刺すような冷気になり変わっていた。いくら着込んでいるとはいえ、薄いケープで外をうろつくのはそろそろ限度だろう。

 晴れていた空に低い雲が広がって、辺りが薄暗くなってきた。今日は雪が降るかもしれない。

 何も次の句を告げようとしない商人に微笑みかけて、エルケは首を振った。

 神に遣わされた天使の微笑み。または恋の王から褒美の冠を頂きたくなる魔性の笑み、とフロリアンに称される自分の顔を、今この場所で有効活用しなくては持ち腐れだ。とはいえ、フロリアンの言っている意味は全く分からない。

「フロリアン様に相談してみる。君もこの場所にいるんでしょ?」

「……あ、ああ。まだいるつもりだが」

「それなら、いい。ぼ……私もまた来るから」

 危ない。思わず『僕』と言ってしまう所だった。

 こんな貴族の道楽娘然な恰好をしているのに似合わない乱暴な口調は、ほんの少し商人の警戒を解いたのか。無自覚な顔の威力に負けたのか。

「次は……もっといい石を用意しておくよ」

 向けた背中側で聞こえた呟きを聞いて、エルケは思わず口端を上げた。

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